side by side
ヴァイオリニストになりたかった。
物心ついた頃にはもう、私の手の中にはあの飴色の友が居て、その美しい音を私は愛した。
私が音楽と出会ったのは、私が友とのお喋りや、カラフルな洋服のコーディネートなんていう楽しみに目覚めるよりずっと前で、それが良いことにしろ悪いことにしろ、私の優先順位はいつも音楽がトップだった。
ヴァイオリニストになりたかったのだ。本当に。
──そのためだけに、生きてきたのに。
「ヴァイオリン、まだ続けてる?」
藤原孝輔のなにげない一言に、彼の瞳を覗き込んでからずっときらめいていた世界が、再び色を喪うのがわかった。左手がずきん、と激しく痛みを発する。
私はその時呼吸をできなかったと思う。
ただ黙って、彼を見返した。
そして答えた。
「……え?」
聴こえないふりを装うのは無理があったかもしれない。
港を見下ろす公園に人はまばらで、しかも彼と私は今ひとつのベンチを分け合っていたから。
でも彼は穏やかに、もう一度同じ質問を繰り返した。
「ヴァイオリン。まだ弾いてる? 有名だったでしょ、岡田。いつも練習だって早く帰って」
「弾いてる、よ。……昔ほどじゃないけど」
私は真実ではないことを言った。
なぜか、藤原君の瞳に孕まれたもの(・・)が、私の虚栄心をあぶりだした。
彼が知っているのはかつての私、まっすぐに未来と夢を信じていた幸せなこどもだ。
たぶんその女の子はきらきらしていて、ちょっと得意げで、自分が人とは違うって思ってる。
いやな子。
そして、羨ましい子。
「プロめざしてる?」
「……うん」
藤原孝輔の詰問はさらに続く。幼き私への。
いや、過去の己に固執する、愚かで弱い私への。
「留学とか考えてるの?」
次第に嘘を語ることもできなくなり、私はかは、と息を吐いた。
辛い。彼の言葉が、私の体中に残る夢の残滓を的確に刺し貫く。
どうしてこうなってしまったんだろう。
私の、何がいけなかったんだろう。
もう、認めてしまいたい。
今の私は空っぽなんだと。
「……岡田さん?」
いつの間にか俯いていた私の顔を、藤原孝輔が覗き込む。
私はそこで急に、彼に対して怒りを覚えた。
なぜ、彼なのだろうと思った。
よりによってかつての私だけを知る人間に、今目の前に現れてほしくなかった。
彼は私の痛みを抉る。容赦なく白日の下に引きずり出す。
(恵まれて、幸せそう)
閃くような嫉妬にかられて、私が口を開きかけた。その瞬間だった。
「まぁ、日本でも音楽は勉強できるよね」
藤原孝輔がしゃべり始めた。
私は虚をつかれて言葉を失う。
「……え?」
「音大とかさ。みんな、留学っていうだけで憧れてるけど、実際は全然いいもんじゃないし」
「別に、憧れてたわけじゃ、」
彼の言葉に含まれた、誰に対するものかわからない鬱屈を感じ取り、私は自分のなかの怒りがさらにあおられるのを感じた。
藤原孝輔を見つめ返したが、彼はいつのまにか海に視線をずらしていた。
そして続けた。
「留学するだけで勉強しないやつもたくさんいる。海を越えたら全てが良くなるって思ってる人とか、単に外国に行ってたっていう経験がほしいだけの人とか。吐き気がする」
なんだろう。彼は、誰に対して言っているのだろう。
私は混乱しながら「待って」とついに口をはさんだ。
「何、言ってるの? 私は別に、留学したいなんて言ってない」
「あきらめたんだろ?」
流れるように自然に彼が口にした、その一言が、耳から心に届くまでには時間がかかった。
だが届いてしまえば、耐えられなかった。
私ははじかれるようにしてベンチから立ち上がっていた。
「──なんで君にそんなこと言われないといけないの?」
気づけば涙が流れていた。藤原孝輔がひるんだのが感じられた。
「藤原君が知らないこと、たくさんあるでしょう──。あたしたち、全然知らないじゃない。お互いのこと。だからやめて。そんな簡単に、人のこと決めつけるの」
ずっと蓋をしていた感情があふれだす。
怪我をして、治療して、リハビリをして。昨日までの自分に置いて行かれる絶望と恐怖にもがいた日々。
私は顔をそむけた。
彼から。そして世界から。
「っ、違う、俺が言いたいのは!」
「あたしは、あきらめたくなかった」
藤原孝輔の声をさえぎって私はつぶやく。
「──あのころに戻れるならなんだってするのに」
そして逃げ出していた。
***
藤原孝輔。いい男だ。
しっかりしている。
わたしが今まで知ってる男っていうのは、こんな言葉をいう生き物じゃなかった。
歯に衣着せない物言い。ちゃんと考えて生きるということをしてる人。
たぶん、私が間違っている。彼はただ甘えて生きてきた人ではない。
(でも、苦しい)
彼の言葉は私には痛い。
あまりにもまっすぐに心を刺すから。
──もうやめたい。
──あきらめたくない。
──逃げ出したい。
──でも進みたい。
忘れていた感情に翻弄されて、心が砕けてしまいそうだ。