第72話 ドッペルゲンガーの決闘
「このネックレスなら銀貨二枚でどうです?」
狸みたいな顔をした商人が僕に銀色の趣味の悪そうなネックレスを押し売ろうとしている。僕は商人の言葉を無視して装飾品売り場を物色していた。
「いや、少し高すぎますね。遠慮しておきます。」
そう返答すると商人は一瞬露骨に顔を歪めてすぐさま営業用の笑顔に戻して僕に礼を述べた。
ただの冷やかしの客にも丁寧に対応する商人に若干同情しながらも、次に僕は二軒隣にある装飾品売り場へ足を運んだ。そこには滑らかな絹布を使った防寒具にトロイ鉱石が埋め込まれた指輪など様々なものが雑多に並べられていた。
「お客さん、ウチはもうすぐ店じまいするから商品を選ぶなら早くしてくれよ?」
「魔法道具とかありますか?」
「ああ、あるよ。これとかどうです?」
若々しい商人に勧められて僕は商品をじっくりと物色していく。
先ほどの店で買ったばかりの手鏡を取り出して、背後を確認する。
あれだけ明るかった市場も夕日が沈んで暗くなっていた。多くの店が店じまいをして買い物客が徐々に散開する市場に僕を見張る不審者の姿が鮮明に浮かび上がってくる。手鏡を傾けて辺りを見渡しても他に怪しげな影はない。どうやら僕を監視しているのはこの男一人だけのようだ。
レンガ造りの建物の影に紛れ込むような黒いフードを被った不審者は腕組みをしながら僕の方をじっと見つめている。手元をよく見ると、時折指をトントンと叩き苛立っているのが分かる。
「では、これを買いますね。」
「毎度あり。」
僕は若い商人に銀貨三枚を手渡すとそのまま隣の店に足を運んだ。
のらりくらりと買い物を楽しみながら歩く僕の背後から突然足音が近づいてくる。
そして、僕の肩を掴まれた。
「おい!」
僕の背後に立つ不審者の野太い声には焦燥と怒りが入り乱れていた。
「何でしょう?」
僕は背後を振り返ることなく、不審者に尋ねる。
気に障るようなことは一切していないといった態度を崩すことなく、多少間抜けに聞こえる声調で尋ね返したせいで僕の肩を掴む男の握力が強まっていた。
「どうして屋敷に戻らない!」
「僕は今屋敷に向かっているところですよ。ですが、久しぶりに市場に来たんですから買い物を楽しみたいと思いましてね。」
不審者の舌打ちが聞こえる。
「早く戻れとか、買い物を止めてほしいとお願いされた覚えはないですが?」
慣習や習わし、いわゆる常識という言葉が世の中にはある。
商人には商人の、平民には平民の、貴族には貴族の常識がある。
その常識は知らないでは済まされないこともあり、その世界に飛び込むためには初めに常識を学ばなくてはならない。
「そんなこと!普通は言われなくてもわかるだろ!」
当然ながら、暗殺者には暗殺者の常識があるのだろう。
屋敷に戻れと言われたら普通は寄り道しないだろうと思い込んでいたのだろう。
だけど、そんなこと知ったことではない。
「すみません。僕は普通が何か分からない愚か者ですから……」
「屁理屈野郎が……!」
鞘からダガーを抜き取る音が聞こえる。
「良いんですか?」
店先で密着して立ち並ぶ僕たちの姿を見つめる若い商人を指さす。その視線は面倒に巻き込まれたくない忌避と騎士団に通報しないといけないという憂いが入り乱れていた。日が沈んで人通りが少なくなったとはいえ、外野が一斉に僕たちに向けてくる視線に気づいた不審者はゆっくりと剣を鞘に戻した。
日が沈むまで粘った甲斐があったというものだ。
僕の作戦が通りしたり顔をしていると、男は突然僕の背中を突き飛ばした。
思わず振り返ると、フード姿の男は袖を捲り上げ手を鳴らしながら僕の方へと近づいてくる。
「一度その体に刻んだ方がいいのかもな。」
怒りに満ちた男の声が商人たちと買い物客の衆目を集める。
中々に賢い戦略だ。
もしここで男がダガーを抜けば、刃物を持って周りの人間に危害を加えようと暴れているとして騎士団に通報される恐れがある。だが、男は拳を使った決闘の僕に申し出ている。
少なくとも、周りのやじ馬からはそう見える。
男同士の決闘に横槍を入れるのは野暮だ。血気盛んな男たちは今時珍しい若者の決闘に興奮し、女たちはそれを呆れかえって様子で遠目で見てくるだけで通報する素振りはない。
刃物なしとは言え、相手は暗殺者のようだ。対峙する僕はただの冒険者で薬草の知識が人より少しある程度の非戦闘員だ。勝てるとは思えないが、それでも不格好な戦いの構えをとる。
「一つ聞いてもいいですか……」
僕は相対する男に声をかける。無言を貫く男を無視して僕は言葉を続ける。
「植木鉢を落としたのはあなたですか?」
「ああ、そうだ。」
男は静かに肯定する。
「どうして?」
「警告だ。」
そう言い終えると男は獲物を狩る狼のように飛びかかって来た。
当然ながら、僕がその攻撃を見切れる道理はない。
腹部に入れられた拳が僕の脳髄を響かせる。身体が宙をぐるりと回り、受け身をとることもままならず、気づけば僕は星空を見上げていた。
「いたぁ……」
強い衝撃に眩暈を起こし、起き上がることすらままならない。
脇腹に走る痛みに僕は商人から身代わりにされて盗賊と対峙した冒険者時代を思い出していた。
あの時は二、三発殴られるまでは痛みを覚えていたかな……。その後はもう覚えていない……。
「大したことないな。」
野次馬たちの落胆の声と僕を見下ろすフードの男の声が重なる。
かすれそうな細い息を吐き続けて呼吸を整えようとする僕を邪魔するように、男は僕の首袖を掴んで華奢な体を軽々と持ち上げた。息が詰まりそうになるから止めてほしいと願い出る余裕もない。
男と目線が合う。そのフードの影から男の顔がちらりと覗いた。暗殺者らしい灰色の濁ったような目に左頬にある大きな傷跡が目を引く。
「もう終わりか?」
男が左手を力強く握りしめる。
「いいえ……」
精一杯の反抗のつもりで僕はつぶやく。
獲物を追い詰め、悦に浸る男に僕の声は届いていなかった。
男が勝利を確信したかのようにゆっくりと拳を振り上げる。
相手の油断を突くしか僕には勝ち目はない。
そのためにわざわざお前の目の前で武器になりそうなものを物色していたのだから……
左手に握りしめたさっき買ったばかりの魔法道具を地面に叩きつける。
男が僕の首袖を掴みながら落ちるそれを追う。
衝撃を加えると強い光を放つ光魔法の力を持つトロイ鉱石の指輪を追っていた。
トロイ鉱石が砕ける音と共に目の前が真っ白になった。