第57話 賢者への愚痴
貧民街の外れにある教会は陰鬱としていた。高そうなステンドグラスに埃が張り付き、只でさえ濃い霧に阻まれたわずかな光も聖堂に届かず、僕たちが座る椅子もすっかり冷たく湿っていた。
「辛気くさい場所だけど、女神像だけは綺麗なんだな。」
教会奥に飾られた女神像にセラが忌々しげに見上げる。その女神像は良く磨き上げられており暗い教会の中でただ一つ光を放っていた。
まるで生き辛い世に現れた貧しい民を救済する女神様を演出しているかのようだ。
そう評する僕は女神像の下で跪いて祈りを捧げる女性の背中を見ていた。
その後ろ姿は僕のよく知る人物だ。艶のある黒髪が腰の所まで垂れ下がっている女性が立ち上がった。そして、後ろを振り向くと彼女がかけた眼鏡の奥にある瞳が大きく見開いた。いつもの研究用の白衣ではなく質素な私服だが、切りそろえられた前髪は印象に残っていた。
「お久しぶりです。ソフィアさん。」
「何だ?知り合いか?」
セラが訝しむような目でその女性を見つめる。
「紹介するよ。彼女はソフィア・パーディアさん。王立の魔法研究所の副所長を務めているんだ。」
「へぇ、研究所のお偉いさんがどうしてこんな辛気くさいところに?」
「それは私の台詞ですよ。」
魔法研究所の副所長であるソフィアが長いため息をつく。
「彼女はよく懺悔しにここに来ているのよ。」
「エリーゼさん!余計なことは言わないでください!」
後ろからする声に僕とセラが振り返る。
暗い教会の中にきらめく金色の髪をなびかせながら一人の女性がコーヒーを持って近づいていた。ピタリと張り付いた法衣が豊満な柔肉を顕示し、僕は思わず目を反らす。反らした視線の先でセラから軽蔑に満ちた視線を向けられた。
「お話は僧兵から伺っています。ワタクシはこの教会でシスターをしています、エリーゼ・ハゼールです。以後、お見知りおきください。」
そう紹介して僕たちにコーヒーを差し出した。
小声でお礼を言うと、湯気が沸き立つコーヒーを一口飲んだ。
鈍った思考を呼び覚ましてくれるほどよい苦みが口の中いっぱいに広がった。
「レイン司教様との打ち合わせはもう少し時間がかかるのでお待ちください。」
お盆を片手に微笑むエリーゼをセラが呼び止めた。
「レイン司教って次期教皇の候補者争いしている奴だよな。そんなお偉いさんが何でこんな所にいるんだ?」
先走るセラの口を慌てて塞ごうとするが、どうやら手遅れのようだ。
シスターの顔が見る見るうちに曇っていき、無理矢理張り付けたような固い笑顔のままセラの質問に答えた。
「選挙活動と思ってください。私も教皇を選ぶ一票を持っていますからね。」
一言残すとエリーゼは足早に教会の奥の部屋へと姿を消した。
教会の聖堂には三人しか残っておらず、他の信者は見当たらない。
外からしとしとと降る雨音だけが響く。
突然訪れた静寂に気まずさを感じた僕は副所長に話を振った。
「えっと、ソフィアさんはお仕事の方、どうですか?」
「答える義務もないかと思いますが?賢者様?」
ソフィアは素っ気ない態度で突き放すような回答をする。どこかぎこちない二人の会話に見かねたのか、セラが咄嗟にフォローを入れてくれた。
「さっき懺悔してるとか言ったけど、どんな内容なんだ?」
にやにや笑うセラの姿を見てソフィアがため息をつく。
「そ、そうですよ。僕たちに何ができるかは分からないですけど、協力できることがあれば遠慮なく言ってください。」
僕の言い終えた次の瞬間、ソフィアはいたずらな笑みを浮かべて僕に依頼をしてきた。
「では、私を魔法研究所所長に推薦していただけるかしら?」
いたずらな笑みのままうっすらと開いたソフィアの瞳は憎悪に満ちていた。突如向けられた憎悪に僕は思わずたじろいだ。隣でにやにや笑っていたセラも僕と同じように警戒していた。
「それとも?トップは才能あるものに任せるというお考えは今も変わらないのかしら?」
ソフィアの言葉を聞いて僕は魔法研究所に見学した時のことを思い浮かべていた。
長として組織をまとめる仕事はほとんど副所長であるソフィアが担当していた。所長のモルはまだ幼く、そのような事務作業に向いていないから代わりにせざるを得ないのだろう。役職と実務が一致していないことに不満があるようだ。
「所長になりたいのですか?」
どう返事をすれば良いか分からない僕はとりあえず答えを先延ばしにしてみると、僕の曖昧な返答にソフィアは肩を震わせていた。
僕に、もとい賢者エレナに思うところがあるらしい。
他人がしでかしたことなのに僕が叱られなきゃならないのかと辟易してしまう。
世の中そんなものだと覚悟を決めて、僕はソフィアの話に耳を傾けた。
「本当は私が所長になるはずだった……。トロイ鉱石を使った魔法剣を一般兵士が使えるまでに改良した。その功績で私が所長になるはずだった……。」
そして、ソフィアが僕を睨み付けた。
「アンタが横から割り込んでアイツを所長に押し上げた!」
ソフィアの瞳に憎悪と嫉妬が入り交じっていた。
彼女は今まで溜め込んでいた思いの丈を僕に、いや賢者エレナにぶつける。
「周りにいる誰もが私を所長に推していたのに、お前がどこからか連れて来た余所者が王国中を繋ぐ蒸気機関車を発明した!」
そして、彼女は力なく呟く。
「そしたら、皆揃って手のひらを返して……。そうよね……、私の発明品よりアイツの発明の方が凄いもの……。私もアイツより年上だし、子どもに意固地になるのは世間体としてみっともないし……」
彼女は雨漏りの染みが残る教会の天井を見上げた。
「でも、才能に負けたのはやっぱり悔しいわ……」
静かにため息をつく彼女を僕は見つめることしかできなかった。
突然現れた天才に自分の夢を絶たれた凡人……。王国の魔法使いの憧れでもある魔法研究所に入り、血の滲むような努力を一瞬で潰されてしまった悔しさ……。
丸めた彼女の背中を見ていると、賢者になりすます愚者の心に冷たい何かが突き刺さる感覚に陥る。
「でも、すっきりしたわ。」
「えっ?」
ソフィアの言葉に思わず素の僕の声が漏れる。
ソフィアの瞳から先程まで感じた憎悪と嫉妬がいつの間にか消えていた。
「あなたに私の本音を言えてすっきりしたわ。この場合って賢者様への不敬罪になるかしら?」
和らいだ彼女の言葉を聞いて僕はそっと胸をなで下ろして、首を横に振った。
「いえ、なりませんよ。私は先程までのあなたの発言を何も聞いていませんから。」
「それにしてはひどく動揺していたみたいだけど?」
ソフィアの追求に首筋から冷や汗が流れてくるが、大げさに咳を払ってその場を誤魔化した。
賢者でない偽物の僕に言っても何の解決にもなっていないが、彼女の心が少しでも安らいだのなら成り代わった価値はあるのだろうと自分に言い聞かせることにした。
「作戦成功ですわね。」
後ろから聞こえてきた声に振り返ると、陽気な笑顔を見せるシスターのエリーゼと慈悲深い目で見つめる司教のレインが佇んでいた。
「エリーゼさん。まさか、仕組んでいたの……?」
「とんでもない!アンタが日頃から愚痴をこぼしていた賢者様が来たのは本当に偶然ですわ!せっかくのいい機会だから二人きりにさせてあげようというワタクシからの粋な計らいですわ!」
陽気な笑顔のままエリーゼが僕とソフィアの顔を交互に見つめると、深く頷いた。
「アンタがこの教会に懺悔に来なければワタクシの仕事も楽になるからね。」
「エリーゼさん?今の言葉は聞き捨てなりませんわね。」
レイン司教が微笑みながら無言の圧をかけてくる。
一方のエリーゼは自分の失言にようやく気づいたが、すでに手遅れだ。
焦りながら笑って誤魔化そうとするエリーゼを余所にレイン司教が僕の方を見た。
「賢者様。私に用件があると聞きましたが?」
すっかり忘れそうになっていた本来の目的を思い出して僕は容疑者のレイン司教に話を切り出した。