片鱗 ~秘めし者~/4
◆◆◆
びゅう、と冷たい風が頬に触れる。
吹き抜けた木枯らしはまるでカマイタチのように私の肌を冷気で切り裂いて行く。
師走を迎える夜分、日に日に寒気は迫り世界は暗く暗く落ちていく。
そんな世界を照らす様に、周囲を漂う管狐が金色に輝く。
「なるほどね、言われてみれば確かにそうだ。盲点だったけど確かにそう、気づかせたくないから降ろさなかった。その考えはありよ。ほんと、良く気づいたと感心するわ、レイコ」
「たまたまですけどね。でも確かに佐々木も言っていたんです、行方不明者はここにいる、と。きっと油断もあったんだとは思います。でも」
「零した言葉は嘘じゃない、ってわけか。うん、確かにそうだ。特に調子に乗って油断した奴の台詞だ、信憑性を疑えって方がどうかしている」
規制線で仕切られた旧校舎。
まるで外界と分かつ結界のように立ちはだかるそれをミナトさんは難なく越えていく。
彼女の周囲を浮遊する管狐はまるで王の指揮を待つ軍勢のように彼女の背後に控え、煌々と輝くその金色を背に、ミナトさんは不敵な笑みを浮かべた。
「上出来、なんてもんじゃない。武功第一と言っても過言じゃないわ。ほんと、今日はレイコの言葉が頼もしくってしょうがないわね」
「ミナトさんこそ、誉めすぎです。これ以上は何も出ませんよ?」
「むしろさらに隠し玉があったらもう師弟の崩壊よ。正直言うとあなたの師匠として自信を無くし始めてるところ」
言った台詞の割にその背筋はピンと伸び、佇むその姿は威風堂々。
まったく、なにが自信をなくしそうだうそつき。むしろその逆じゃないか。
「でも、何も無い可能性だってありますよ? いえ、むしろそのほうが大きいかと思います。だって戦場跡ですよ、手掛かりをそのままにしている方がおかしい」
「ええ、レイコの言う通りね。でも痕跡ばかりはどうしようもないわ。だから必ず何かしらの爪後は残っている。それだけあれば十分よ。だって――」
何も無いより何倍もまし。
呟くように零れた最後の台詞が今の彼女の気持ちの全てだった。
高見さんがいなくなったという告白。それを聞いて私が提案したのが旧校舎の探索だった。
ミナトさんは高見さんと別れて調査をし、待ち合わせ時刻になっても何も連絡が無いことから異常事態と判断、その後調査と並行しながら彼を探していたのだという。
今の時点で何も連絡がないところから考えて高見さんが敵の手に落ちたのは決定的だ。
むしろ、そうであれば良い方で、ミナトさんは何も語らないけれど、高見さんが既にやられてしまっている可能性だってある。
だからこそ彼女は焦っているし、余裕を無くしていた。
だから、私は別の角度からのアプローチを提案したのだ。
事ここに至ってミナトさんが何もつかめない以上今さら闇雲にあがいた所でどうしようもないのは明確で、だったら私が見つけた旧校舎の手掛かりから追いかける。関連性の在る無しでなく、とっかかりとして捜査する。
ミナトさんが言った様に、何も無いより課は遥かにましなのだ。
「それでレイコ、具体的には調べてはいるの?」
「いいえ、なにも。その……」
「ん? どうしたのよ、言い淀むなんてレイコらしくない」
「ええ、これも私らしくない台詞なんですけど。その……、私一人で調査をしたら悪い結末になる予感がして」
「――――」
本当、私らしくもない感傷だ。
嫌な予感がした、だから尻込みして逃げましたなんて、らしくない。
「いいえ、そう感じたのならむしろそれは正解よレイコ」
「え?」
「私たち退魔師が扱う霊力・霊感っていうのは五感に次ぐ第六の感覚よ。これを第六感と呼ぶ。ほら、虫の知らせって言葉があるでしょ。なんとなく嫌な予感がしたとか、なんとなくそうなる気がしたとかそういうやつ。あれは私たちの根幹である魂そのものが感じ取っている感覚なの。だからね、私たちにとってそういう予感というのはむしろ武器よ。信じなさいレイコ、あなたは正しい選択をした」
ポンと肩を叩かれる。そのままミナトさんはなんの気負いもなく旧校舎へと乗り込んでいく。その後ろ姿は凛々しく頼もしい。
私の拙い情報はそれでも彼女を立ち直らせる役に立ったらしかった。
「さぁレイコ、調査開始と行くわよ」
「はい!」
颯爽と歩く師匠の背中を私は追いかけた。
筒を構えるでもなくミナトさんは旧館の扉を開けた。
錆びて重くなった扉の重低音と共にすえた黴の匂いが零れ出る。
彼女の後から侵入した私は両手に筒を構え、いつでも発射できる姿勢を維持。
まるで刑事ドラマみたいな突入姿勢。散歩でもいくような様子のミナトさんとは正反対で、なんだか私が一人でコントをやっている様な滑稽さだ。
「緊張しすぎよレイコ、そんなんじゃ本当にいざという時に動きが固くなるわ」
「そんなこと言われても、正直なんでそんなにミナトさんがリラックスしているのかわからないんですが……」
「んー、まぁ場数の差かな。レイコは剣道の試合でなら経験は豊富だろうけどさ、こういう本当の戦いっていうか、要するに命がけって経験ないでしょ? まぁあったら問題だけど。それの差よ。こう見えても私ってかなりの武闘派だからさ、けっこう経験値多いのよ」
すっすっ、と視線を左右に散らしながらミナトさんはそんな軽口をたたく。
確かに私にはミナトさんのような経験は無い。言われた様に剣道の試合だけだ。
命がけの戦いなんてやったことないし、あるとも思ってもみなかった。緊張するなという方が無茶だろう。
「レイコの推測じゃあ一階が妖しいって話しだけど、具体的にはわからないかな?」
「ええ、そこまではまるで」
「そっか、ならまずは探索をしないと」
ミナトさんの背後が金色に揺れ、管狐による部隊が指揮官の命によって旧館の中へと次々に飛んでいく。
トレンチコートのポケットに手を入れたままそれを見守る彼女の姿は堂々としていて凛々しい。
「まずは様子を見ましょう。彼らが何かを見つけてくるだろうから、私たちが動くのはその後ね」
「改めて思いましたが、すごいですねミナトさんの力って」
「うん? どういうこと?」
「だって戦闘だけでなく今のように索敵にも使えるじゃないですか。数は多いし自分が動く必要なく様々な事をこなせる。すごくないですか?」
「ああ、なるほどね。まぁ確かに便利な力ではあるわね。でも、レイコには私がこういう使い方をしているから勘違いさせちゃってるけど、管狐って本来は戦闘には向かない妖なのよ」
「え、そうなんですか?」
思わず間抜けた質問を返してしまう。
でも戦闘に向かないなんて、佐々木を倒した時のようにあれほど圧倒的な力があるのに信じられない。
「念のため旧館全部を調べているし、戻ってくるまではもう少し時間がかかるから丁度いいかな。レイコにはあまり話してなかった話題だものね、あなたも立派に戦えた事だし、少しだけこの力について解説してあげましょう」
「それはありがたいですけど、いいんですか?」
ポケットに手を入れたまま壁に寄りかかるミナトさん。
彼女から妖の話しを聞く事はあまりない。というか展開がめまぐるしく動き過ぎて聞く暇もなかったというのが現状だ。
我ながらそんな中で良く平静を保ってこれたと思う。
だから本来ならばありがたい話だ。けれどそれとこれとは別問題。
ここに来た目的は行方知れずの高見さんの手掛かりを少しでも掴むためなのだ。正直話しをしている時間すら惜しいはず。
「ここも結構広いからね、管狐が探索し終えるまで時間がかかるわ。とくに、見落としを無くしたくないから少し念入りにするよう命じてあるしその間は暇を持て余すだけ。だからあなたに指導する時間はあるの。それにね、まぁやっぱりさ、こうして何かしらやって気を紛らわせたいのよね」
「――――。ぜひ、御指導をお願いします」
「あら、やけに素直じゃないレイコ」
私の返答にミナトさんは嬉しそうに笑った。
「うん、じゃあ始めるけれど、さっきも言った通り管狐っていうのは本来は索敵なんかに用いる、諜報活動向きの妖なの。というかね、私やソウジくんの様な憑き物筋と呼ばれる退魔師というのは元々戦闘には向いていないのよ」
「ミナトさん、そもそもその憑き物筋というのはなんなんですか?」
「憑き物筋というのはね、妖怪に取り憑かれた家系の事を指す言葉よ」
「取り憑かれた家系、ですか?」
「そうよ。妖怪というのは本来は単体・個人に取り憑いてその霊核を乗っ取りその身体を自分の物として支配するわ。
この現象、取り憑かれたモノの事を『妖憑き』と呼ぶ。
けれど一部の妖怪や極稀な現象として単体ではなく、家系そのもの、つまりは血筋に取り憑く妖がいるの。
取り憑く、というよりはその血筋の主と契約を取り交わし彼らの一族を宿主とする代わりにその血筋に富や名声をもたらす。
妖憑きが一方的に妖怪が宿主を支配する形なら、憑き物筋というのは互いに寄添う『共依存』の関係ね」
「じゃあミナトさんと高見さんも、お二人ではなくその血筋に取り憑かれているという事なんですか?」
「そうよ。それもずっと前の、私たちはまったく知りえない大昔の人が交わした契約によって取り憑いかれているの。こういうのってさ、だいたいその契約を交わした者にとっては、もしくはその一代あとくらいにはまだ得があるんだけど、もう何代後だかわからないほどになる私たちの様な子孫にとっては傍迷惑な話しでしかないのよ」
困った顔で溜息を零すミナトさん。その表情には今までの苦労でも振り返っているのか、かなり濃い疲労が浮かぶ。
前に荒巻先生が言っていた動物憑きという言葉。これはミナトさんの言う憑き物筋と同じだ。
なら先生が言っていたのはこの事で、本当に妖怪に取り憑かれ、その結果として迫害を受けた人たちがいたという事だ。
ミナトさんと高見さんもきっと、この例に洩れず同じ経験をしているということ……。
「憑き物筋っていうのは昔から嫌われていてね、確かに富をもたらしてくれたりはするのよ? でもそれ以上に厄介事も憑いて回ってさ、有名な話じゃ結婚が決まっていた男女のどちらかが憑き物筋ってわかった途端に縁談が破棄された、とかね。とにかく嫌われもので村八分的な存在。それが憑き物筋の宿命なの。ほんと、嫌になる」
「……それは、妖怪が取り憑いているから、ですか?」
「うん、それもあるんだけどさ、憑き物筋の家系ってかなり奇抜な行動に走る事も多くてね、それで昔から気味悪がられているの。
ああ、でも私とソウジくんはそんなことないわよ。私たちはちゃんと自らに取り憑いた妖と共存できているからね。
何度か見てきたと思うけど、むしろ私たちの力と成っているでしょ。
こうやって扱える分にはいいんだけどね、時が過ぎれば過去を忘れるっていうかさ、自分の家系にそんな妖が取り憑いている血筋だなんて知らないで育つともうただの精神病患者と変わらなくなるのよ。それも重度の。だから気味悪く思われるってわけ」
「でもお二人はきちんと手懐けているからそうではない、と」
「ははっ、手懐けてるっていいわね。うん、その通りかも。私とソウジくんはきちんと自分の力の一部として血筋に取り憑いた妖と折り合いを付けている。だから大丈夫だし、妖を使役する、なんて特殊な退魔師として活動しているんだしね」
「そういえば前に高見さんが僕たちは異端だ、とおっしゃっていましたけど、そういう事だったんですね」
「あら、ソウジくんってばレイコにそんな事話したんだ。でもまぁうん、その通りよ。だって考えてもみて、討伐される妖からしてみたらさ、自分たちの仲間が自分達を狩りに来ている様なものなのよ? 仲間の退魔師にしたって同じ退魔師であるはずの人間が妖に取り憑かれてるとかおかしいじゃない? だから妖を使って妖を倒すなんて、異端というより他無いわね」
カラカラとおかしそうに笑うミナトさん。その表情からは悲しみの色は見受けられない。
話しを濁されてしまった感はあるが、先程の言葉の端々からはミナトさん達が自らの血筋に取り憑く妖によって迫害を受けて来た過去を窺わさせた。
なんていうことだろう、荒巻先生は動物憑きは病気の一種であってほしいと言っていたけれど、そんなことは無く、本当にそういう人たちは実在した。
「ちょっと話しは逸れたけど憑き物筋っていうのはわかったかな? ついでに言うと私たちみたいに憑き物筋でありその妖を操るモノの事を憑き物師って呼ぶわ。レイコの場合はまた違うけどさ、私たちは憑き物師の名を冠する退魔師ってわけ」
「わかりました。でもそうすると、どうしてミナトさんたちは戦闘に向かない事になるんですか?」
「うん、良い質問だ。そもそも憑き物筋として血筋に取り憑く妖っていうのは大体が動物霊であって有名どころとしては犬や狐、狸と言った小動物が多いわ。
彼らは皆戦う力をあまり持たなくてまた所有する妖力とよばれる、人間でいうところの霊力・魂の力が少ないの。
そうすると単純に妖憑きとして人間に取りつこうとしても逆に取り込まれてしまったり、取り憑いても完全に操る事ができなくてただおかしくなった人間として処分される可能性が大きい。
でも妖だってそこに存在している以上は『生きている』わけ。ならなるべくなら生き残ろうとするでしょ?
その結果として選ぶのが支配する事ではなく宿主と定めたモノに恩恵を与える事で保護してもらう『共依存』の関係よ。
そうして血筋を重ね、年月を連ねる事によって徐々に彼らはその妖力そのものを強化して行くってわけ。
だからね、簡単に言っちゃえばそもそも妖自体の力が弱いのよ。だから戦闘には向かない。だって戦ったら負けちゃうから」
なるほど、と思わず掌を叩いた。
確かに戦っても負けてしまうほど力がないのなら確かに戦闘は無意味で避けるべきだろう。
「その代わりの力として諜報活動の様な補助的役割に特化したんですね」
「はい、正解。さすがはレイコ、すぐに答えを導き出すなんてやるじゃない」
「そうですか? 消去法として考えればわかりそうですけど」
「それが普通の事ならね。でも今話している内容って普通とは真逆でしょ? むしろ何も知らない人が聞いたら私たち二人とも正気を疑われるわ。だって常識の範囲外なんだもの。なのにレイコはあっさりとそれに順応しているしそこから答えを導き出す力もある。思考が柔軟でかつ賢い証拠よ」
言葉が終わると同時に当たりが管狐の纏う光に照らされる。どうやら調査を終えた彼らが帰還したらしい。
「ふつう取り憑く妖というのは一匹よ。ソウジくんだってそう。彼があんなにも『犬』を操れるのはそれが彼に取り憑いている『犬神』の力でもあるから。実は彼に取り憑いている犬神って結構強いのよ」
「じゃあミナトさんは?」
「私は別。異端の中でもさらに異常な存在。私の血筋には数百という管狐が取り憑いているわ。だから彼ら全てが私の力であり武器である。幾百もの妖を従え己が意のままに操る軍師、それが私であり私の力の正体よ」
調査を終えた管狐たちが虚空へと消えていく。
よくよく見ればそれはまるでミナトさんの体内へと入って言っているかのようでもあって。
「さて、じゃあおしゃべりはこれくらいにして穴倉探しと行きましょう。どうやらレイコ、あなたの推測は大当たりよ。この子たちがこの階に地下室を見つけたわ」
ミナトさんの後に続いて辿り着いた場所は空き教室の一角だった。
もちろん旧館だから全部空き教室なんだけど、おそらくは旧館が全盛期の頃も空き教室であったはずだ。他よりも一回りほど狭い造りのそこはおそらくは準備室の様なものだろう。いわゆる物置だ。
私が管狐を大暴れさせたせいで崩れたそこには瓦礫が積もっている。けれどそれをミナトさんは管狐を用いてあっという間に片付けた。
――――そうして。
「なんていうか、お決まりの扉って感じね」
呆れた様な口調。
私たちの足元には黒い鉄扉が横たわる。
それはまさに地下へと続く隠し扉で、三流映画にでも使われそうな代物だ。ミナトさんの気持ちもよくわかる。
「レイコ、念のため筒を構えておきなさい。背後にも管狐を放っておくけど、いつ何が起こっても不思議じゃないわ」
「はい、わかりました」
一段低くなった声音にそれだけで私の緊張が高まる。
右足のホルスターから筒を三本取りだして構える。四本よりもよっぽど構えやすく扱いやすい本数だ。
「じゃあ、入るわよ」
扉に手をかけてゆっくりと引き上げる。
重苦しい重低音が旧館に木霊し、それはまるで泣き声のようだ。
ああそうか、これがナオヤの言っていた猫田くんが聞いたという泣き声の正体。きっと彼の他に大勢が聞いていたのなら人魂の他に怪談話が増えていただろう。
黒い扉の先には暗い穴。
ぽっかりと口を開けた先には地下へと続く階段が伸びる。
――――ごくり。
思わず唾を飲み込む。
まさか本当にこんなモノを見る機会が来るなんて思ってもみなかった。
けれど私の緊張とは裏腹にミナトさんは慣れた足取りでさっさと地下へと降りていき、私は大慌てでその後を追いかけた。
ゆっくりと暗い階段を下りる。
階下は明かりなど灯っていないらしく真っ暗だ。
管狐による発光でわずかに光が生まれるが、それ以上に強調される暗闇にどうしても心を捕らわれる。微かな光よりも端々に巣食う闇への恐怖が勝るのだ。
「さて、到着と」
おそらくは二階建て分ほどの距離を下り、辿り着いたそこにはまたもや鉄扉。それにミナトさんは鋭い視線を向ける。
「なるほどね、簡易的な魔除けが施されている。どうりで管狐が進入できなかった訳だ。レイコ、ちょっとだけ下がってて」
指示に従い無言で後退する。
ミナトさんも距離をあける様に下がり、扉に向かって掌を翳す。
「結界を張るなら強引にぶち破れば問題なしっと。展開・雷檄の陣――突撃!」
管狐が金色の槍と化し扉に激突する。
一喝の後の轟音、そして爆発と噴煙。
いったいどうやったらこんな芸当を起こせるのかと思う程、それは容赦のない一撃で。
さっきミナトさんは管狐が攻撃に向いていないと言っていたけれど、どう考えればこれが攻撃に向かないと言えるのか後で問いただしたいほどの威力で扉は欠片も残さず破壊されていた。
「さて、露払いはすんだわね。あとは――鬼が出るが邪が出るか」
舞い上がる粉埃を手で払いつつミナトさんは憶することなく入っていく。
「――――っ」
一瞬の躊躇い。
でもそれ以上を私のプライドが許さなかった。
手にした筒をぎゅっと握りしめ、意を決して奥へと進む。
「ここは――」
「さて、いったい何に使っていたのかは知らないけれど、碌な場所じゃない事だけは確かなようね」
「なん、ですか……ここ!?」
「レイコ、少しの間息を止めていなさい。それかここを出て上で待っていて」
外からではまるでわからなかった、でも入ってみてはっきりとわかる、ドロッとした粘り憑く空気。
呼吸のたびにそれは私の中へと侵入し身体の隅々まで犯しに掛かる。
少し吸い込んだだけで意識が混濁しかけた私は、なんとか息を押し殺しそのまま次の指示を待つ。
「――ったく、強情っぱりめ。でもま、そういうの嫌いじゃないわ」
呆れた様な顔を向けられる。
外に逃げるとでも思われていたのだろう、でも師匠を置いて一人だけ安全な所に避難するなど弟子のすることじゃないだろうがばか。
苦しいのを我慢する事数秒。
ハンカチを取り出し何やら唱えていたミナトさんは、終えるとそれを私に差し出してきた。
「ほら、これを口に当てていなさい。そうすればだいぶ楽になる筈よ。簡易的な浄化の祝詞だから完全には防げないけど、それを通して呼吸すれば呪いに中てられないで済むわ」
「ありがとうございます。――あ、ほんとだ」
「でしょ。私って色々と異端者だからさ、こういう神道系の浄化術ってのも修めてんのよ」
「はぁ」
そんな事を言われても良くわからないのが正直な感想だ。
しんとうけい、というのはなんだろう「神道」の事だろうか? ならば神社仏閣関係だとは思うけど、たしかミナトさんは自分は陰陽系と言ってなかったろうか。
「それでミナトさん、ここは一体何なんですか?」
とりあえず今抱いた疑問は棚上げだ。
この場で聞くべき事柄でないし、聞かなければいけない事は山ほどある。
「そうね、一言で言うのなら『檻』が正解かな。拷問部屋とか実験室っていう言い方もできるけど、この漂っている妖気からして檻が適切ね」
「どういう事でしょうか? 確かに密閉された地下室の様ですが」
ミナトさんに貰ったハンカチの効果で漸く周囲を見渡す余裕が生まれた。
まだ多少の息苦しさはあるけれど我慢できるレベルだ。
何よりもこの異様な空気が身体へ侵入してこなくなったのは大きい。
この地下室は丁度私たちの教室と同レベルぐらいの大きさで、周囲をコンクリートで囲まれた箱のよう。
ミナトさんが破壊した扉以外には出入り口は見当たらない。
入り口側から見て左端には机と椅子がそれぞれ置かれているのみで、これもきっと旧校舎の備品か何かだろう、恐らくは教員用のそれを運び入れたようだった。
そしてミナトさんはそこに近づき、抽斗を開ける。
「やっぱり、ね。ほら、見なさいレイコ。ノートがあったわ」
「ノート……、という事は佐々木がここで何かをやっていたという事でしょうか?」
「ええ、おそらくは。もしくは誰かが佐々木に何かをさせていたか、ってわけだけどね」
「それは、高見さんを攫った者、ということですか?」
「でしょうね、十中八九、間違いない」
パラパラとページを捲っていくミナトさん。読んでいるというよりは、中身をざっと眺めているといった様子。
「うん、やっぱりそうだ。レイコの推測通りよ。このノートによると行方不明者たちは確かにここにいた。それは間違いない。そしてこのノートはその観察記録の様ね」
「観察、記録……?」
「そう。ねぇレイコ、コドクって言葉、聞いたことあるかしら?」
「…………いいえ、ありませんけれど」
発音からして『孤独』ではなさそうだ。けれどそれ以外だと思いつきもしない。
「ま、知っていたらそれはそれで問題か。『蠱毒』って言ってね、古い時代の呪いなのよ。起源は中国まで遡るから相当昔からあるやつなんだけど、かなり性質の悪い呪い。そうだな、わかりやすく言えば超人を創り出す呪いってところかしら」
「超人ですか? それはあの?」
「うん、その通り。まぁレイコが何を連想したのかはわからないけどさ、人を超えた存在という意味の超人ね。
それを人為的にかつ、呪いによって創り出す秘術よ。
まぁもっとも本来は虫を使ってやるんだけどさ、だから『蠱毒』ってね。
やり方としては単純で、大量の毒虫なんかを一つの壺の中に入れて密閉して放置する。そうするとさ、その中で生存競争が起きて殺し合いになるの。そうして全てを喰らって生き残った最後の一匹に、その喰らわれたモノたちの怨念や力が集中して特殊な生物のできあがりってわけ。
それを呪いを掛けた人間でやると超人が生まれるってわけ。ま、精神的には破壊されちゃってるんだけど」
「…………そんな、非道な事が、ここで起きていたってわけですか?」
「このノートによれば、ね。それからレイコ、これは非道じゃなく外道よ。だから今あなたが抱いた嫌悪感は正しいわ。
こんな事正気の沙汰じゃできない人の道から外れた行いよ。
私たち退魔師っていうのはその性質上どうしても法から外れざるを得ないの。だから『外法者』とも呼ばれるわ。
けれどね、それでも外れちゃいけないモノっていうのはある。
だからレイコ、どうかお願い。今あなたが抱いたその感情を決して忘れないでいて。
そうすれば、道を踏み外す事はけっしてないから」
「――――はい、もちろん」
それはまるで、何かの祈りにも似た言葉だった。だから素直に私は頷く。
そんな私を見て、ミナトさんは嬉しそうに微笑んだ。
「うん、それでこそ私の弟子ね。さて、ちょっと脱線しちゃったけど、蠱毒っていうのはわかったわね?」
「ええ。でもミナトさん、その、不謹慎なんですが……」
「いいわよ、感じたものをそのまま言ってみて」
「はい。その、本当に酷いんですけど、もしミナトさんの言う蠱毒というのがこの場で行われていたのだとしたらそれは殺し合いですよね? ニュースでは行方不明者の数は二桁に達しています。なら、この部屋はきれいすぎじゃないですか?」
もう一度部屋を見回す。
コンクリートで囲まれた部屋は閑散とした空間で、今では人がいた気配すら残っていない。
残るのは異様に粘り憑く空気だけ。
「うん、着眼点はすばらしいわ。確かに通常の蠱毒の法が用いられたいたのならこの場は殺戮現場と化していたでしょうね。そしてそんな所に人が二桁単位でいたのなら、血みどろの空間になっていてもおかしくはないわ。だからこの場で起こなわれていた蠱毒の法は特殊なものだったってことでしょうね」
「どういう事でしょうか?」
「まだザッとしかノートを見ていないから推測の域をでないんだけど、この漂う濃密な妖気からして正解だと思う。ここではね、人間を閉じ込めて精神的に追い詰めていたようよ」
「精神的に、ですか?」
「そう。私たち人間には『霊核』と呼ばれる力の根源が存在する。ま、いわゆる魂って奴よ。
これの力を使うのが退魔師としての第一歩で、それを霊力って呼ぶのは話したわね。
で、それを妖怪たちが使うと妖力ってい呼ぶんだけど、どうやらこの場所ではその霊核を妖力で攻撃して魂だけを摩耗させて痛めつけていたようなのよ。
だからこの場は綺麗に保たれている。だって魂だけで殴り合いをしていたのようなものだから。
そしてその結果として霊核の強いものだけが残っていき、最終的に頑強で呪いを宿した霊核が生まれる。
これがこの場所で行われていた実験のようね」
「だから、この場所が汚れていないっていう事ですか?」
「そういうことよ。でもその代わりに、空気がこんなにも汚染されている。ここまで濃密な妖気の溜まり場なんてそうそうお目にかかれるもんじゃないわ。ハッキリ言って、一般人がここに入れられたら空気にやられて身動きすらできずに終わりよ。あとは霊核がどれだけ耐えられるかっていう拷問ね。逃げようにもこんな密閉空間じゃ逃げることすらできないもの」
苦々しげに吐き捨てるミナトさん。
きっとここに閉じ込められていた人たちの事を思ったのだろう、その表情は哀しげで、けれど瞳だけがこんな空間を創り出した者に対する嫌悪で燃えている。
「正直ここはもう私では手に負えない。専門の退魔師を呼んで浄化してもらわないと無理ね。あとはもうこのノートだけ。ソウジくんがいるかとも思ったけどいないし、これ以上ここにいたら私たちでさえ危ないわ。一度外へ出ましょう」
ノートだけを手にしてミナトさんは地上へと戻っていく。
私はその後に続き、部屋を出る前に、もう一度だけ部屋を振り返る。
がらんとした寂れた場所には今、何もいない。
けれどここにはつい最近までは確かに人がいて、魂だけを傷つけられていたという。
虚ろな瞳を浮かべ、微かに零れる声音は喘ぎ。
打ち捨てられたように横たわり、放り捨てられた身体に力が入る事は無い。
まるで死体のように転がる、死体ではないナニか。
そして暗がりに木霊する怨嗟の言霊。
それは、何という地獄――
「レイコ、その想像は余計よ。そんな物、もうないわ」
「――――」
耳元で囁かれた言葉。
それに、捕らわれていた心が我に帰る。
「多感な時期にこんなところに連れてきてごめんね。とにかく早く上がりましょう。そろそろ外の空気を吸いたいわ」
「はい、そうですね、ミナトさん」
それだけを漸く返して、私はゆっくりと階段を上っていく。
いつの間にか繋がれた腕をギュッと掴んで、柔らかなその温もりを、地上に出るまで握り締めていた。
~次回~
第七話 片鱗 ~秘めし者~/5
12/27(火)18:00更新