弐 騙り殺して下さい
文久三年十月
寒風に足を速めていた人々の内、男は皆くるりと振り返る。
「あに様、何買うの?」
「少なくとも貴様がさっきからずっと見ている錦絵ではない」
お恋達の前に並べられているのは、無惨絵と呼ばれる錦絵。人の切り刻まれた死体だの、心中現場だのを描写したものだ。
「えーこれなんか良いと思うけどな」
指差すのは生首を銜えた女の絵。血糊に濡れたざんばら髪の表現は確かに秀逸である。
「絵の良さは問題ではない」
今日は夕食の材料をさっさと買って、珍しく手に入れた英国の新聞を読むつもりだったのに、お恋が付いて来るとこれだ。
「あ、これも良い!」
「だから絵の良し悪しは問題ではないのだ」
「そうだな。やっぱり生身だ」
いい加減イライラしてきたところに、男の声が降ってきた。
はっと気づいた時にはもう千鶴の肩はその男の手が掴んでいる。
「お、ビックリした顔も中々だ」
二ヤリと笑う長身の男。細面の美丈夫に入る顔に肉食獣のような体躯。そして何より。
「……新撰組か」
だんだら模様の羽織を睨みつける。
「おお、その目。益々好みだな」
「触れるな」
全身が泡立つ。男の手はがっしりと肩を掴んでいる。外れない。
「駄目」
男のもう一方の手を引っ張ったのお恋である。
「いじめちゃ駄目。あに様は男性恐怖症なんだから」
「貴様ッ」
今度は妹を睨むも両方全く堪えない。
「あに様?」
新撰組の男はずーっと千鶴の上から下まで舐めるように見て、笑った。
ばれたか。
「男が怖いからって、男の振りをすんのは無理があるぜ」
ばれてはいなかったが、屈辱感は感じる。
「黙れ」
刺すような視線をものともせずお恋の手をあっさり振りほどき、千鶴の顎に手を添える。
「……氷だな」
頬を撫でられる。
「何がだ」
頬骨から顎を再び指が行き来する。
「お前だよ。俺は気に入った女は俺が名を付ける。お前だって犬だの猫だの飼ったら自分で名前付けるだろう? お前はその凍てつくような目が気に入った」
顎を待ちあげられ、にやけ面と完全にかち合う。
「何があったらそんな眼差しになったんだ?」
何があった等――。
考えても益体も無い事だ。
「一瞬動じたな。男が怖いからか? それとも……」
「何してんだこの変態野郎があああーーーッ」
千鶴の瞳を覗きこんでいた後頭部に、怒声と飛び蹴りが入った。「がふっ」と呻き地面に崩れ落ちる新撰組の男。飛び蹴りを食らわせた男が着ているのも、だんだらの羽織。そしていかつい体の上に乗っている顔が……如何見ても極道。
「いってえな! 何すんだせっかく玩具奴隷名前は氷、を手に入れたとこだったのに!」
「手に入ってねえだろうがああッ。よしんば手に入っていたとしても説得してそんな人生の迷宮に陥ったお嬢さんを救い出すわ!」
「アンタに救い出されたら人生が迷宮じゃなくて極道に入るぞ! 極まっちゃうぞ! 良いのか!?」
「入るのは士道だ! 極めたいとは思ってるけどね! っていうか何が言いたい?」
「あそこのおばさん達が噂してますよ」
先の新撰組の男が指差した方を見れば、中年の女達がひそひそと「壬生浪や壬生浪」「ヤクザ隊やわホンマに」と言い合っている。新撰組の評判は巷ではこれで通っている。
「ちょっ! テメエ何してくれてんだ! せっかく前局長の悪印象払拭しようと頑張ってたのに!」
「頑張ってそんな顔になったのかよ。あんまり頑張らない方がいいぜ」
「何が言いたいい!」
「顔がヤクザです。取り替えてきなさい近藤局長」
「おまッ殺すよ!? 本当に殺すよ!? 殺して性根を入れ替えるよ何処かの立派な侍と」
沈黙して新撰組の二人を見守るお恋と千鶴に今度は背後から声がした。
「すいません、お嬢さん方。驚かして」
振り返れば着流しの男。その青黒い皮膚には右腕に蛇。左頬にだんだら模様の刺青を入れている。
「総司! お前何してんだ!?」
近藤の声に刺青男がのんびりした口調で返答する。
「いや、こないだ顔に刺青入れたんですけどね。どうも奇抜さが足りないんですよ、俺としては。つーわけで究極の刺青、チンコに彫る、ってのをやろうと思ってんですが、漢字で「誠」って入れるかチンコもだんだらにするか迷ってまして。で、お二人に相談しようと探してたら丁度この現場に遭遇、と。話は戻りますがどっちが良いと思います?」
「全てにおいて最悪だよ! お前ら俺の努力ぶっ壊して楽しいか!?」
「いや、楽しい事をすると何故か近藤さんの努力がぶっ壊れると。脆い努力なんじゃねえの?」
「土方さんと同じです」
「解った! お前らの脳みそぶっ壊すわ!」
怒鳴り合っている男達、馬鹿なやり取りだが、こいつらはあっさりとお恋と千鶴の間合いに入り、刺青男に至っては背後まで取っている。
手練!
じり、と間合いを取る。
「脳みそぶっ壊す前に仕事のようですよ」
新撰組達に気合が奔る。
「場所は分かるか? 沖田」
「大体は」
「そうか。行くぞ」
だんだらの羽織が踵を返す。
「またな。氷」
またにやけ面。
「土方さん、あれが好みなんですか。相変わらず良い趣味してますね」
「そうだろう。天性の魔性だぜ。あれは」
「そうですか……。俺は黒髪の方が良いですがね」
「あ? ガキだろあんなもん」
「あんたらには分からねえでしょうよ」
くるり、とお恋の方を向く。
「鬼を好むってのはねえ……」
悦楽の表情を浮かべる、黒髪の鬼。
新撰組が走り去った。
「あに様……僕らも行こう。場所は祇園だよ」
「……何か聞こえたのか?」
鬼、お恋は笑った。
「聞こえた……。聞こえたよ……。断末魔……。ク……ククククク」
道の真中に、死体は三つ転がっていた。赤黒い血は未だ流れ続け、だんだらの羽織をドロドロに彩っている。
死んでいるのは、新撰組隊士であった。
屋根の上から見下ろすと、近藤が肩を震わせている。
「クソッ誰が……」
土方が片目を瞑り腕を組む。
「こいつらは全員目録貰う腕前だ。それに真昼間にも関わらず目撃者はいねえ。相当の早業で仕留めたって事だな。討幕の奴らか……」
「長州派らしいですぜ」
沖田が店の壁に縫い付けてある紙を指差す。紙は新撰組隊士の刀で壁に刺さっていた。
小声で問う。
「読めるか? お恋」
黒い目を細めて、刀ではりつけられた文章を読み上げた。
「今宵子の刻、新撰組屯所に参る。長州派飴買い幽霊。……だってさ」
「ほう……」
蜜色の目も細まった。
「良い度胸だ」
屋根の上から二つの影が消えた。
「千鶴、如何する気だ?」
赤燕が最も上座に問いかける。
「俺達の名を騙るとは……大したタマというか……。何者なんでしょうねえ……」
慶庵も頭を掻く。
「それより如何するかだろう。もう時間がねえぞ」
時刻は子の刻六時間前。
「その通りだ。時間が無い」
湯呑の茶を啜る。
「故に下準備を迅速に行え」
「……何か策が」
とん、と湯呑が置かれる。
「策と呼ぶほどでも無い。飴買い幽霊が新撰組屯所に行くまでよ」
菓子屋の前で蹲る一人の男。背負った大きな巻物が地に着いているのも気にならぬようだ。
「くそ……俺様とした事が……」
菓子の甘い匂いが漂ってくる。
「一生の不覚だぜ……」
まさか京まで来て。
「煙草切らしたなんざ……」
そう、彼はニコチン中毒の禁断症状と戦っていたのである。
「金は管理されてるしなあ……。こんな事でわざわざ戻ってる時間もねえし……。あーっくそっさっさと来いよ、あの野郎」
「ねえ」
「あん?」
若い娘の声が降って来た。
「お菓子欲しいの?」
桜模様の振袖の胸元には金平糖の包みが抱えられている。
「一個だけならあげるよ」
「一個だけかよ! 何個入ってると思ってんだその袋に! つーか別に菓子が欲しい訳じゃねえし!」
「違うの? 如何見てもお菓子欲しさに悶々としている可哀想な駄目な少年、にしか見えなかったよ」
「お前は腹立つ言い方選んでんのか! つーかさりげなく「駄目」って入れただろ! 何処が駄目だどの辺が駄目だ!? 後少年ってお前幾つだ俺は十六だぞ!」
「十七歳だよ」
「一歳違うだけだろうが! つーか駄目については言及しねえのかそっちの方が重大だぞ」
「あに様が駄目な奴は何言っても駄目だから説明しても理解できないって言ってた」
「俺は一体何の因果で初対面の小娘にここまで罵られてるんだあ!?」
「別に罵ってないよ。後、僕は小娘じゃないぞ。ちゃんとお恋って呼んでよ」
「今名前初めて知ったんですけど! 有名人なのかお前は!」
「有名人じゃないよ。有名人だと知った途端に、訳も分からずきゃあきゃあ騒ぐのは、日本人の良くないところだってあに様が言ってたけど、君には関係ないね」
金平糖の袋を差し出す。
「だって君、異人さんだもの」
溜め息を吐いて金平糖を一粒取る。
「異人さんって名前じゃねえよ。八雲だ」
「ヤクモ? 日本人みたいな名前だね」
金平糖を口に入れた。
「この名前は日本人が付けたんだ」
「ふうん。あに様がね、日本で一番古い歌で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」っていうのがあるって言ってた」
金平糖を噛み砕くと、口中にべたべたな砂糖の味が広がった。
「クソ甘え……」
「あのね、あに様がね、この歌は「絶対守る」って決意の歌だって」
「うるせえな!」
金平糖の欠片を吐き出す。
「あに様あに様ってなあ、兄貴なんてロクなモンじゃねえぞ。ただ兄貴ってだけで全部持って行っちまうんだからな!」
「何か……奪られたの?」
東洋人特有の薄い唇が問う。
「お兄さんに何か奪られたの?」
「……ッ。何でもねえし関係ねえよ。喋りすぎちまった。もう行くぜ。てめえに話す気分じゃねえ」
「ふうん……じゃあさ、また会ったら教えて」
「もう二度と会う事ねえよ」
「じゃあ約束しても構わないだろ?」
「どういう理屈だよ……」
溜め息を吐いて歩き出す。
「分かったよ。もう一度会う事があったら教えてやる」
煙草が吸いたい。
子の刻。
新撰組屯所は物々しい警備に包まれていた。行き交うだんだらの羽織。刀の音。掲灯のほの暗さに薄い影が伸びる。
「まだかなあ……」
黒い上下の着物姿でお恋は小さく呟く。後ろで一つに括った髪には、椿の簪。
「逢い引きなら別の所でしろよ。屋根の上なんざ、猫じゃあるまいし」
ふいにだんだらの羽織の一つが言った。こちらを見上げる顔には同じくだんだらの刺青。
「僕を捕まえないの? 今なら仲間がいっぱい居るのに」
影が濃くなる。他の隊士は会話に気付かない。
「あんたは飴買い幽霊じゃねえ」
「如何かな」
「思わせぶりな台詞にもなってねえぞ。隊士が死んだ時、ちょうど俺達と一緒だったろ」
ドン!
爆発音。
「火が上がったぞーッ」
「ついに襲撃だッ」
屯所の南がめらめらと燃える。
「俺はな、侍でも何でもねえ、獣だ。護らねえ戦いも、喰う為じゃねえ戦いも、しねえ」
「変なの」
「だからあんたと戦いたくてしょうがねえ。獣が鬼を喰いたくて……しょうがねえんだよ」
「じゃ、戦おうよ」
「今は時じゃねえ。襲撃だ。沖田隊長は急ぎ駆けつける」
屋根の上から、飛び降りる。頭を下に、顔は屯所の方を向いて、月下の無明が。
「じゃあ、時を待ってる」
ニイ、という笑顔が交わされる。着地した時には沖田はもう走り去っていた。
「沖田総司……うぞうぞしない? ねえ……君」
炎の方角から現れた者に声を掛ける。
「そんな言葉知らねえよ」
「異人さんだから?」
背中に大きな巻物を背負って。
「意外に早く会えたね。八雲」
「てめえが来ると知ってたら来たくなかったぜ、お恋。いや」
巻物が解かれる。
「人斬りお恋、とでも呼んだら良いのか?」
巻物に挟まれていたのは、細く薄い短刀を数珠繋ぎにした鞭状の武器。
「そんな呼び方されたの初めてだよ。僕、長州派としては名前バレないようにしてるから」
「気にいらねえか?」
「ううん」
カチャリ。鯉口が切られた。
「気に入った」
鋭い風切り音。横薙ぎに日本刀を振るう。
「如何して此処に来た?」
刀に短刀が絡みついていた。
「あに様の推測。君、高杉先生と繋がりがあるだろ」
高杉晋作。維新志士のカリスマの男。長州派維新志士として、桂小五郎と双頭の存在である。そして文石達は高杉晋作配下である。
「繋がりっつっても薄いぜ」
「あに様はそれも言ってた。相手は飴買い幽霊が島津を味方に付ける長州派の策って事しか知らない。誰がやったのかまでは知らない。だからこんなやり方をして、長州派の誰が動くのか見ようとしている。此処に潜んでいたのは、表通りから堂々と君が来る訳がない。だけど、来ない訳も無い。それで」
「へえ……随分と兄貴を信頼してるんだな」
「うんっ」
「馬鹿じゃねえの。血の繋がりはただの赤い水の繋がりだ。価値なんざねえ」
絡みついた刃を引き寄せられる。体が近付いた途端、お恋の右足が腹にヒットした。短刀が外れた瞬間、刀を突きの姿勢に変える。腹を蹴られて蹲る八雲がギリギリで体を捻った。突きは外れた。
「価値はあるよ。あに様は僕の為に色々なものを捨てて、色々なものをくれている」
蹲った体勢から足に向かって短刀を鞭のようにしならせる。お恋が跳ねた。短刀がかすった部分の袴が斬れ、右足のふくらはぎから血が流れ出す。
「だからてめえは兄貴の言う事聞いて人斬りなんざやってるわけか」
「違うよお……」
袴の切れた部分を擦ると、血がべっとり掌に付く。その真っ赤な掌を眺めながら、愉悦の表情を浮かべた。
「僕は大好きなんだよ……。人を斬るのが、人を殺すのが、死のギリギリの瀬戸際まで追いつめられるのが! 堪らなく好きなんだよお……」
痛みなど無いかのように。否。痛みすら悦楽の一部として、お恋は跳ねた。
頭上から襲う日本刀。
「うッ」
日本刀を絡み取り、反動でお恋を地面に叩きつける。
起き上がると、斬撃が矢尽き早に繰り出された。短刀で必死に弾くも、体のあちこちから血が噴き出す。
「くそッ」
斬撃の隙間をついて、短刀をお恋の体に絡ませた。
新撰組隊士を斬った技だ。常人ならバラバラになる。しかし。お恋は刀で自らの体と短刀の間に隙間を作り、それを防いでいた。
「はッ……前だけ防いでも」
ぐ、と短刀を引っ張る、お恋の二の腕背中から血が噴き出した。
「もっと……もっとだ……」
目の前の娘の壮絶な笑みに、戦慄を覚えている自分に気付く。血を流しながら、獰猛に、笑っている。
「もっと……もっと……もっともっともっともっと! 僕を追い詰めてみせろオッ!」
短刀が弾き解かれた。
直ぐに二撃目をしならせる。刃が日本刀に絡みつく。
「ハアッ」
短刀がそのまま引っ張られ、手の中から引きずり出された。巻物の柄を握ろうとする、そこには懐刀が入っている。
「クハハハッ」
巻物を弾き飛ばされた。
次の瞬間、左目に刀が突き立てられる。それは随分とスローモーションに見えた。左目に一直線に向かってくる刀。そして、銃声。お恋の両手足から噴き出す血。
見えない左目。襲ってくる激痛。倒れる、二人の体。
「あに様……」
お恋を薄青い着物の女が抱きとめた。いや……あに様と呼ぶからには男か……。
崩れ落ちていく八雲も誰かに抱きとめられた。漂う硝煙の匂いをさせている節くれだった指の持ち主は。
「やはり貴様か。坂本龍馬」
「おまんは文石千鶴忠朋いうそうじゃの」
残った右目に、見覚えのある細い目の男が映る。
「龍馬……」
「手酷くやられたのう、八雲。でも、おまんのおかげで目的は果たせたぜよ」
千鶴の声が厳しい。
「最近、長州と薩摩の同盟の話が持ち上がっている。何でも纏めようとしているのは貴様らしいな、坂本龍馬」
「ほう、話は届いとるようじゃの」
余裕たっぷりに龍馬が返す。
「うむ。そして薩摩は長州からの手土産を希望している、ともな。重要な手土産を」
「何処行くにも土産は必要じゃろ」
「その土産が、京で人斬りとして右に出る者のいない長州派の情報、という訳だ」
「おーおー、自分の妹をえらい持ち上げよる」
「事実だ。そこで捨て駒としてその異人の小童を使った」
「それは……」
八雲は呼吸を必死にしながら言葉を発した。
「それ……は……外れだ……。俺は自分から……龍馬の役に……立ちた……い……と」
「何故だ。パトリック・ラフカディオ・ハーン」
八雲は左目を大きく見開いた。
「何処で……その名前を……」
お恋を抱き留めながら、懐から新聞を取り出す。そこには英語でセント・カスバーツ校の記念式典の写真。壇上に立っているのは――。
「八雲……?」
お恋の台詞を切れ切れに否定する。
「違う……それは……俺の双子の兄貴……だ。俺の母親は……俺達を産んで直ぐ気が狂って……俺達は叔母に育てられた……。あのババアは……俺の名前を奪いやがった……。俺達が学校に行く……頃……ババアは金に困っていた……。でも見栄っ張りだったあのババアは……兄貴にだけ名乗る事を許して学校へ行かせて……俺は……」
『叔母さん。何で僕だけ船に乗るの?』
『遠い国に行くんだよ』
『おら、ガキさっさと来い!』
『何処に行くの? 嫌だよ……嫌だよ……それに……僕には名前が……』
『名前なんざお前にゃいらないんだよ。それともお前は……兄ちゃんの方を売り飛ばしたいのかい?』
「そうやって清に売られた俺を買い取ってくれたのが……八雲という名前をくれたのが……人間として見てくれたのが……龍馬だった……。俺が何年振りに暖かい飯が食えたのか……知りもしねえで……言うな。俺は……こいつの作る自由な国のためなら……何でもする……。ただ血塗れになって喜んでいるてめえの妹は……気に……喰わねえ……てめえ本人もだ……」
「いや、こいつの言う通りじゃ、八雲」
意識が沈んでいく。
「わしはおまんを利用している。ガキのお前を暗殺者に仕立て上げて表沙汰にできん仕事をさせている。今回かておまんが死ぬかもしれんと思っとった。こいつと同じ穴のムジナじゃ」
体が暖かい。
「狡いよ……てめえ……」
全身を預けて。
「そこまで言われても……絶対に俺が離れないって……知って……て言ってんだろ……ムジナ野郎……」
もう体に力が入らない。それでも暖かい。とても。
「八雲、気が合わぬのは当然だ」
目の前が真っ暗になっていく。
「坂本龍馬」
「文石千鶴忠朋」
「貴様らを」
「おまんらを」
二人の声が重なる。
「利用はさせて貰う」
意識が途切れる。
「だが、馴れ合いはせん」
紫煙を深々と吸い込み、吐き出す。
「ぷっはーっ美味え!」
包帯を左目に巻きながらも、久方ぶりの煙草を文字通り満喫する。
「それだけにしといてくださいよ、八雲さん。本当はまだ吸っちゃいけないんですから。龍馬さんに知れたら……」
「大変じゃのう」
いつの間にか開いていた襖の向こうの人物に、無言になる他無かった。
「わあ! ありがとうあに様!」
先日の無惨絵を早速布団の上に広げて、歓声を上げる。
「……」
千鶴は黙々と文机に向かい何やら書き物をしている。
「入っても良いか?」
「何用だ、赤燕」
ぼさぼさの頭を掻き掻き、あのよう、と。
「この間の偽飴買い幽霊の時に使った奴で火薬が切れたんだが」
あの爆発と火事は火薬使い赤燕の仕業で会ったのだ。
「そうか。仕入れろ」
振り向きもせず命じる。
「あの日は面白い人達にいっぱい会えたよねえ……殺し合いたいなあ……」
「じゃ、その前にお薬ですよ」
赤燕の後ろから慶庵が水と薬包を持って来た。
「えー、それ苦いから嫌いなのに……」
「人が調合した薬に文句付けない。はい」
不承不承薬を飲むも、飲み終わるとべ、と舌を出す。やはり苦かったらしい。
「赤燕、慶庵」
千鶴の筆が止まった。
「仕事だ」
二人の男を見遣りながら、手もとの蝋燭で書き終わった書を燃やす。
「傾国二人ってとこですかね」
「そうだな」
更に千鶴は命じる。
「場所は島原ぞ」
2006年ごろ初稿 2018年9月23日誤字脱字訂正
2006年ごろ初稿 2018年9月23日誤字脱字訂正