第9話 ドッペルゲンガーの蒸気機関車見学
時間だけが一刻と過ぎていった。
職員達が集まってトロイに炎の魔力を注いでいる。職員達が僕には分からない魔法の専門用語でああでもない、こうでもないと議論を繰り広げていた。
素人である僕たちはその様子を遠巻きに見ることしかできなかった。
「まずいですな。」
ジェフがぼそりと呟く。
素人の僕から見ても状況が好転していないのは明らかだった。
発車まで残り時間は一時間を切ったくらいだろうか。
手を尽くしても蒸気機関車が動かなければ職員達からまた意見を求められるだろう。当然だが、今の僕に次の策はない。あの女性職員の剣幕が脳裏をよぎった。
どうすることもできない自分を恨んでも時間が過ぎていくだけだ。
解決策を考えるも時間だけが過ぎていく。
途方に暮れている僕に後ろから声をかけられた。
「賢者様。調子はどうですか?」
車掌さんが屈託のない笑みで僕に語りかけてくる。
その笑みが皆を騙しているという僕の罪悪感を刺激する。今にもその罪悪感で僕の心が押しつぶされそうになるのを何とか持ちこたえた。
車掌さんは僕の顔をしばらく眺めると突然手を叩いた。
「気晴らしに歩きませんか?せっかくですから、ご案内しますよ。」
相当追い詰められていて神妙な顔つきをしていたのであろう。
車掌さんの優しい気遣いに思わず涙が出そうになる。
「お願いします。」
僕はふらりと立ち上がると車掌さんに連れられて車庫を見て回ることにした。
「あそこは火室って言うんです。トロイを積み込んで魔法が使える魔法研究所の職員の方たちにお願いして一日分の魔力を注ぎ込んでいるんです。」
車掌さんに案内されたのは蒸気機関車で職員達が集まっている場所だ。職員達の人だかりの奥の方で三人ほどトロイに向かって手をかざしており、その手先から魔法由来の赤い光がはじけているのが見える。
「トロイについては賢者様の方が詳しいですかな?」
大らかに笑う車掌を余所に火室に目を向けると、先ほどの女性職員と目が合った。のんきに見学をしているとでも思われたのか、女性職員はトロイに手をかざしながら恐ろしい剣幕で僕を睨み返してきた。
「トロイから発生した熱いガスが火室の中にある煙管を伝って水の入ったボイラーを暖めるのです。」
車掌さんはボイラーがあるところを指し示した。
「ボイラーから熱せられた蒸気が蒸気管を通ってシリンダーをギュッと押し込むのです。その勢いでピストンが動いて車輪が回転して、シャロン号が動くようになるのです。」
車掌さんは蒸気機関車の先頭に備え付けられた縦に伸びる管をコンコンと軽く叩いた。
「車掌さん、あそこに見える箱は何ですか?」
僕はボイラーの外側に取り付けられたガラスの箱を指さした。箱の外には目盛りがついており、その中で銀色の玉が液体の上に浮かんでいた。
「あれはボイラーの水量を計る目盛りですよ。おやっ?」
車掌さんはその目盛りに顔を寄せた。
「どうしたんですか?」
「水が満タンまで入っていないなぁと思いましてね。ホーネス!」
車掌さんが指摘したとおり、確かにガラスの箱に記された赤線より液面が下にあった。
車掌さんの呼び声に蒸気機関車の先頭の陰から角刈りの男がフラフラと現れた。顔を赤くして右手に空き瓶を携えていた。
「ホーネス!仕事中に酒を飲んだな!」
車掌さんの怒鳴り声に悪びれる様子もなく男は小さくコクリコクリと頷いた。
「すいません。でも、おれの今日の整備の仕事は終わりだから先に一杯やっちゃいましたぁ……。」
「ちゃんと水が入っていなかったぞ。」
「調べたはずなんですけどねぇ……。あいつらが魔力を注ぎ終えたらすぐに水を追加しますよぉ。」
かなり酒が入っているせいか、その男は車掌さんの指摘に笑い飛ばして答えた。
「賢者様。見苦しいところをお見せしてすいません。」
車掌さんはばつが悪そうな顔をして僕の方を振り向いた。
「あいつはシャロン号の整備士のホーネスと言います。運行していない夜間に蒸気機関車に異常がないかを毎日調べているんです。」
「今日も彼が整備を担当されていたんですか?」
僕の問いに車掌さんは首を縦に振った。
「ホーネスは今週の整備担当でしてね。もちろん、彼が整備を怠ったとは思っていません。」
同じ職場で働く車掌さんが整備に間違いがないと主張するのも無理はない。
しかし、仕事が終わっているとはいえ、緊急事態にもかかわらず陰で酒盛りする男の言い分を信用しても良いのかという疑問は残る。
「整備はどのような作業をされるのですかな?」
僕の後ろからジェフが車掌さんに尋ねる。ジェフも僕と同じ所に疑いを抱いているらしい。
「私たちはトロイを補充して、水を補給して、さびや汚れを磨いたりしています。」
「この蒸気機関車を全て一人で点検されているのですかな?」
「とんでもない!今は設計技師のカインズさんを呼び出しに残りの二人は出払っていますが、必ず三人体制で毎日整備していますよ!」
車掌さんは大げさに首を横に振った。
三人で点検していたのなら、点検漏れが起こる心配はないだろう。しかし、水を満タンまで入れ忘れていたのだから三人そろっていい加減な整備をしていた可能性も否定できない。
「おい!あんた、俺たちを疑っているのかぁ?」
僕の邪推が気づかれてしまったのか、赤い顔をしながら整備士が僕の方に歩み寄ってきた。
「シャロン号はハイドランド王国の宝だぁ。馬車で何日もかかっていた移動が数時間で済む宝だよぉ。その宝は俺たち整備士のおかげで動いているってわけぇ。少しはぁ俺たちのことを尊敬したり、給料上げたり、給料上げたり、給料上げたりしてくれて良いんじゃないかなぁ?」
その整備士がまとわりつくように僕に絡んできた。酒が混じった嫌な口臭が鼻の奥に突き刺さる。
正直に言うと鬱陶しいが、賢者ならどう対応するべきだろうか?
賢者らしく振る舞おうとするとどうしても動きや思考が止まってしまう。
見かねたジェフが間に割りこんで僕を遠ざけた。ジェフの鬼のような形相を見た整備士の男は後ずさりしながら、物陰へと戻っていった。
「エリー!」
突然、僕の背後でどよめきが起こった。