第36話 ドッペルゲンガーの帰還
頬に走る激痛が僕をまどろみから現実へと引き戻した。
「着いたぞ。」
僕の目には馬車の中を覗くカーサスと僕の頬を引っ張るクロエの姿があった。
王国から来た送迎用の馬車に乗り込んだ後、泥のように眠っていたらしい。
その証拠に帰路の記憶がほとんどなかった。
早く降りるよう催促する二人に引っ張られて馬車から降り立つと、目の前には月明かりに照らされて白色に輝くエレナの豪邸が待ち受けていた。
他人の家ではあるが、帰って来れたことに安堵のため息をついた。
「では、失礼します。」
送迎に来てくれた王国の兵士達は馬に鞭打つと、その場を離れて王城の方へ姿を消した。
いななく馬の鳴き声と馬車が揺れる音が静寂に包まれた貴族街の夜に響いた。
「すごい!ここが王都の貴族達が住む町なのね!」
クロエが辺りをキョロキョロと見渡した。
貴族街には相応しくない浮浪者のような服装ではしゃぐクロエを咎める警備兵は辺りにはいない。
年相応の少女のように振る舞うクロエを遠目にカーサスが呟いた。
「どうしてあの子をここに連れてきたんだ?」
「約束してしまいましたからね。あの子を疑ってしまった僕への罰ですね。」
目の前にいる無邪気な少女を疑ってしまった罪悪感に苛まれていた僕をこれで赦してくれるなら安いものだ。
僕はクロエの後ろ姿を見ながら呼び鈴を鳴らした。
呼び鈴を鳴らしてしばらくすると、屋敷の玄関に明かりが点いた。
そして、三人の従者が僕を迎えてくれた。
「どうだった?」
セラがニヤリと笑って僕の顔を覗き込んだ。
僕は笑顔で返事を返した。
「お嬢様の顔に泥を塗ることはしていないでしょうね!」
セラの後ろからナターシャが声をかける。
そして、僕の後ろにいたクロエの姿にナターシャは驚いた様子で口を塞いだ。
「その子は一体?」
「私はクロエ・カーティスです。」
「あら?随分と礼儀正しい子ね。」
可愛らしくお辞儀するクロエの頭をなでるとナターシャは僕の方をじっと睨んできた。
「アンタが連れてきたの?」
ナターシャの質問に僕は頷いた。
「アンタ、もしかしてロリコン?」
「違いますよ……」
僕とナターシャが言い合いをしている傍らでジェフがカーサスにねぎらいの言葉をかけていた。
「ご苦労様でした。カーサス。」
「おい、ジェフのじいさん。この臭いコートは返すぜ。」
カーサスはぼろぼろになったフード付きのコートをジェフに乱暴に押しつけた。
ジェフは鼻を押さえてそのコートをつまんだ。
「贈り物は役に立ちましたかな?」
「ああ。役に立ったぜ。じいさんにしては随分と気の利いた贈り物だな?こんなコートどこにあったんだ?」
「この屋敷を漁れば古着の一つや二つは出てくるものですよ?」
「古そうな男物のコートがまだ屋敷に残っていたのか?」
そう言い残し屋敷に先に入っていったカーサスの背中をジェフは見届けた。
そして、玄関で喋っている三人にジェフは声をかけた。
「夜中に騒いでいてはご近所迷惑ですぞ。」
ジェフに促されて僕たちは屋敷に向かって行った。
お客様を丁重にもてなさなければと最高齢のジェフの一声で、従者達は厨房に向かい残っていたスープを温め直してくれた。
僕とクロエは二人そろってその温かいスープを一気に胃袋に流し込んだ。
実家に帰ってきたかのような温もりがそこにはあった。
「でも、その子にアンタの正体をバラしても良かったわけ?」
ナターシャが僕に尋ねてきた。
僕はクロエの姿を見て一人うなずいていた。
僕の身分について、クロエの乳母には賢者の弟子とごまかして、成り代わりに協力してくれたアンジュさんにも賢者の弟子とごまかして、センガス兵士長には賢者から賢者の弟子に訂正して事なきを得た。
しかし、クロエには賢者とごまかしてしまった。
賢者と言った方が信用を得やすいと判断したのが間違いだった。
周りが僕のことを賢者の弟子と口にする状況にクロエが疑問を抱くのは当然だろう。
そして、クロエを屋敷に連れて来る約束をしてしまい、僕の従者が賢者呼ばわりするのをクロエは目撃する羽目になる。
言い訳も思いつかず、帰りの馬車で心身共に疲れ果てていた僕は本当のことをクロエに白状せざるを得なかった。
「一人くらい正体を知っている人が増えても良いんじゃない……?」
「そんな調子だと先が思いやられるわね。まったく……お嬢様なら完璧にこなしたでしょうね。」
ナターシャの指摘に僕はナプキンで口周りを拭きながらエレナのことを思い出していた。
やはり、エレナならもっとうまくやれたのだろうか……
「まぁ、良いんじゃないか?ベストを尽くしたんだろ?」
そう……僕なりによく頑張ったつもりだ。
セラの言葉に今は自分自身をねぎらう時だと思い直し首を振った。
「セラ!調子の良いこと言っちゃって……!一つのミスが後々に響くこともあるのよ!」
「どうなるかなんて分かんないだろ?あんまり将来のこと考えてると老けるぞ。」
ナターシャをからかうセラの態度にナターシャは黙り込んで、テーブルに突っ伏した。
「アンタはお嬢様の経歴に傷が付いても良いの?」
テーブルに突っ伏したナターシャが顔を上げてセラを見つめる。
「そういうわけじゃないよ。今はラミィの凱旋の余韻を噛みしめようってハナシ。反省するより前にねぎらうのが先じゃないの?」
セラの発言にナターシャが身体を起こしてため息をついた。
「クロエちゃん、ラミィ。おかわりは要る?」
クロエはどこか気恥ずかしそうに首を縦に振り、僕も彼女に甘えておかわりを要求した。
ナターシャは二人のカップを取り上げると、厨房の方へと歩んでいった。
僕とセラの方を見た。
セラは僕にサムズアップで答えた。