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首落ち椿  作者: 浮草堂美奈
1/9

壱 ねぶり殺して下さい

 風は血に薫る。

 とっくに動かなくなった心臓に更に刃が突き刺さった。くるり、と日本刀を回転させると、すーっと柔らかい臓器に円が切り取られるのが分かる。刀を引き抜くと同時に、ぽっかり空いた孔から鉄砲水のような血が噴き出した。

 暑い夏に水遊びではしゃぐようにその血を浴びた。

 否。

 はしゃぐようにでなくはしゃいでいた。

「うぞうぞするなあっ」

 血を全身に浴びながら、声を上げて。


 時は文久三年九月。島津久光入京決定のニュースが巷に飛び交った。なれど京の庶民の関心事はこの噂の方が上回った。

「飴買い幽霊に憑かれた者は殺される」

 怪談系の噂なるものは大抵が「知り合いの知り合いが体験した話」で、真の当事者というものは存在しない。また飴買い幽霊の話は四十年後小泉八雲が著作「怪談」に記すほど当時としてはベタなネタであった。

 話と云うのは、飴屋の主人が店仕舞いをした後、青白い顔の女が店を訪れる。一文渡して飴を売ってくれと頼み込み、店主が飴を渡すと帰る。それが六日続き、七日目、女は金を持っていないが、どうしても飴が欲しいと懇願する。店主は飴を無料で渡すも不審に思い、女の後を付ける。はたして着いたのは墓場であった。新仏の墓の上で女はふっと消える。怯える店主が逃げようとすると聞こえる微かな赤ん坊の声。震えながら耳をそば立てると、その新仏の墓から泣き声はするではないか。墓を掘り返せば棺桶の中にその飴をねぶっている赤子が泣いていた。その赤子を抱いているのは、飴を毎夜買いに来ていた女。寺の住職が申すには、この墓には孕み女を埋葬したのであるが、その女が死して子を産み、赤子を死なせまいと三途の川の渡し賃に持たされていた六文銭で飴を買って赤子を育てていたのであろう。

 というのがストーリー。

 そんなベタなネタであるのにこの噂が大いに京を賑わせたのは、飴を売った店主、飴で育てられた赤子が存命しているという事実。そして、人が死んでいるという事実。

 最初の犠牲者は祇園の宿屋、故宮屋の主。

 彼はどうにも歯が痛かった。放っておいたが暫くすると腫れてきた、観念して番頭を呼び、見させる。

「ははあ……虫歯でんな」

 番頭は苦笑する他無かった。そのぶっくりした歯茎の端っこに見事な虫食い歯。

「いつから放っときはったんどすか?」

 宿主は――本当に虫歯菌の宿主となっている――苦みきった顔で答えた。

「三日や」

「三日でこないなりまへんやろ」

 更に苦み切った顔になった。

「一月や」

「一気に十倍どすか。大盤振る舞いやなあ」

 店主の眉間の皺が更に深くなり、番頭は軽口を止めた。腫れた顔で大口を開けて苦み切った表情をする宿主に大爆笑を堪えるのに必死であったが。

「鏡を見てくれなはれ。えらいことなってますで」

 姿見に掛けた布を取り外す。

「見やへん。見たら余計痛なるわ」

 いつもは厳しいおっさんがそっぽを向いて膨れっ面(反意図的に)をしているのに再び来る爆笑のウェーブ。痛くも無い歯を喰いしばって鏡に視線を戻す。途端に爆笑とは真逆のウェーブが来た。

 鏡の向こう。すなわち後方の開いていた障子の隙間を女の胸から下が埋めていたのである。白い足が白い着物からだらりと垂れさがり、揺れもせず、障子の一番上の部分に膨らんだ胸が位置し、それより上は壁に隠れて見えなかった。番頭はようやくある事に気付いて悲鳴を上げた。

「ひいいいいいいッ」

 この部屋は二階だったのだ。

 翌朝、宿の裏で店主の斬り殺された死体が発見された。

 二人目の犠牲者は剣術道場師範。

 彼が稽古後に握り飯を食っている最中。弟子の一人が悲鳴を上げた。

「うわああッ」

「おい、如何した?」

 真っ青な弟子に声をかけると、指を外の竹藪に向ける。

「女が……居ました」

「は? それが?」

「女が……竹藪に居ました?」

「だからそれが如何したというのだ!」

 弟子は絶叫した。

「女が竹の幹を飛び跳ねて行ったんですよオッ! 白い着物の女がッぴょーいぴょーいと」

 その夜、師範の斬殺死体をその弟子が発見した。場所はその竹藪であった。

 三人目と四人目は十手持ちと子分であった。

「うーさぶさぶ」

 飲み屋の親父が銚子を二人の前に置く。

「どないなってますのや? 飴買い幽霊は」

 猪口に酒を注ぎ、一気に呷る。ごくり、と喉仏が上下した。

「どないも何も、何も分からん。殺される現場は誰も見てへん。……幽霊の姿は見た見た言うてるが、実際に見たのは二人。何も分からんわい」

「憑かれると、殺されるんやてな」

「……うん」

 十手持ちの手が銚子にぶつかった。ごてん、と倒れる寸胴な陶器。

「あーあ、もったいない」

 親父が手拭いを出し拭こうとした手が固まった。

「どうした?」

「そ、そこ、そこ!」

 必死に指さす方向を二人は見た。

 薄汚れた路地。店の提灯だけが乏しい灯り。それだけ。

「何やねん」

「おった……」

「は?」

「幽霊がおったああッ」

 二人の顔面は蒼白となったが、言葉を絞り出す。

「何も幽霊と決まっとらんやろ」

「幽霊や!」

 再び路地を指した。

「あそこ行き止まりやねんで! わし一秒か二秒しか目え離してへんで!」

 その帰宅途中、十手持ち二人は殺害された。


「その死体の横に、全てこの飴が落ちていた、と」

 猪熊いのくまは飴を見遣り、ついで隣の男を見遣った。

 狩衣を纏い、烏帽子を纏ったこの男が猪熊は如何にも苦手だ。一つはきっとあの色眼鏡のせいだろう。目が何を言っているのか分からぬのに口元だけ常に笑っている。如何にも読めない。

「さいです……。わしゃあ怖くて怖くて……」

 飴屋こにしき、の店主は座布団の裾をぎゅっと掴んだ。

 ひょい、とその飴を抓んでみる。金太郎飴の要領で文の字が入った飴だ。ころころと掌で転がしてみるも、何の変哲も無い飴である。

「どうぞ食べて下さいよ」

「……」

 死体の横に落ちていた、と説明をされた後では食う気がしない。そもそもこの狩衣の男、慶庵(けいあん)が飴を買った訳でもない。

「で、噂の通りですね。子育て幽霊の話は」

「はい……」

 飴屋はぶるり、と体を震わせた。

「確かに昨年の八月……あの噂通りに女がこの飴を買いに来ました……。一文ずつ……毎晩……」

「で、七日目に後を付けた、と」

「はい……。いえ、後を付けるのは口実で、本当は……そのお」

「ああ、夜遊び」

「も、申し訳ありません。陰陽師様はそんな事……」

「ご安心ください。私は坊主じゃありませんので、花柳は大好きです」

 そう、この男は陰陽師と名乗っている。幽霊に怯えている飴屋に「お祓いを致しましょう」等と言って上がりこみ、まんまと依頼を取り付けた。胡散臭い事この上ない。

「それで、墓場に赤子は居たと」

「はい……。ですが……」

 慶庵の口角が釣り上がる。

「女は消えたのでは無く、普通に歩いて新仏の墓を通り過ぎた。赤子は墓の上に寝かされていた」

「な、何故それを!」

「私は陰陽師ですよ?」

 飴屋の皺だらけの顔が色眼鏡に映る。

「造作も無い事です」

「それで……」

 猪熊は口を開く。

「赤子は今如何している」

「養子に行きました。中々子が出来なかったお武家の」

「そうか……」

 色眼鏡が今度は猪熊を映した。ぐっと顔を近づけて

「安心したご様子」

と言ってまた離れる。

「陰陽師様……。わしゃあ、祟りを受けるんでしょうか」

 飴を一つ手に取る。

「この飴、一文にしては随分凝ってますね」

「は……ああ……それは文久に年号が変わったとき記念で作りましたんで、一文取る事は取りますが、ぎょうさん買ってくれはった方へのおまけみたいな物です」

「ほう……ご主人、死ぬのは、後二人ですよ」

 ぽかんと開いた二つの口に、繰り返す。言い含める様に。

「飴買い幽霊は後二人殺します」

「そ……それは……」

「何故だッ」

「大きい声を出さんでくださいよ、猪熊さん」

 わざとらしく耳を塞ぐポーズを取る。

「足りないんですよ。三途の川の渡し賃がね」

「は……?」

「要するに追剥なんですよ」

 さっぱり話が見えない。

「その女は三途の川の渡し賃に、棺桶に六文入れて貰ったでしょう。それを飴代に使ってしまいましたから、三途の川が渡れなくて成仏できない。だから通りすがりの他人を殺して一文ずつ奪っている。一文無くなってても誰も気付きませんからね。でも気が小さいから一気に六文持って行く事が出来ないんですよ。盗みは悪い、と思ってますから」

 気の小さいのに人殺しを? 盗みはいけないのに? 第一

 殺されたのは通りすがりの者ではない。

「如何しました? 変な顔をして」

「あ……いや……」

 口ごもっている間に、慶庵は懐から一文銭を取り出し、紙に包んだ。

 とん、と飴屋の前に包みが置かれる。

「これにこうお書きなさい。『この銭差し上げる』と。さすれば命は取られますまい」

 いや、この飴屋は殺されるはずが無いのだ。

「あ、ありがとうございます」

「いやいや、こちらとしても金子を頂くんですから、ありがとうございます」

 飴屋が礼金包みを取り出す。慶庵は受け取る。

「後二人死んだら、その銭は持ち歩かずとも結構です。それまで肌身離さず持ち歩いてください」

 顔の皺がまた暗くなる。

「死人は止められまへんか……」

「ええ」

 すぐさまの回答であった。

「確実に後二人死にます」


 ぎい、と木戸を開く。この家は人家や店の空白地帯に立っていた。木戸が軋む音に気付いたのだろう。若い娘が飛び出して来る。

「おっかえりーっ」

 薄紅の桜を散らした模様の振り袖、烏の濡れ羽色の黒髪を桃割れに結っている。そして、椿の形の簪。歳は十六、七か。真っ黒くぱっちりとした瞳が印象的だ。

「ただいま。お(こい)

 慶庵が頭を撫でてやりながら「お土産ですよ」と先程の飴屋から貰った(せしめた)袋を渡すと、満面の笑みとなった。

「飴がいっぱいっ」

「いっぺんに食うなよ」

 ぬっと家の中から大柄な男が出てきた。筋肉質で髭面の男。名を赤燕(せきえん)

「しないよう。僕はこれでも計画性を人に考えて貰うんだぞっ」

「いや、それは計画性が無いって事だろう」

「考えて貰うという計画を立ててるもん! ねえ、それより慶庵、今日は飴屋さんを騙してきたの?」

 頭が痛そうに手を当てる。ついでに烏帽子を脱ぐ。

「お恋……人聞きの悪い……。安心料ですよ。平穏さを販売したんです」

 思わず声を上げた。

「あの説明は全部デタラメだったのか!?」

「当然でしょう。三途の川の渡し賃が無いから追剥する幽霊なんているわけありませんよ」

 あんまりな開き直り方だ。胡散臭いというより丸っきり詐欺ではないか。

「それより猪熊よう、千鶴が呼んでるぜ。いつまでも間抜けなツラしてんなよ」

 赤燕が家の中を親指で指した。

 全身脱力しつつ中に入ろうとするとお恋が袖を引っ張る。

「……何だ?」

「あのね」

 少し眉を寄せて「ちょっと頭下げて」のポーズを取る。菓子袋は抱えたまま。

「何だ?」

 背伸びをして耳元でぼしょぼしょと囁く。

「あのね。怒っちゃ駄目だよ。真剣なんだから」

 誰の事かは直ぐ分かった。

「お前のお姉さんが真剣に何かあるのか。怒らん。絶対に怒らんよ」

 耳元から顔を離し「良かった」と微笑む。「いってらっしゃーい」と大きく手を振るのに、家に入るのにいってらっしゃいも何も、と苦笑した。

 

 目の前の女はきちんと座布団に正座して待っていた。薄青の着物には、今は見えぬが裾に紫陽花の模様がある。肌は陶器のように白い。蜜色の髪を後ろで縛り、細い体を姿勢よく正している。

 美しい。美しいが得体が知れない。この女だけではない。この家に来てひと月経つが、住人の全てが得体が知れない。解っているのは慶庵が陰陽師である事と、お恋がこの千鶴ちづるというの妹である事のみ。赤燕の生計の元も知らぬし、千鶴やお恋も誰の妻でもない。千鶴が家事全般をこなしているが、下女という訳でも無い。むしろこの家の家長のような態度だ。自分はきちんと身分を向こうに明かしているも同然であるというのに。と、此処を紹介した高杉晋作の言葉を思い出す。

「討幕なんて考えてる奴らだ。一癖二癖以上は覚悟しておけ」

 瞳が開かれた。切れ長の瞳はやはり蜜色。その目がこちらを見る。考え事を止めこちらも見返す。見惚れて。

「そなた」

 言葉にはっとし、慌てて「何だ」と返す。千鶴は淡々と言葉を紡ぐ。

「そなたが辻斬りをしているのではあるまいな」

「は……?」

 唖然とする。思わず傍らの刀を掴む。無礼討ちをする気はない。

「……何故そう思う?」

 目の前の顔が俯いた。

「全て……そなたが出かけた晩なのだ。飴買い幽霊の人殺しが出るのは」

「それは……偶然だ。たまたま三夜ともかち合ったのだ」

「斯様な偶然があり得るのであろうか」

 冗談ではない。やってもいない人殺しの罪を着せられて堪るものか。

「俺はほとんど毎晩出かけているだろう」

 心を抑え、安心させるよう、優しく。

「ああ。高杉先生の紹介でそなたが参られた。故に疑いたくはない。なれど……幽霊の仕業等と……」

 頼りなげに瞳が揺らぐ。ごくりと唾液を呑み込んでその肩に手を伸ばそうとする。

「ねーねー飴美味しいよ。一緒に食べよう」

 いきなり襖が開いた。

「お恋……」

 小娘は嬉しそうに色とりどりの飴を出す。邪魔をしたという自覚は無いようだ。

 ぼそり、と千鶴が呟いた。

「せめて……誰か下手人の顔でも見てくれたら……」

 次の犠牲者の顔なら知っている。

「千鶴はあくまで下手人に拘るのだな。真の幽霊がやっているやも知れんぞ」

 わざとおどけた調子で言うも返ってきたのは無言であった。

「幽霊? 猪熊のおじちゃん、気をつけてね」

 お恋が千鶴の背中にべったり張り付きながら注意を促す。如何気を付けろと。

 否。

 今宵俺が飴買い幽霊を倒しに行くと知っているのか?

 そんなはずはない。

 頭に浮かんだ考えを打ち消した。

「千鶴、お恋、安心しろ飴買い幽霊はお前達を殺しはせぬ」

 あの一件に関わっていないのだから。

「それに次で殺しは終わる。下手人は返り討ちに遭う」

 二人相手だ。二人とも免許皆伝の腕前だ。負けるはずがない。

「そなた……何故言い切れるのだ?」

 はっと我に帰る。喋りすぎてしまった。この二人を関わらせてはならない。

「千鶴。さっきの今だが、今宵も出かける」

「何処に行くの?」

 お恋に笑い返した。

「秘密、だ」

 千鶴は俯いたままであった。

 ああ、俺はまた、恋をしている。


 その長屋の門を叩いたのは半年振りであった。

 開けると物が少ない癖に乱雑というある意味難しい状態の部屋である。

 部屋の主は部屋と同じく着流しを乱した乱雑な風体で寝転がっていた。

「おい、起きろ七瀬」

 乱雑な男はぼおりぼおりと腕を掻きながら上半身のバネだけで起きた。

「何だ猪熊。用事なら他を当たってくれ」

 何だと問うた癖に他を当たれという。

「お前でなくては駄目なんだ」

「勘弁してくれ。ん……?」

 しげしげと七瀬はようやくこちらの異様な風体を見た。

「芸人の手伝いなら勘弁だ。俺は大根だから」

 猪熊の着物にはびっしりと札が縫い付けられてあったのだ。

 お恋発案である。

「飴買い幽霊なんでしょっ幽霊は避けないと駄目だよ!」

 の一言から赤燕が

「札でも持って置くか」

と笑いながら言ったところ

「じゃあ私が作りますよ」

と慶庵がその場で紙に何やら札の模様を書き出し

「お願いっ」

とお恋に頼まれ千鶴が着物に縫い付けた、という訳だ。お恋は裁縫もできないのか、と好奇の目を受け流す。

「とにかく来てくれ、此処じゃ拙い」

 七瀬がのろのろと立ち上がり、刀を握るとにやりと笑った。

「お前、また誰かに惚れただろう」

「馬鹿を言うな」

 とっさに返したが声が上ずっていた。

「惚れたな? 惚れただろう? 惚れたと言え。俺はべた惚れの種馬ですと言え」

「ちょっと待て最後のは言う必要ない!」

「結局惚れたんだな」

 溜め息を吐いて白状した。千鶴が頭に浮かぶ。ほっそりとした白い手。切れ長の目。

「惚れたよ」

「ほら見ろ! 態度で分かる!」

「何が嬉しいんだお前は!」

「嬉しくも何とも無いがその惚れた女の訳分からん趣味の格好をしているのは見ていて面白いぞ。馬鹿丸出しで」

「馬鹿丸出しは余計だし惚れた女の趣味でも無い! 女の妹がやったんだ! 正確には案だけ出したんだ!」

「ほーう、姉妹どんぶりか」

「違うわッ」

 へらへえらと七瀬は立ち上がった。

「まあ、その恰好で何をしに行くのかは察しが付いた。俺もそろそろ片付けねばならんと思っていたところでだ。何せ、俺の側にも出たらしい」

「そうだろうな」

「明らかに俺達を狙っている。飴買い幽霊は」

 

 夜道をぶらりぶらりと歩く。隣を鴨川が流れている。ざざ、ざざ、と水音。

「で、どんな女なんだ」

「気位が高い。不機嫌か無表情かどちらかしかない」

 真似をする訳ではないが、無愛想に答える。

「……・相変わらずそんな女が好きなんだな。で、妹は?」

「何で聞くんだ?」

「美人の妹なんだから美人だと思ったんだが」

「どちらかというと可愛いな。明るくて「猪熊のおじちゃん」なんて呼んでくる」

「ふうん。一度会ってみたい」

 ぴたり、と二人が足を止めた。

 ざっ

 水音が音を変える。

 七瀬の刃が振り下ろされた刃を受け止めた。そのまま相手を弾く。

 遅れて猪熊も抜刀した。

 たん、と相手が着地した。

 黒の着物の袖に、小さな椿の刺繍が一つ。目深に被った編み笠の下から一つ結びの黒髪が覗いている。

「あーあ」

 編み笠の下から声がした。

「今夜でこの殺しは終わりかあ……やだなあ」

 心底がっかりした声だ。

「ふ……ふざけるなあッ」

 七瀬が相手の頭に刀を振り下ろす。

 ぐん、と相手の体海老反った。刀は編み笠だけを切り裂いた、顎を叩き斬るすれすれで外れた。ついで相手の刀が七瀬の横腹を襲う。

「はえ……?」

 疑問の呟きを最後に、ずるり、と七瀬の横腹から上が斬り落とされた。

 力余って投げられた七瀬の刀が力の名残で川沿いの木の二股を裂いた。

 ミシミシと音をたて、大人の背丈以上もある木が切り裂かれていく。

「あ、雨降りそう」

 懐から例の文の字が入った飴を取り出すと、二つに分かれた七瀬の傍に放り投げる。文の字が紅く染まった。

「この笠もう使えないや」

 雷が鳴る。

 真っ二つになった木に笠を放り投げる。

 猪熊は動けなかった。相手の声はこれ以上無い歓びに満ちていた。落雷の光で相手の顔が見えた。

 息を呑んだ。

「いつも道案内ありがとう。猪熊のおじちゃん」

 相手は

「お……お恋……」

 その顔に浮かぶのは、純粋なる殺戮欲。ニイと笑った口元。漆黒の闇の瞳。

「うぞうぞするなあ」


 猪熊は逃げた。全速力で走った。

 全身がずぶ濡れだった。己の着物に足を取られそうだ。肺が無秩序な振動を繰り返した。

 四条のその家に転がり込む。赤燕も慶庵も見当たらない。

「千鶴、千鶴ッ」

 襖を外さんばかりに開くと、千鶴はこちらを向いてきちんと坐り直した。

「騒々しい」

 す、と細い目がこちらを睨みつける。

 その肩をしかと握った。

「ち、千鶴! 一緒に逃げよう!」

 冷静な口調は崩れぬ。

「何故に」

「飴買い幽霊はお恋だった! お前も危ない! 一緒に逃げよう!」

 凛。

「断る」

 かっと頭に血が上った。

「来いと言っている!」

 肩を掴んだ手が払われる。

「汚らわしい」

 あくまでも声は冷たい。己の妹が人殺しだと言うのに。

「貴様…………ッ」

 大声で喚いた。癇癪を起こして。

「黙って俺の言う事を聞け! 俺の言う通りにしろ! 痛い目が見たいのか! こんな事が人に知れたら困るのはお前だぞ!」

「そうやって」

 千鶴は静かでいて、背筋も凍るような口調だった。

「島津の女も抱いたのか」

「な……」

思わず手を放し、よろめいた。

「私の名は」

 懐刀で猪熊の喉が切り裂かれる。

文石千鶴忠朋あやしのちづるただともぞ」

 どさり、と猪熊が倒れる。

「あに様ーっ」

 お恋が風呂敷包みを抱えて来た。振り袖姿に戻って。

「千鶴、準備できたぜ」

「そうか」

 赤燕達が外で蝋燭が消えぬように傘を持っているのを見て部屋を出る。

「それにしても酷い手を使いますねえ」

 慶庵の言葉に無表情に応える。

「策を弄せば酷くなるものよ。外法こそ最も益多き法だ」

 雨が酷く降っている。濡れながら千鶴は命じた。

「やれ」

 赤燕が窓に蝋燭を投げ込んだ。

 内部で爆発が起こった。がらがらと家が崩れ落ちる。

「さて、帰るぞ」

 お恋が周りに持っていた包みの中身をぶちまけた。

 全て文の字の入った飴。


 全ては薩摩藩主島津を味方に付ける策だったのである。

 島津久光の入京は初めてではない。前年の文久二年に入京している。なれどその年の内に下京。その時久光は公武合体論を唱え出し、討幕派と対立し始める。表向きは国の事を案じて。実際は、久光の京の愛妾が討幕の者に乱暴されたからであった。

 愛妾は男児を出産するも、産後の肥立ちが悪く死亡。既に久光は帰藩しており、男児は世継ぎ争いの元となる。そこで動いたのが長州派維新志士高杉晋作。彼は近々薩摩と手を組みたかった。高杉は同じく長州派維新志士千鶴に命じて策を練らせる。

 夜毎飴を買っていたのは千鶴であった。男の身でありながら日頃女として振る舞い、敵を籠絡して不意打ちを食らわせるのが常の彼に取っては、幽霊に化けるなど容易い事。実際には飴屋が後を付けた時に初めて赤子を墓に寝かせた。これで赤子の安寧は勤められる。

 次は島津が再び入京の際、乱暴狼藉を働いた討幕の志士及び手引をした者を、討幕派の手どころか人間の手とも分からぬよう、しかしセンセーショナルな話題として久光の耳には入るように策を練る。

 各所で見られた幽霊はお恋。お恋は屋根の上に着物を脱いで、白襦袢の姿でわざと人に見られ、人に見られれば直ぐに屋根に飛び上がって着物を着る。お恋の身体能力だから出来た技であった。

 乱暴狼藉の犯人を捜させられていたのは猪熊本人である。高杉に唯一犯人と目されていた猪熊をわざと京へやる。島津久光入京を聞けば、彼は宿を貸した宿主。手引きをした十手持ち。共犯の道場師範と七瀬に連絡を取るだろう。知らぬ間に彼は案内役にされていたのだ。

 猪熊が出かける度にお恋が後を付け、会話を盗み聞いて共犯ならば斬殺する。

 そして最後に猪熊が死に、千鶴の策は完成した。

 怨敵が全て死んで以後、島津は倒幕に傾いていく。感情面のしこりを除けば、久光はリアリストであった。

2006年ごろ初稿 2018年9月23日誤字脱字訂正

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