タスコ幻想
「 タスコ幻想 」(時代背景は1978年11月)
「ブエノス・ディアス、セニョール!」(今日は!)
陽気な声がした。
ぼんやりと、窓の外に広がり流れていく風景を眺めていた柾木義彦はその声のした方向に眼を向けた。
通路を挟んだ、右横の座席に座った男が人懐っこい笑顔を柾木に向けていた。
「ムイ・ブエノス・ディアス、セニョール!」
柾木が答えた。
よく晴れた青空が流れ去る風景を包んでいた。
「日本人かい?」
「ええ、そうです」
「どこへ行くんだい?」
「タスコです」
「ああ、タスコか。あそこはいいところだよ。俺は、ロドリゲスと言うんだ」
「義彦と言います。宜しく!」
「こちらこそ!」
その三十歳ほどの痩せぎすの男は手を差し伸べてきた。
柾木も手を差し伸べ、握手をした。
「観光で行くのかい?」
「ええ、そうです。二、三日過ごしてから、メキシコシティに行くつもりでいます」
「ああ、そうか。俺はこのままメキシコシティに行くんだが、タスコには何回も行っている。あそこは銀製品で有名な町なんだ。勿論、銀製品も買うつもりなんだろう」
「ええ、少しは買うつもりですよ」
「そうかい。じゃあ、いいことを教えてあげるよ。いいかい、銀製品を買うんだったら、れっきとした店じゃ、駄目だよ。高いから。メルカード(市場)か、タジェール(工場)で買うんだ。見掛けの良い店のものはメキシコシティよりも高いからね」
「ああ、そうなんですか。ありがとう! そうしますよ」
アカプルコ発のエストレージャ・デ・オロ社のバスは十五、六人ほどの乗客を乗せ、快調に走っていた。
時速百キロは軽く出ており、疎らに生育している潅木は飛び去るように後方に走り去っていく。
ロドリゲスの饒舌は続き、柾木はもっぱら聞き役といった感じで、二人の会話はその後も続いた。
「アカプルコではどうだった? 死のダイビングは見たかい?」
「ええ、一通り見ました。パラカイーダ(パラセーリング)もしました」
「高かったろう。面白いけどな。以前はグリンゴ(米国人に対する蔑称)ばっかりだったけど、この頃は日本人も結構やっているみたいだな」
「ええ、浜辺を歩いていると、よく呼びとめられます。それで、一度だけやってみました」
ロドリゲスはアカプルコのホテルで働いており、今は休暇を取ってメキシコシティの実家に帰る途中とのことだった。
「ところで、ヨシヒコ、マリファナはやるかい? やるんだったら、いいマリファナを持っているから、少しあげようか?」
「いや、僕はやりません」
「そうか。ハッピーな気分になるぜ」
どうも、ロドリゲスはバスに乗り込む前にマリファナを吸ってきたらしい。眼が少し潤み、声がひどく擦れて甲高かった。
その内、ロドリゲスは喋り疲れたらしく、暫く会話の間が空いたと思った時には既に眠っていた。少し、いびきもかいていた。
柾木は再び窓の外に視線を戻し、山沿いの風景を眺めた。潅木は疎らに生えてはいるものの、ゴツゴツとした原野にも等しいメキシコの草原はあまりにも荒涼としており、柾木にメランコリックな感傷を抱かせた。
「奥村さんとはこの頃どうなっているんだ? 昨日もホルヘとセントロ(街の中心部)を歩いているところを見たんだが」
柾木は、ユカタン州立大学の図書館の中で交わした、友人の田中浩一との会話を思い出していた。パンチョ・ビリャの伝記を読んでいた柾木に近づき、耳元で田中が囁いたのであった。柾木はちらりと田中に視線を走らせたが、またすぐに本に視線を戻しながら、呟いた。
「そんなことは志保美さんの勝手だろう。ホルヘと仲良くするのも、僕の知ったことでは無いよ」
「ふーん、そんなものかなぁ。でも、ホルヘはかなりのプレイボーイだという話だぜ。奥村さんに注意した方がいいんじゃないのかな。君が言いづらいなら、僕が注意しておくよ。・・・。じゃあ!」
田中が去った後、柾木は片手を顎に添えて暫くぼんやりとした時を過ごした。
柾木は、風を切って走っていくバスの中で、奥村志保美とホルヘのことを思った。
ふと、数年前に観た「いちご白書」という映画の中で、リンダという名前のヒロインの女子学生が言った言葉が、バフィ・セントメリーが歌う「サークル・ゲーム」という主題歌と共に脳裏に甦った。それは、「嫉みの色は緑よ」という言葉だった。緑は嫉妬の色、確かにそう言ったはずだ。柾木は志保美の顔を思い浮かべ、胸が締め付けられるほどの切なさを感じた。
バスは、アカプルコを発って二時間ほど走ったところで、駐車した。休憩地点であった。
柾木も他の乗客と共にバスを降り、ぶらぶらと周りを歩いた。
売店で、コカ・コーラを買い、ペンキが剥げかかった木のベンチに腰を下ろして飲んだ。
半ば凍結しかかっているコカ・コーラはキリッとして冷たく、柾木の乾いた喉を快く刺激した。隣のベンチには、一組の男女が座っていた。ダンサーとギター弾きのカップルだった。ダンサーは少し崩れた感じを漂わせていたが、かなりの美貌であった。疲れた表情をしていた。眼のまわりには隈が出ており、荒れた暮らしを感じさせた。一方、ギター弾きは彼女より年齢はずっと上のように見えたが、かいがいしく彼女に仕えているという印象を受けた。売店から彼女にレフレスコ(清涼飲料水)を買ってきて、渡した。彼女は礼も言わず、そのレフレスコで喉を潤すのであった。小男のギター弾きにとっては、彼女はレイナ(女王)なのであろう。
柾木は、そんな二人の様子を見るとはなしに、ぼんやりと見ていた。
いろいろな人生があり、いろいろな人間模様がある。自分の感傷に気付き、柾木は苦笑いをした。まだ二十二歳の柾木に、それは似つかわしくない感傷と言えた。
休憩時間が過ぎ、乗客はバスに戻った。バスはタスコに向け、また走り出した。
「ヨシヒコ! タスコではどこに泊まるんだい?」
また、ロドリゲスが話しかけてきた。マリファナはきれたらしく、声に少し艶が戻っていた。
「予約はしてません。今はシーズンも外れているから、どこかには泊まれると思って」
「ああ、どこかには泊まれるさ。タスコで手ごろなホテルとしては、オテル・ビクトリア、オテル・カサ・グランデ、オテル・アグア・エスコンディーダといったホテルがあるよ。オテル・ビクトリアはオテル・ランチョ・タスコと姉妹ホテルで隣接しており、とても感じの良いホテルだぜ」
ロドリゲスはアカプルコのホテルで働いているだけあって、タスコのホテルに関しても相当詳しかった。ホテルの話の後は、フランス人の鉱山王、ボルダの建てたサンタ・プリスカ教会の話とか、カサ・デ・ラス・ラグリマス(涙の家)の由来とか、その後もロドリゲスは喋り続けた。柾木は、タスコに着くまでに、タスコに疲れてしまいそうだ、と思いながら、ロドリゲスのとめどもない話を聞いていた。
「ヨシヒコ! ほら、タスコが見えてきたぞ!」
ロドリゲスが山沿いの街を指差した。柾木もその方向に視線を向けた。
そこに、タスコの街があった。
赤茶けた煉瓦の屋根と白い壁が、まわりを囲む山々の緑に映えて、タスコの街は美しかった。
中世が生きている街と言われるタスコはそのまま芸術性を持った街並みを誇っている。
また、タスコは慕情の街とも言われる。
柾木は近づいてくるタスコの街を飽かず眺めた。高層ホテルの林立するアカプルコとは違った趣で、タスコは彼の胸に迫ってきた。いろんなメキシコがある、いろんなメキシコを見たい、と柾木は思い、これから始まるタスコでの数日の旅の日々を想った。
「アディオス、ロドリゲス! ブエン・ビアッヘ(良い旅を)!」
柾木はロドリゲスと別れの挨拶を交わし、バスを降りた。冷房の効いたバスは快適だったが、外は暑かった。
ボストンバッグを下げ、柾木は道を横切り、ロドリゲスが教えてくれた、オテル・ビクトリアへの道を歩いていった。急な石畳の坂道を登り、突き当たりを左に曲がると、すぐにホテルは見つかった。VICTORIAと大書されたアーチ状の門を潜り、中に入った。
紅い花に満ち溢れた、素朴なコロニアル風の瀟洒なホテルだった。
「ブエナス・タルデス(今日は)! 部屋は空いてますか?」
「スィー、セニョール。お一人ですか?」
シーズン・オフで、部屋は空いていた。
ホテルのレジスターで型通りの記帳を済ませ、煉瓦の階段をかなり登り、部屋に案内された。階段となった通路の両側にはハイビスカス、ブーゲンビリアといった紅い花の大鉢が所狭しと置かれ、歩く者にお花畑を歩いているような幻想的な雰囲気を抱かせた。
柾木が通された部屋はかなり広く、白を基調としており、清潔な印象を与えた。
部屋の外は広いバルコニーとなっており、白く塗られた鉄製の椅子が白いテーブルを囲んで四脚ほど並べられていた。
柾木はバルコニーの椅子に腰を下ろして、眼下に広がるタスコの風景を飽かず眺めた。
遠くに、サンタ・プリスカ教会の二つの褐色の尖塔と背後の青いドームが見えた。
曲がりくねった路地の両側には、赤茶けた屋根と白い壁の民家が建ち並び、青く澄み切った空、緑の山々と美しく調和していた。
美は少しく乱調なところにある、という言葉が実感として理解できる街並みだった。
幾何学的な整然とした街並みならば、合理的な感じが強調され、とてもこのような美しさは持てないに違いないとさえ、柾木は思った。曲がりくねった路地に沿って建てられた家々が整然とした調和を少し崩しており、その配置の乱れが好ましく、美しさを倍化させていた。
柾木は陶然とタスコの全景を眺め、異国で巡り合った美を楽しんだ。
少し、疲れを感じた。アカプルコからタスコまでの五時間のバスの旅は柾木を疲れさせていた。柾木はバルコニーから部屋に戻り、ベッドで少しまどろんだ。午後のけだるい眠りの中で、奥村志保美の夢を見た。
夕方、ホテルを出て、石畳の坂道を下り、セントロ(街の中心部)の方に歩いていった。
家々の白い壁のドアの付近にはスペイン風な街灯が取り付けられており、コロニアル風な情緒を醸し出していた。路地は狭く、車の往来はほとんど無かった。時々、フォルクスワーゲンのタクシーが人を避けながら走ってくる程度であった。エネケンで編まれた白い帽子を被った男たちがのんびりと行きかっていた。道の正面に、サンタ・プリスカ教会の尖塔とドームが頭を覗かせていた。まだ、空は青く、白い雲がわずかに彩りを添えており、四十メートルという高さを持つ二つの尖塔が美しく屹立していた。暑かったが、時折秋の風が涼しさを運んでいた。
柾木は教会の前の広場のベンチに座り、教会を見上げた。教会の尖塔は二段の形を持ち、天を突き刺すように聳え立っていた。やや褐色を帯びた塔は街のどこからでも見ることができるというロドリゲスの話であった。タスコの象徴で、良い目印となり道には迷わない、と彼は言っていた。
柾木は尖塔を見上げながら、メリダに居る志保美のことを想った。
「私、この頃、思うの」
柾木の耳に、志保美のややハスキーな声がなつかしく甦ってきた。
「来年、日本には帰りたくないの。この国で、もっと勉強したい」
「勉強? 何の勉強?」
「歴史とか文学、の勉強。そのためには、柾木さんのような語学力が無ければ、と思うの。とにかく、この九ヶ月だけの留学期間では不十分なのよ」
「スペイン語の勉強だけならば、日本でもできるんじゃないか。僕はまる三年間、スペイン語専攻で勉強したから、今のレベルになっただけの話で、志保美は未だ一年間しか勉強していないにだもの、不十分なのは仕方がないじゃないか。一度帰って、また来ればいいんじゃないのかな」
「おそらく、・・・、駄目よ。日本に帰ったら、もう二度と来れないわ。きっと、両親がまた猛反対するに決まっているもの。今度の留学も、説得するの、大変だったんだから。それよりは、来年の4月以降は自費留学という形で継続留学した方が説得しやすいと思うの。ベカ(奨学金)は無くても、何とかやっていける自信はあるわ」
志保美は苛立っている、と柾木は思った。スペイン語の力が劣っていることに対して必要以上に過敏になり過ぎているとも思った。確かに、日本で一年間の正規教育しか受けていないという事実は現実であり、日常的な会話はともかく、専門書を読んだり、文章を書いたりする力は、外語大四年の柾木、田中たちと比べたら確実に劣っていることは事実であった。しかし、来年も残って勉強しても、果たして成果が期待できるものか、と柾木は疑問に感じた。
率直に言えば、来年四月になったら、一緒に日本に帰り、数年経ったら自分と結婚するという道を志保美には選択して欲しい、それが志保美を愛し始めていた柾木の偽らざる気持ちであった。志保美を幸せにしたいし、また幸せにする自信もあるのだ、どうして、そのことを解ってくれないのだ、と柾木は柾木なりに志保美に苛立ちを感じていた。これが柾木には、志保美に対するわだかまりとなって、徐々に彼らの関係は疎遠なものになっていった。
その内、志保美はフィエスタ(パーティ)で知り合ったホルヘという医学部の学生と交際するようになっていった。
今、柾木の心を支配しているのは、志保美に対する失望と絶望であった。
柾木の心は暗く閉ざされていた。
柾木はベンチから立ち上がり、教会の中に入っていった。
教会は光と黄金の輝きに満ちていた。二百年以上も前に建てられた、この贅を凝らした教会は、今、柾木の前に圧倒的な姿で対峙していた。黄金の箔をふんだんに使って施された、その華麗さと過剰なまでの緻密な装飾性は観る者を圧倒せずにはおかなかった。
柾木は入口近くの素朴な木の長椅子に腰を下ろし、正面に輝く黄金の祭壇を見上げた。
長い木の机と椅子がしみじみとした温かさを感じさせた。
かつて、メキシコの銀は世界を席巻し、スペインの繁栄を支えていた。その当時の銀鉱山の持主の富は想像を絶するものであったろう。
「神は富をボルダに与え、ボルダは神に与う」という幸福な主旨に基づいて建てられたこの教会は鉱山で働かされたタスコ周辺のインディオに対する搾取の歴史的結果、遺産でもあるのだが、現在はタスコの観光の名所となり、朝夕、その鐘の音をこの山間の街にこだまさせているのだ。すさまじい搾取と権力、富の集中。メキシコの歴史そのものを象徴していると言えよう。
しかし、その歴史的収奪遺産の、この美しさは一体何なんだろう。テオティワカン、パレンケ、ウシュマル、チチェン・イッツァなどの古代の遺跡、スペインの植民地時代の豪邸、豪壮なカテドラル(カトリック寺院)、全て凄まじい搾取と権力による理不尽な強制労働の結果としての遺産に過ぎないが、みな例外なく美しいのだ。搾取、権力、富の集中自体は決して美しいものではなく、嫌悪すべき醜悪なものだ。しかし、その結果として現代に残されたものの、この美しさは何だ。畢竟、美は醜悪な体制とは本来無関係なものなのだろう。それは、芸術家と彼の残した芸術作品の関係に似ている。芸術家の人間性と芸術の素晴らしさには相関関係はないのだ。
柾木は。この豪奢な教会の中で敬虔に祈りを捧げているインディオの血をひく混血の民の姿を見詰めながら、重苦しい憂鬱さを感じていた。収奪された民の末裔の祈り。ここにも、ひとつのメキシコがある。眩惑された思考の中で、柾木はそう思った。
柾木は教会を出た。
陽は既に傾き、タスコのセントロの広場は夕闇に包まれ始めていた。
教会の前のレストランに入り、二階に上がっていった。広場を見下ろすバルコニーに足を踏み入れた時だった。
ふと、バルコニーの左前方のテーブルから自分に呼びかける声を聞いた。
視線を向けると、そこに五ヶ月振りのなつかしい顔があった。
「柾木さん! お久し振りね」
斉藤和子のやわらかな微笑みがそこにあった。
「斉藤さん! お元気でしたか。しかし、それにしても、タスコで遇うなんて、偶然ですね」
「そうよ。私もまさか、ここで柾木さんに会えるなんて思わなかった」
「いつ、いらっしゃったんですか? 僕はここへ今日着いたばかりなんですよ」
「昨日よ。シティから三時間ほど、バスに揺られて」
「僕は今日、アカプルコから。バスで五時間ほどかかりました」
「どこにお泊りなの?」
「オテル・ビクトリアです。斉藤さんは?」
「オテル・ランチョ・タスコよ。確か、お隣のホテルかな?」
「お隣りですよ。それで、いつまで?」
「明後日まで滞在するつもりなの。それから、柾木さんとは逆にアカプルコへ行くの」
ウエイターが注文を取りにきた。柾木はリモナーダ(レモネード)を頼んだ。
二人はこれまで行ったところとか他の留学生のこととか、他愛の無い話に興じた。斉藤和子は、柾木同様、日墨交換留学生の一人で、勤務先の病院がメキシコ人研修生を受け入れた関係で、交換留学研修という形でメキシコシティの病院で研修生として派遣されている看護婦であった。斉藤和子のような立場の看護婦は10人ほど居り、全てメキシコシティの大病院で研修していた。
「シティの病院での研修はどんなものなんですか? 素人の僕には、日本の看護婦さんが勉強するようなレベルではないように思えますが」
「そうね、日本で私が勤務している病院より、確かに設備的には劣ると思うけれど、それでもいろいろと学ぶことは多いわよ。例えば、緊急時の医療体制とか、医療関係での政府の方針、施策とかいった内容で」
「日本もそうだけど、メキシコでもやたら医者がもてますね。僕の行っているユカタン大学でも、医学部が最高の競争率を示し、高校生の憧れの職業という話です。次が弁護士といったところでしょうか」
「やはり、収入の魅力だと思うわ。収入のレベルが全然違うし・・・」
バルコニーから眺める広場にそろそろ街灯が灯り始めていた。街灯の燈は柔らかで懐かしい風情を漂わせていた。丁度、子供の頃、母の実家からの帰りの夜汽車の窓から眺めた民家の裸電球の黄色い灯りがタスコの街の街灯を瞠つめる柾木の脳裏に鮮やかに甦ってきた。
「街灯の灯りは懐かしい色ですね。あの街灯の灯りの色は、昔、小さかった頃に夜汽車の窓から見た家々の灯りの色と同じです」
「あらっ、柾木さんもそう思っていたの。実は私も、あの広場の街灯を見て、日本のことを思い出していたのよ。本当に懐かしい色ねぇ」
和子が微笑みながら言った。和子の横顔に一瞬だが、淋しさがよぎった。
「失礼ですけど、まだ、ご結婚はされていなかったですよね」
「ええ、まだよ。私たち、看護婦研修生は全員独身ですわよ」
和子はいたずらっぽく、笑いながら言った。
「だから、日本に帰って来る時は、お婿さんを連れてくるのよ!、と職場の仲間からは言われているの」
柾木もつられて笑った。なんだか切ない感じがした。
二人はレストランを出て、路地を歩いてホテルへの道を辿った。ホテルまでの道にも街灯が暖かい色で灯り、静けさと安らぎが揺らめいていた。
柾木が和子の横顔を見た。綺麗な人だと思った。
夕食はオテル・ビクトリアのレストランで摂ることとした。ヴィーノ・ロッホ(赤ワイン)が注がれたワイングラスを軽く合わせ、二人の夕食はこんな会話から始まった。
「五ヶ月振りの思わぬ再会を祝して!」
柾木に続けて、和子が静かに言った。
「慕情の街、タスコに!」
真紅のテーブルクロスの中央に置かれた蝋燭の炎が微かに揺れた。和子は紺色のシルクの柔らかなワンピースに身を包み、白くなめらかな喉元を僅かに見せて、ワイングラスを口許に運んだ。
「シティ・グループは全員元気ですか。順子とか睦美も元気に暮らしていますか」
「ええ、みんな元気よ。睦美さんなんかは元気過ぎて、シティを起点としてあちこち旅行して飛び回っているわ。下宿代が勿体無いんじゃないかと噂されているぐらいよ」
「睦美らしいや。この間もメリダに遊びに来ていましたよ。順子のことをいろいろと田中浩一に話し、浩一を大分憂鬱にさせていましたよ。賑やかなのはいいけど、無神経は困ります。浩一と順子の仲を知らないわけじゃないのに」
「あらっ、田中さんと順子さんは、今はうまくいっていないの? オアステペックではあれほど評判の二人だったのに」
「斉藤さんもご承知のように、我々は皆同級生なんです。順子は浩一とすぐにでも結婚したいと思っているんですが、浩一が煮えきらないんです」
「柾木さんらは大学4年で、まだ若いんですもの。でも、若さって羨ましいわ」
「そんなことは無いですよ。若さって、煩わしいですよ。僕は22歳になったばかりですが、結婚するとしてもあと数年は相手を待たせることとなり、その間の長さを思ったら、なんとなく憂鬱になります。浩一の場合も同じような状況だと思います」
「でも、私から見たら、それは贅沢な悩みよ。私なんか、もう三十の大台に乗ってしまうし、時々自分の年齢のことを考えると、がっかりしてしまうもの」
和子はヒレ肉をナイフで切り分けながら、呟くように言った。和子の知的な顔に一抹の淋しさが漂った。
柾木はそんな和子を愛しいと思った。看護婦という職業はハードな職業で、プロの看護婦として成長していく過程で、気がついたら婚期を逸していたということがよくある、という話を前に聞いたことがある。和子のように素敵な女性でもそうなんだなぁ、と柾木は痛ましい思いで和子を見た。
「でも、斉藤さんには、将来は大病院の婦長さんにもなれるという立派なキャリアがあるし、来年日本に帰ったら、就職戦線で翻弄される僕らとは違った、安定を約束された将来がありますよ。就職難を避けて、こうしてメキシコに一年留学している、いわばモラトリアム人間である僕らの眼から見たら、羨ましいのは、むしろ斉藤さんの方ですよ」
和子は微笑み、柾木を見た。見詰められて、柾木は照れ、ヒレ肉を口に放り込んだ。
「そう言えば、柾木さん。奥村さんとは? あらっ、失礼。睦美さんから、いろいろと伺っているので・・・」
柾木は喉を少し詰まらせた。慌てて、ワインを飲んだ。和子が志保美との仲を知っていようとは思いもしなかったからであった。柾木は少し狼狽した。
「奥村さんとは、もう過去形で語る話になっています。現在は、彼女はホルヘという医者の卵とつきあっていますよ」
「あら、そんなことになっていたの。柾木さん、ごめんなさい。私、そんなことになっているとは、全く知らなくって」
「いや、いいんです。前はつきあっていましたし、睦美もその当時のことしか知っていなかったんでしょうから」
二人の間に、少し気まずい雰囲気が流れた。
やがて、デザートとして、マスクメロンを半分に切った上にバニラ・アイスクリームが載せられた、メディオ・メロン・コン・エラードが運ばれてきた。
「ああ、僕はこれが好きなんです。メロンのばか高い日本から見たら、いかにも贅沢といったデザートですよねぇ」
柾木は努めて陽気に言った。
「本当に、そうねぇ」
和子も微笑んで言った。
遠くから、ピアノの音が流れてきた。柾木は聴くともなしに聞いた。ベートーベンの「月光」であった。静かな旋律の中に情熱が感じられる。この曲は、和子さんのようだ、と柾木は思った。和子も気づいたようで、小さくハミングした。二人の前の蝋燭がかすかに揺れ、ワインの瓶に映し出された炎もかすかに揺れた。
その夜、柾木はホテルの部屋に戻り、ベッドに横になったが、なかなか眠ることができなかった。アカプルコからのバスの長旅で、身体は確かに疲れていたが、彼の精神はむしろ高揚していた。
彼の心の中には、斉藤和子という女性に対するある種の感情が芽生え始めていた。それは、志保美に対する感情とは少し異なっているように柾木には思えた。双方、「愛」と呼ぶことができる感情には違いなかったであろうが、二歳年下の志保美に対する愛情と、七歳年上の和子に対する愛情は、少し異なっているように思われた。その愛情の種類の微妙な差が今夜の柾木義彦を眠れなくさせていたのであった。
柾木はバルコニーに出て、銀の月に照らされたタスコの街を眺めた。人口六万人ほどのこの街の夜景は、勿論シティの豪華絢爛たるきらびやかさは無かったが、異邦人の郷愁を誘うには十分すぎるほどのポテンシャル・エナジーは持っていた。
ノスタルヒア(郷愁)とネグラ・メランコリア(黒い憂鬱)。それは、二つとも、旅人が持ちすぎてはならぬ感情であったろう。
柾木は和子が泊まっているホテルの灯りに目を向けた。星が瞬き、部屋の灯りも時々少しずつ消えていった。和子の部屋がどこかは知らないが、和子のホテルの部屋の灯りを愛しいものと見ている自分の心が妙に哀しかった。
俺はどこに行こうとしているのか、柾木は揺れ動く自分の心を持て余し、夜の闇の中で低く呻いた。
タスコの月は蒼白く輝き、星は静かに瞬いていた。
翌日も、タスコの空は青く澄みわたっていた。
柾木は和子の泊まっているオテル・ランチョ・タスコのレストランに行った。既に、和子は片隅のテーブルに座り、柾木を待っていた。急ぎ足で来る柾木の姿を見て、微笑んだ。
「今日は寝坊をしてしまいました。昨夜はなんだかよく眠れなくて」
「昨夜は涼しかったわ。少し寒かったくらい。テレビを見ていたら、すぐに眠ってしまったの。おかげで、今朝は早起きよ」
「さて、と。今日はどこへお出かけですか? 僕はカサ・デ・ラス・ラグリマス(涙の家)の見物と、銀製品の店でもウインドウ・ショッピングしようかな、と思っていますが」
「じゃあ、私もおつきあいしていいかしら。一人で見てまわるのも、なんだか詰まらないし。柾木さん、私をエスコートして下さる?」
和子は少しおどけた口調で言った。
「僕で良ければ、喜んで!」
オテル・ランチョ・タスコもオテル・ビクトリアと姉妹ホテルというだけあって、造りはとてもよく似ていた。
通路の両側には、紅い花をつけるゼラニウムが大鉢にふんだんに植えられており、ホテルの中が花の街といった雰囲気を醸し出していた。
和子は白のブラウスに薄い青色のジーパンといったラフな感じの服装であったが、成熟した女性の魅力が溢れ、柾木には和子の姿態が眩しく感じられた。
二人はセントロへの道を辿り、途中の銀製品の店では、立ち止まってウインドウに陳列されているネックレスを眺めたり、或いは、店内に入り、様々な新奇なデザインの純銀の指輪、ブレスレット、ネックレス、ブローチなどを見た。製品の種類はさすがに銀の街と言われるだけあって実に多彩で、シティよりも豊富な印象を受けた。和子はセントロの店でネックレスとペンダントを買った。
「このネックレスは昨日も観たのよ。少し高いけど、シティでは見掛けないデザインだから、思いきって買うことにするわ」
和子はそのネックレスを胸元に当てながら、うれしそうに柾木に言った。銀の鈴が数個付いたデザインで可憐な感じがするネックレスであった。清楚な和子に良く似合ったデザインだと柾木は思った。柾木はそのネックレスが飾っている、和子の細い首筋を見るともなしに見ていた。綺麗だと思った。
カサ・デ・ラス・ラグリマスという奇妙な名前の建物は、昔の圧制領主、カデナ伯爵の屋敷であったが、今はフィゲロアという芸術家の所有するところとなり、美術館として運営されていた。セントロ近くにあり、柾木と和子はこの美術館でゆったりとした時間を持った。
「このベンチに座りましょう」
和子はレースのハンカチで首筋の汗を押さえながら、柾木を傍らのベンチに誘った。
「少し、疲れましたか? 夜は涼しいですが、日中はかなりの暑さですね。暫く休みましょうか」
二人は並んでベンチに腰を下ろした。美術館は人影も疎らで、静謐な雰囲気に包まれていた。
「私、先月は看護婦仲間とメリダに行ったのよ。そう、吉川純子さんもご一緒に。陸奥さんたちがいろいろとエスコートしてくれて」
「えっ、知りませんでした。それはいつでした?」
「そうね、丁度、一ヶ月前になるわ。越出さん、山田さん、早川さん、それに奥村さんと会ったわ。あっ、・・・、ごめんなさい」
奥村志保美の名を聞いて、柾木は憮然とした顔になった。
「いえ、構いません。それで、メリダの後は、カリブ海の方へ足をのばされたのですか?」
「ええ。コスメル、イスラ・ムヘーレスといったところへ。とても素晴らしいところばかりで感激したわ。カリブ海のあの淡いエメラルド・グリーンの海、夕方になると、夕陽を浴びて、メキシカン・オパールを散りばめたように七色に変化する、あの海。今でも、時々思い出すわ」
こう語る時の和子の瞳は夢見る少女のような瞳になった。和子の話に聴き入る柾木の表情も和んでいた。
「マヤの遺跡も観ましたか?」
「ええ、勿論。チチェン・イッツァ、それにウシュマル。アステカの遺跡と違って、マヤの遺跡は比較的そのままの姿で残っているのね。だって、ほら、アステカの建築物はスペイン人によって徹底的に破壊され、その石材を利用して、その上にカテドラル(大聖堂)を建てたとかいう話でしょう」
「ええ、そうですね。特にメキシコシティのアステカの遺跡はほとんどがそうですね。その点、パレンケとかウシュマル、チチェン・イッツァはほとんどが徹底した破壊は免れていますね。スペイン人が来る前に、既に都市としては放棄されていたということもあるでしょうけど。時に、パレンケ遺跡はまだ見られていませんか?」
「まだ行っていないわ。パレンケの遺跡はどちらかというと、地理的に言って、行きづらい遺跡なのね。あそこに行くには、確かビリャエルモーサまで行って・・・」
「後は、バスか飛行機ということになります。僕たちはフェリーペ、あのアメリカ人の大学院生のことですが、彼の車で行ったんで割合簡単に行けたんですが。女性の場合ならば、確かにそうですね、どちらかと言えば、不便なところですね」
柾木と和子の会話は暫く続いた。和子は自分が久し振りに饒舌になっているのに気づき、少し驚いた。関西訛りのある柾木のやわらかい口調にも惹かれるところがあった。ふと、自分がもっと若く、柾木がもっと年齢がいっていれば、と思った。
そんな眼で柾木を見始めている自分に気づいた。
良い友達になるしかない、そう寂しく思った。
「涙の家」を出た二人は、サンタ・プリスカ教会の裏手にある市営市場まで歩いた。
かなり大きなメルカード(マーケット)で食料品を始め、生活物資はほとんど揃っているという市場だった。銀製品も販売されており、デザインはセントロにある店よりは少し劣るものの、価格はまとめ買いをすればかなり安くなるという話であった。柾木はそこで指輪を何個か買った。女性ものの指輪を見ていた柾木に店主が声をかけた。
「セニョール! サイズは大丈夫か? セニョリータに一度、サイズ合わせをして貰ったらどうだい」
柾木は笑い、和子に言った。
「セニョリータ! サイズ合わせ、お願いできますか?」
「サイズ合わせ料は戴けるのかしら?」
和子も楽しそうに笑って、その指輪を手に取った。
「セニョール! 指輪はそちらのセニョリータにぴったりですよ。婚約指輪としてどうですか?」
売店の主人の言葉に二人は思わず笑った。柾木はその指輪を買った。
「私たち、ノビオス(恋人たち・婚約者)に見えたのかしら」
帰り道で、和子は柾木に笑いながら言った。
「こうして歩いている姿は、そのように見えるかも知れませんね」
「じゃあ、少し離れて歩きましょうか? 柾木さんがご迷惑するといけないから」
「また、そんなことを言って! 僕は光栄だと思っているのに」
和子は優しく微笑み返した。
「あそこの店で、アイスクリームでも食べませんか?」
柾木が誘った。柾木の視線の先に、ネベリーア(アイスクリーム店)があった。
「あらっ、誘惑なさるのね。今、和子はダイエット中なんですよ」
「失礼しました。でも、昨晩のお食事の様子を見る限り、ダイエット中なんて、僕は信じませんよ」
和子が吹き出して笑った。
「柾木さんにはかなわないわね。でも、太ったら、責任をとって戴きますわよ」
二人はネベリーア・テレスィータという店に入った。
「メキシコもあと五ヶ月ね。柾木さんは日本に帰ったら、どういうご予定をしていらっしゃるの?」
「四年に復学して、五月頃からぼちぼち就職試験を受けることとなります。一応は、語学が役に立つと思われる、商事会社の試験を受けようかと思っているんですが。どこの会社を受けるかはまだ何の目処もありません」
「今は就職難ということで大変ねぇ。でも、柾木さんは優秀な方だから大丈夫ですわ」
「来年は大分、就職難も緩和され、ほぼ希望のところに入れるという話が大学の友達からの手紙に書いてありましたが、それでもまだ、よりどりみどりというレベルには回復していないとのことなんです。メリダの社会人研修生の陸奥さんとか辻内さん、垣田さん、豊田さん、辻さんが羨ましいですよ」
「男の人は最初に入る会社で一生のコースが決まってしまう、と言われますものね。大変なのね」
「看護婦さんの場合はどうなんですか? よく別な病院に移るということがあるんですか?」
「私の場合は看護大学を卒業して今の病院に入り、そのままなんですけど、一般的にはかなりの率に上るんじゃないかと思います。看護婦の場合、仕事の量、質の割には待遇が良いとは決して言えないの。より良い待遇、勤務条件を目指して勤務先を変えるという事例はよく見かけますもの」
「誰だって、仕事につくからには、それ相応の報酬、待遇を求めますものね。それでも、多くの会社のように結婚即退職というケースは少ないんでしょう?」
「それも、その人の置かれている環境によりますわ。家にお母さんがしっかりしていらっしゃるところでは、出産後もそのまま同じ病院で働くというケースは多いんです」
「斉藤さんの場合だったら、どうですか?」
「私の場合? 幸い、両親が健在ですから、そのまま働かせて戴こうと考えてはいるのよ。でも、貰ってくれる人がいれば、の話よ」
和子は屈託なく笑いながら言った。
「斉藤さんは魅力的なひとだから、今までで縁談の話は相当あったんでしょう?」
柾木は普段と違う自分に気づき、内心驚いていた。今まで、女性に対して、この種の立ち入った質問なぞしたことが無かったのに。言ってしまってから、柾木は後悔した。しかし、和子は予期に反して、嫌な顔をせずに、率直に答えてくれた。
「ええ、ありました。勿体無いくらい、いろんな方から。相手の方も素敵な方たちばかりで。お断りするのが本当に申し訳なくて。でも、ぴんとくるものがなかったんです。寮暮らしなら、別だったんでしょうけれど、私の場合、幸か不幸か自宅からの通勤だったので、のほほんとしてしまったんでしょうねぇ。男の方も自宅通勤者は結婚が遅くなるというお話ですものね。のんびりしてしまったのでしょう」
「斉藤さん、すみません。馬鹿な質問をしてしまって。気を悪くさせて、・・・」
「ううん、いいのよ。気なんか悪くしていないから。・・・、でも、不思議ね。柾木さんの前なら、何でも話せる気になるの。男のひとの前で、こんなにお喋りになったのは初めてよ」
「僕もシティとかオアステペックで見た斉藤さんとは違う斉藤さんを知ったような感じがしています。五ヶ月前の斉藤さんたちは、我々学生から見たら、上品なお姉さんといった感じで、相手にもして貰えないようなキャリアウーマンに見えましたから」
二人は声を立てて笑いあった。
やがて午後を迎えようとするネベリーアの店内で屈託のない二人の明るく打ち解けた会話が弾んで流れた。
午後の暑い陽射しの中、二人はネベリーアを出て、サンタ・プリスカ教会裏手の人類学博物館、アラルコン・フアン・ルイス通りに面した「フンボルトの家」、セントロへの戻り道にある「市役所」の内部を見学した。
タスコの路地は急な坂道が多く、しかもごろごろとした石畳のせいか、時々和子は靴が滑って転びそうになった。二人は自然と肩を寄せ合い、手を取り合って歩くようになった。
「この方がノビオス(恋人たち)らしく見えて、自然ね」
和子は少し照れて言った。柾木も掌が汗ばむのを感じた。和子の細い手もしっとりと湿りけを帯び、柾木にはひどく官能的に感じられた。
「明日は、私はアカプルコ、柾木さんはシティということで暫くはお別れね。日本に帰っても、柾木さんは大阪、私は東京ということで会いたくなっても、そう簡単には会えないわ。お会いするのは、年に一度の留学生の同窓会ぐらいなものになってしまうのね」
「年に一度では、僕たち、七夕さまみたいですね」
「本当にそうね。でも、このタスコの思い出はきっと良い思い出になるわ」
「慕情の街、タスコ。・・・、今日だけ、和子さん、と呼んでいいですか」
和子は、はにかみながらも軽く頷いた。
「メリダに帰ったら、手紙を書きます。和子さんも僕に手紙を下さい」
和子は眼を伏せたまま、黙っていた。しかし、柾木の手はそっとだが、一瞬握り締められた。
夕方、ホテルに帰り、柾木はシャワーを浴びた。それから、バルコニーに出て、椅子に腰を下ろし、暮れていくタスコの街を眺めた。夕暮れ時の哀愁を噛み締め、柾木は和子のことを想った。和子と居る時は、自分の心がのびやかに開放されていくのが感じられた。志保美と居る時には感じられない感情であった。志保美と居る時は多分緊張ばかりしていたのだろう。勿論、志保美には志保美なりの魅力は当然あり、それは、かつては快く感じられた魅力であったのだが、和子と出会った今となっては、志保美の魅力は多分に色褪せて感じられた。
自分の心の移ろいやすさを痛切に感じ、柾木は不機嫌になった。
夕陽が山際を紅く染め始めた頃、サンタ・プリスカ教会の鐘が鳴り渡った。
その澄んだ鐘の音色を聴いていた柾木の眼に涙が浮かんだ。涙はやがて溢れ、柾木の頬を伝って、零れ落ちた。
柾木は涙が出るままにまかせ、いつまでも落日を瞠つめていた。
「今夜はタスコでの最後の晩餐だから、少し豪勢にしましょうよ」
「そうですね。先ず、ワインから始め、フルコースで食べましょう」
柾木と和子はオテル・ビクトリアのレストランのテーブルに座った。
やがて、ワインと前菜が運ばれてきた。二人は軽くグラスを合わせ、乾杯した。
前菜としては、海老のカクテルとソパ・デ・ベルドゥーラス(野菜スープ)を取った。昨夜と異なり、ヴィーノ・ロサ(ローズ・ワイン)を二人は飲んだ。やや辛口のワインが少しほろ苦く感じられた。
茸入りのヒレ肉のステーキが二人の前に置かれた。二人は言葉も少なく、食べた。
テーブルの中央に置かれた蝋燭の炎を瞠つめながら、柾木は和子に静かに語りかけた。
「和子さん、仮定の話として聴いて下さい。ここに、一人の男がいて、交際して数日にもならないのに、一人の女性を愛してしまい、・・・、ふいに、結婚を前提とした交際を申し込んだとしたら、和子さんなら、どうしますか?」
和子はナイフとフォークを皿に置き、柾木の顔を視た。それから、静かに眼を伏せながら、ほとんど囁くような口調で答えた。
「その男のひとが私と同じくらいの年齢で、私もそのひとを好きになっていれば、お受けします。・・・、でも、その男のひとがずっと年下ならば、例え、そのひとを好きだったとしても、お断り致します。お友達としてのおつきあいならば、構いませんけれど、結婚の対象としては、その男のひとを見たくはないのです」
「年下の男は結婚の対象外ということなんですか」
柾木は思いつめたような眼で和子を見詰めた。
和子は白く細い指を真紅のテーブルクロスの上でもてあそびながら、また静かに語りかけた。
「一つ、二つの齢の違いならば、お受けするかも知れません。でも、ずっと年下ならば、両方とも、やがては不幸になってしまう、と思うのです」
「でも、その男が彼女を深く愛し、彼女も彼を愛し始めていたとしても、ですか?」
「私、こう思うんです。それは、ひとときの気まぐれな感情ではないか、と。つまり、これからお話しすることは、ごめんなさいね、・・・、恋人を失った、淋しい男が異郷での旅に出て、同郷の淋しい女に出会い、以前の恋人には無かった魅力を感じ、そこで新たな恋に陥った。そして、ずっと年上にもかかわらず、その女に恋を打ち明け、結婚を申し込む。日本に帰って、結婚する。最初は充実した結婚生活がおくれるかも知れないわ。でも、十年後の二人の年齢を考えてごらんなさい。男は33歳でまだヤング・ジェネレーションの世代、一方、女の方はと言うと、40歳の立派な中年のおばさんになっているのよ。どちらも悲惨だわ」
和子は眼を伏せたまま、そっとハンカチを取り出し、目頭を押さえた。柾木は情熱的な眼を和子に向けて、更に訊ねた。
「愛。愛はそんなに儚いものなんですか。十年後、二十年後には消えてしまうものなんですか。僕はそう思いたくはないし、僕で良ければ、あなたを幸せにすることはできると思うんだ」
「結婚、しなくとも、・・・、今でも十分幸せな気分よ。昨夜、あなたと別れ、ホテルの部屋に戻って、暫く泣いたわ。あなたがもっと年齢が上で、私ももっと若かったら、と思ったら、涙が止まらなくなったの。本当に、久し振りに、私、泣いてしまった。でも、やはり、将来の二人のことを考えると、無理だと思う。あなたは若いのに、私だけ、おばさんになってしまう。耐えられないことなのよ」
和子はまた目頭を押さえた。
二人の間に暫く沈黙の時間が流れた。
柾木は、ワインをひと口飲み、静かにワイングラスをテーブルに戻しながら和子に語りかけた。
「時、が必要みたいですね。愛を確かめる時間が僕たちには必要みたいですね。・・・、では、このようにしませんか。来年、僕は日本に帰って、就職試験を受け、希望するところの内定の通知を貰った時点で、あなたに連絡をします。その時、あなたに僕の愛を受け入れる状況ができていれば、僕に会って下さい。あなたの方で好きなひとがいたり、今の気持ちのままであったら、僕にノーという返事を下さい。但し、それまでは、僕と絶縁しないでいて下さい。・・・、いいですか?」
和子は静かに目を上げた。彼女の眼は少し赤くなっていた。和子はかすかに微笑みながら答えた。
「そうね。冷却期間を置きましょう。今はこうでも、明日は分からない。柾木さんも心変わりするかも知れないし、私だって、独身に飽きて、日本に帰ったらすぐお見合いをして結婚してしまうかも知れない。今は、結婚を前提としないで、自由な友達関係でいましょう」
柾木は和子の瞳を瞠つめて、グラスを前に差し出した。
和子もグラスを差し出し、かすかに二人のグラスは触れた。
「私たちの友情のために!」
和子が囁いた。
柾木が呟いた。
「そして、これから始まる愛のために!」
翌日、和子の乗ったアカプルコ行きのバスを見送った柾木は同じ停留所からシティに向かうバスに乗り込んだ。
バスは走り出した。
タスコの街が遠ざかっていく。
赤茶けた煉瓦の屋根と白い壁の美しい街並みと別れを告げた。
そして、銀の鉱山のなだらかな岩肌と疎らに生えた潅木をぼんやりと眺めながら、柾木は呟いた。
「デズデ・アオラ・エンピエッサ・ヌエストラ・ヴィーダ(今から、僕たちの人生が始まる)」
前方の空は薄雲がぼんやりとかかっていたが、遥か彼方のシティの方角には真っ青な、雲ひとつ無い青空が広がっていた。
バスの運転席から、マリアッチの音楽が流れてきた。
ラジオでもかけているらしい。
「スィエリート・リンド(美しい空)という曲であった。
柾木は、これから始まる、和子との愛を想った。