茜色の告白
昨日とは打って変わっての晴天の空。
吸い込む空気は冷たいけれど、澄んだ朝の空気は心地良い。
そんな朝の学校は普段通りの喧騒であふれかえっていた。
昨夜の事もあって朝練をパスした私は直接教室に向かう。
ドアを開ければそこはもういつもの風景で、それに少し面食らってしまった。
何というか、変な感じだ。
昨夜の出来事があまりにも日常からかけ離れていたせいでこの雰囲気が懐かしい。
そんな感想を抱きつつ、私は席に着いた。
「おはよう、レイちゃん」
「おはよう、メグミ」
席につけば一足先に登校していたメグミが声をかけてくる。
その相変わらずの朗らかな笑顔に癒される。
「おっはよー、レイコ。昨日は楽しかったー?」
「おはよう。相変わらず元気ね、ミノリ。それより昨日って何のことかしら?」
普段通りのミノリの姿に安堵する。ミナトさんの暗示は上手くいったみたい。
でも私は突然の台詞に首をかしげる。
昨日って、もしかしてミナトさんがかけた暗示が関係しているとか?
だとしたら上手く話を合わせないと……、
「またまたー、とぼけちゃってー。ケンとデートしたんでしょ」
「…………へ?」
「お。とぼけても無駄だぞー。ちゃぁんと目撃者はここにいる! したんでしょ、昨日。ケンとデート」
「な、何言ってるのよっ!?」
「はははっ、照れちゃってー。顔が真っ赤だぞー、レイコ」
「なーっ!?」
あわてて顔を覆う。そうすれば顔は自分でもびっくりするくらい火照っていて。
も、もしかして昨日ミナトさんが言っていた事って……、
――――誤解が生じないようにレイコといっしょにいたって事にしてあるから
ば、ばばば、ばかー! ミナトさんのおおばかー!
ど、どこが誤解が生じないようによ!?
これじゃあ誤解が生じまくりじゃない……!
「いやー、最初見た時は驚いたよ。レイコとケンが仲良く楽しそうに歩いてるんだからさー」
「……っっ!?」
――――私はただレイコのためを思ってしただけだからね
こ、こんなの全然私のためじゃ、
「どうかしたのかよ、朝っぱらから?」
「け、ケンっ!?」
「ん? どうした、大神?」
「――――っ!?」
ケンの顔が近い。顔を見ただけで私の心臓はドキドキして止まらない。
も、もしかして私っていつもこんな近くでケンと話してたの……!?
「なんだ、また何かやったのかナオヤ?」
「いや、俺は知らないぞ。なぁ大神?」
「う、うるさいわよバカ犬っ!!」
「え? は?」
目を白黒させているケンに怒鳴ってから私は教室を飛び出す。
もうだめ! まともにケンの顔を見られない!
……てかどうしてあのタイミングでやって来るのよ、ケンのばかーっ!
「あのレイコがここまで取り乱すとわね。さてはやっぱり何かあったでしょ、ケン」
「ん? というか何の話をしてんだよ、鷲崎は?」
「わわわっ、レイちゃん飛び出してっちゃったよ……」
「鷲崎。お前、あとで確実に大神に殺られるぞ?」
レイコの飛び出していった教室で、四人がそれぞれに語っているのをレイコは知る由もないのだった。
◇◇◇
気がついたら私は屋上にいた。
びゅう、と冷たく吹く風が火照った頬に心地良い。
本当に、自分でもどうかしてるって思うくらい今私は顔を赤くしているみたいだ。
はぁ、と息を零してフェンスにもたれかかる。そのまま空を仰ぎ見た。
青々とした冬の空。
何処か淋しげに澄んだ青空がそこには広がっていて、そんな景色をしばらく私は呆と眺めていた。
◇◇◇
「レイちゃん、戻ってこないね」
もうすぐ一限が始まろうかという教室でメグミが廊下を眺め心配そうにつぶやいた。
ホームールームは終わり、レイコの不在は機転を利かせた兎塚の言い訳により何とかことなきを得たが、いきさつを知っているクラスメイトは不安げだった。
もっとも、茶化す者はいない。なぜなら戻ってきた時のレイコが怒り心頭であろうことはすでに共通見解であり、
「鷲崎、今日がお前の命日だな」
「ちょ、そんな真顔で言わないでよー」
焦るミノリを庇う者は一人もいなかった。
「ミノリちゃん」
「め、メグミ! あんたは味方だよね!?」
「うん。覚悟、決めたほうがいいと思うな」
「そ、そんな……」
一番レイコの事を理解しているメグミの言葉におろおろとうろたえるミノリ。
それを余所にケンは一人自らの席に座り黙している。それが不自然と言えば不自然で、
「どうしたナオヤ。普段の元気がないが?」
「んー? 考え事だよ。ま、珍しいけどなー」
「大神の事か?」
「まーなぁ」
どこか上の空。
普段なら率先して騒ぐ本人が当事者であるためか、クラスのノリも今一つ。
「というかケン! あんた助けてよ! あたしを!」
「いや、無理だろ。つーかお前が悪いし」
「うわ。ケンに正論を言われる日がこようとは。……もしかしてマジであたしやばい?」
何を今さらと兎塚が肩をすくめれば、メグミがうんうんと頷いて、
――――ガラッ
「――――ッ」
「おや、どうしました?」
響く扉の音に全員が目をやれば、そこにはいきなりの注目に驚いている荒巻教諭がそこにいた。
「あ、荒巻先生かぁー。びっくりしたー……」
「?」
首をかしげる荒巻を余所にミノリは床にへたり込む。
結局、授業中にレイコが現れることはなかった。
◇◇◇
……チャイムが鳴ってからどれくらいが経っただろう。
冬の外気に晒されてようやく落ち着いてきた頭でぼんやりとそんなことを考えた。
「ついにサボっちゃったかー」
口に出してみるけど不思議と罪悪感は薄かった。
一応は優等生を演じている身としてはあるまじきことだけど今日は大目に見てもいいんじゃないだろうか、なんて思ってしまう。
だって、それよりも重大な事に気づいてしまったんだから。
――――ちゃんと、時間は稼ぐからよ。
さっきからずっと繰り返されるこの言葉。
昨日、ケンが私を庇うために言ってくれた台詞。
それが、頭の中でループする。
私はしっかりとわかっていた。私たちが助かる可能性があるということを。
ううん、そうなるために周到に用意していた。
空に浮かぶ偽りの月。
アレはいわば、佐々木をハメる為の罠だった。
だからなにもあそこでケンが自分を犠牲にする必要はなくて、
――――レイコ、あんた……
ミノリを安心させるために手を握った。
でも本当は、私が繋ぎたかったから。
そうじゃないと心が折れてしまいそうだったのだ。
だって本当はもう力なんて全然なくて、あの時ミナトさんが来てくれなかったら私たちは殺されていた。
周到に用意した罠なのに、肝心なところで私の力は尽き果てていた。
倒すための策だったのに、成す前に尽き果てた私の力。そして、目の前を覆った真っ黒い絶望感。
――――ちゃんと、時間は稼ぐからよ。
私がわざとやった事なのに。
私のせいでああなったのに。
ケンは自分を犠牲にして私たちを助けてくれようとした。
――――ちゃんと、時間は稼ぐからよ。
あの時ほど勇気づけられた事はない。
あの時ほど恐かった事はない。
ケンなら本当にそうしてくれるとわかって。
でもそのせいでケンが死んでしまうのが恐ろしくて。
――――ケンとデートしたんでしょ。
びっくりした。でも、嫌じゃなかった。
嫌なわけがなかった。
むしろ、そうであったら良かったのにと、そう思った自分がいて。
――――私はただレイコのためを思ってしただけだからね。
ミナトさんは最初から見抜いてた。
――――レイコってここまで自分に鈍感だったんだ。
言葉もない。私は本当に鈍感で。
しっかりと周りを見ているつもりでいて、
なのに肝心の自分自身すら見えていなくて。
――――できたらもっと素直になってね。
きっと、素直になることが怖かった。
そんな私の心を知っていたから、メグミはあえてああ言ってくれた。
そう。みんな最初から知っていたんだ。
気づいていないのは私だけ。
気づかないふりをして、今まで自分の気持ちから遠ざかっていた。
でももう気づいてしまった。
私が今まで気づかない振りをしていた心に。
本当は、もうずっと前から気づいていたのに。
だからもう、隠すことは無理だろう。
自分に嘘をつくことはできないし、何よりも、この気持ちに嘘をつきたくない。
なら――――、
◇◇◇
「――――れ、レイコっ!?」
教室に入るなり私を迎えた第一声は裏返ったミノリの声だった。
「なによ、人が入ってきた途端に驚いて。失礼ね」
「い、いやさ、その……」
もじもじ、というよりビクビクしているミノリと、クラスのみんながそれを遠巻きに見つめる。
私とミノリを中心にぽっかりと開いた大きな円。
……地雷原じゃないんだけどな。
「あ、あの、さ。…………レイコ、怒ってるよ、ね?」
「…………どうして怒んないといけないのよ」
「――――へ?」
「だから、怒る理由がないって言ってるの。それよりほら、さっさと席についた方がいいわよ。さっき授業サボっちゃった私が言うのもなんなんだけどさ、授業はちゃんと受けないとでしょ」
「あ、うん……」
呆然としているみんなを余所に私は席に着く。
まぁ確かに普段の私なら竹刀振り回してミノリを追いかけてたかもしれないんだけど、それとこれとは今は話が別なのだ。
「おかえり、レイちゃん」
何もかもを見透かした私の大切な幼馴染は笑顔で迎えてくれて。
「なんでぇ、大神が鷲崎を追いかけまわすとこ見たかったのによー」
「あんたの思惑どおりにするわけないでしょ、バカ犬」
もう一人。私の事を分かってくれているヤツの台詞にほっとする。
「良かったね、レイちゃん」
それはどこまで意味が込められている台詞なのか。
「ええ」
それでも私は笑顔でそれに頷いた。
◆◆◆
そこはホテルの一室。
そこに椅子に縛りつけられた男が座っていた。
「どう、何か情報はつかめた?」
「全然ですね。まったく情報なしですよ」
「情報がないの? 聞き出せないんじゃなくて?」
「こんな状態は初めてですけど、記憶が消えているというか。……捕まえる時に痛めつけすぎたんじゃないんですか」
「む。失礼ね。そこまではしてないわよ、確かに怒ってはいたけど……」
「ほらー、絶対それだ。怒るとすーぐ暴力振るうんだから、先輩は」
「今いい事思い付いたわ。ソウジくんにも同じことを試してみましょう。それで本当に記憶が消し飛ぶかどうか確かめるの」
「や、冗談っす。すいませんでした!」
「わかればよろしい。で、冗談はおいといて、本当にどういうことなのかしら?」
「僕にはさっぱりですね。レイコちゃんがいれば何か気づいたかもしれないですけど」
「そうかもね。でもレイコにはなるべく関わらせたくないから」
「それは同感です。……じゃあこの後どうします? コイツから情報が引き出せない以上このままじゃ埒が明かないですし」
「ええ。本当は昨日の現場にいてみようと思ったんだけど、半壊しちゃってるしね。そんなところに部外者がのこのこ行ったら怪しすぎるからねー」
「じゃあそれこそレイコちゃんに調べてもらうしかないですよね」
「そうなのよ。……はぁ、さっき関わらせたくないって言ったばかりなのにね」
「しょうがないですよ。それに学校側がどういう対応をしているかも気になりますし。学校関係はレイコちゃんが一番怪しまれずに調べられるんですから」
「そうね。それにしてものこの人、どうしてあんなところに出入りしてたのかしら? レイコの推理通りだとしたら……」
「……先輩?」
「ねぇソウジくん、その事もまだわからないのよね?」
「ええ、なぜかそこのところだけ本当に無口になっちゃいますから」
「ふーん。なら、強硬手段に訴えてみようか」
ミナトの目が冷たく光る。
ゴクリ。ソウジの喉が大きく鳴った。
◇◇◇
昼休みになった。
いつものように私とメグミがお弁当箱を広げ出しているとミノリが気まずそうに遠くからそれを眺めている。
声をかけたいのにどうしたらいいのかわからないと言ったところだろうか。まったく、いじらしい。
「何してんのよ、早くお昼にしましょう」
「え……?」
「聞こえなかったの? 一緒に食べるわよって言ったの」
「う、うん!」
ほくほく顔でお弁当箱を持ってミノリが来る。
まったく、何を気にしていたのか。私は怒っていないと言ったのにどうも信用されてなかったらしい。
「お、相変わらずうまそうな弁当だなー」
「そう言うあなたのも相変わらずね。もしかして全部自分で作ってるわけ?」
「まさか。おにぎりだけな。これなら好きな大きさにできるからよ」
変わらずいつも通りの大きなおにぎりとお弁当箱を持ってケンが私の隣に腰かける。
兎塚くんも交じっての五人で食べるこの昼食の風景はもはや定番だ。
机をもう二つ持ってきて、四つ合わせれば十分な広さだ。
私とケンは共同で机を使用する。
「そういや知ってるレイコ、旧館が半壊したらしいよ」
「……っ! ん、んんっ。……ええ、もちろん知ってるわよ」
「大丈夫? はい、お茶」
「ありがと、メグミ」
お茶で喉のつかえをとる。ついでに心も落ち着ける。
旧館の半壊はもう朝から話のネタになっていた。
全校生徒で知らない人はいないだろうというほどの話題。
まぁそれもしかたないだろう。自分でやっておいてあれだけど、一夜にして旧館が半壊というネタははそれほどの話題性を持っていたという事だ。
「本当、信じらんないよね。まさか旧館が壊れるなんて。なんかそれで弥生ちゃん、朝から大忙しらしいよ」
後から聞いた話によると朝のホームルームに岡崎先生は来られなかったらしい。
旧館の管理者の荒巻先生もてんてこ舞いだったらしく、今日の授業は一応普段通りの様子だったみたいだけどそれでも早くに終わったのだとか。
「でもよ、マジで信じらんねぇよ。どうやったら旧館が壊れるんだろうな」
「どうも老朽化が原因らしいという話だ。まぁ古い建物だし無理もない」
「あ、でも自然にはあんな壊れ方しないとか荒巻先生が言ってたよね。だから絶対に近づいちゃいけませんってさ」
「言ってた言ってた。なんか突然竜巻があそこにだけ発生したんじゃないか、とかね」
「なんか旧館に怪物が住んでてそいつが暴れ回ったんじゃないかって話も出てるぜ」
「あ、それありえるー」
「えぇっ、怖いよそれぇ」
「確かに。下手なホラーより恐ろしいな」
「…………」
とりあえず黙って聞いてる事にした。まさか私がやらかしたなんて言えないし……。
でも的を射ているとはいえ、怪物はちょっとひどいと思う。
「ね、レイコはどう思う?」
「え? 私?」
「そうそう、やっぱ怪物の仕業だよな!」
「そこで断言しないでほしいんだけど……。でもそうね、なんにせよとりあえずしばらくはあそこには近づけないかなって思うわ」
「そうだろうな。実際警察の取り調べ現場みたいにテープが張られていた」
「マジかよ! うわ、見に行きてー」
「言うと思った。あんたね、そういう危険な真似はやめなさい。怪我するわよ」
「そうだよ。それに見つかったら先生に怒られちゃうよ」
「ははは、そしたらレイコの雷も落ちるかもねー」
「う……。それは勘弁だな」
ミノリの言葉に合わせょっと睨んで見ればケンはひるんだような顔をする。
まったく、普段の私はいったいどんなふうに思われているんだろう。
……ちょっと傷ついたじゃないか、ばか。
「あ、そうだ。ねぇ兎塚くん。旧館には近づけないってさっき言ってたよね? じゃあさレイコ、部活ってどうなんの?」
「そういえばそうね。兎塚くん、ちょっと具体的に様子を教えてもらえる?」
「あまり詳しくは知らないが、旧館の周り一帯が封鎖されていたな。被害が広がっているとしたらもしかしたら武道場も封鎖されている可能性がある」
「うーん、確かそこまで派手にやらかしてないはずだけど……」
「? なんかレイちゃんが壊したみたいな言い方だね」
「え!? そ、そんなことないわよ、もちろん! ただどうしようかなーって思っただけだから」
「うん。でも無理はしないほうがいいんじゃないかな。また崩れちゃったら危ないよ」
「確かにそれもそうね……。うん、決めた。ミノリ、悪いんだけど今日の部活は休みにするってみんなに伝えてくれる」
「ほんと!? やりー! 了解!」
「あまり喜ばれても困るけどね。先生と話してみるけど、もしかしたらしばらく休部にするかも」
被害がハッキリしない以上どうなるかはわからないけど、メグミの言う通り無理はしないほうがいいかもしれない。
後で旧館の様子を荒巻先生に聞いてみよう。
◇◇◇
授業が全て終了し、帰りのホームルームの時間となった。
帰りのこの時間はいつものように部活へ行く人たちやそのまま放課後を満喫しようとする人たちであわただしい賑やかさがある。
普段の私なら他の部活組に交じって部活のために帰りを急ぐのだけど、今日はのんびりとできていた。
「ごめんごめんっ。遅れちゃったー」
大慌てで岡崎先生が教室に入ってきた。
やっぱり半壊した旧館がらみでいそがしいのだろう。
朝に私が抜けていたせいで実感がないからあまり深く考えなかったけど、こうして忙しそうな先生を見ると罪悪感を抱いてしまう。
「朝からバタバタしててごめんねー。じゃあホームルームを始めようか」
きりーつ、と号令係が声を発した。
もう一日も終わりの所為かその声も何処か弾んでいる。
「連絡事項を言うと、まずもうみんな知っていると思うんだけど旧館が半壊しちゃった件、とりあえず今は立ち入りができなくなってるから入らない事。一応もう安全みたいだけどいつ崩れるかわからないからね。特に犬養くんと鷲崎さんは絶対に近寄らない事! 大神さん、しっかり監視をお願いね。無理そうだったら私お手製のスタンガン貸してあげるから」
「わかってます。でも大丈夫ですよ、私にも竹刀がありますから。二人ともその辺は十分に承知してくれてると思います」
ね、と二人に顔を向ければ二人とも引きつった笑顔を見せてコクコクと頷いた。
うーん、今さらなんだけど私ってここまで怖がられてるんだなぁと感じてしまう。これからは少し態度を改めようか。
「はい。じゃあ旧館のほうはそういうことなのでなるべくあの近辺には行かないようにね。それとしばらくはそれで先生たちがバタバタしてるからみんなも気を使ってあげてください。怒りっぽい先生もいるから。
それから次ね。これはちょっと重要な事なんだけど、しばらくの間佐々木先生がお休みされることになりました」
「――――」
もう根回しはできているらしい。
今日は数学がなかったから良くはわからなかったけど、これでもう佐々木がこの学校にくる事はないということだ。
クラスメイト達はざわついている。
嫌われていた先生だからみんな感想はそれぞれあるんだろう。
明日にでも色々な噂が回りそうだ。
「はい、静かにねー。佐々木先生はお体の具合が急に優れなくなったという事でしばらくの間お休みです。なので数学は別の先生が受け持ってくれることになったからそのつもりでいてね。けっしてなくなったわけじゃないってことも忘れないように。
で、最後の連絡をします。前から言っているけど最近風邪引きさんが多いからきちんと手洗いうがいをすること! 最近風邪引いての早退や遅刻が増えてきているからしっかりしてね。うちのクラスでも何人か休んでいる子もいるから、今日はまず帰ったら初めに手洗いうがいを良くしましょうー。以上! ホームルームを終わりにしまーす。あ、悪いんだけど大神さんはこのあとちょっと残って」
手を合わせてごめんね、と先生は言う。それに私は頷きで返す。
何があったのかはわからないけど私にできる事なら何でもしよう。せめてもの罪滅ぼしというやつだ。
「先生、どうかしたんですか?」
号令の後、次々と教室を出ていくみんなを見ながら先生のところに行った。
先生は書類らしき束をトントントンと机の上で整頓しながら申し訳なさそうな瞳で私を見た。
「本当、ごめんね大神さん。ちょっと仕事を手伝ってもらいたいんだ」
「ええ、私にできる範囲の事なら何だってやります。遠慮なく言ってください」
「ありがとうっ。あ、でも部活は大丈夫? 主将でしょ? 無理そうなら断ってね」
「問題ありません。旧館がああなってしまいましたから一応様子見でしばらく休みにしたんです。ですから気にしないでください」
「さっすが大神さんね。うん、クラス委員長は頼りになるね。じゃあ遠慮なくお願いしちゃうけど、いいかな?」
「ええ、任せてください。あ、でもちょっと待っててください」
先生に頷いて、私は教室の端で様子を窺っていた二人に声をかける。
「気を使ってくれてありがとね、二人とも。でも私一人で大丈夫そうだから」
「レイコがそういうならあたしはいいんだけどね。つかほーんとお人よしっていうか面倒見がいいっていうか。せっかく主将の仕事しなくていい日にしたのに、今度はクラス委員長の仕事で先生の手伝いとか」
「レイちゃんは生真面目さんだから。でも、本当に大丈夫?」
「ええ、心配ありがとう。でも本当、大丈夫よ。それにこれは私の性分だもの、しょうがないわ。それよりミノリ、帰り道だけど」
「わかってるって、メグミでしょ。任せなさいって」
頼もしい副部長様はどんと胸を張って答えてくれた。
皆まで言わずともわかってもらえるこの呼吸が嬉しくなる。
「あ、じゃあミノリちゃん、帰りがけにお買い物して行っていいかな? 寄りたい所あるんだ」
「お、いいね! 女子高生らしく寄り道に花を咲かせて帰ろうじゃないの」
「もう、物騒なんだからほどほどにしてよね」
「はいはーい」
快活に笑うミノリと穏やかに微笑むメグミ。
二人の笑顔を見送って私は先生の所へと戻る。
「すみません、お待たせしました」
「大丈夫だよー。じゃあさっそくだけどこれ、お願いね」
いくつかの書類を渡される。これを印刷したりまとめたりすればいいんだろう。
簡単だけど確かに忙しい時には面倒な仕事だ。
他の書類にも目を通して内容を確認して振り分けていく。
「あ、先生のノートパソコンこれだから自由に使っていいよー」
教室に設置されているコンセントにつないで先生がパソコンまで持ってきた。
……というか、書類の中に明らかに生徒は直接かかわっちゃいけない類の物まで入っている。
「先生、これは……」
「あ、それもお願いっ。本当はダメなんだけど大丈夫、大神さんならできるって信じてるから」
「あ、はい……」
なんか真顔で信頼されてしまった。
ダメなんだけどっていうか本当にダメな内容だ。どう考えても教員用の資料づくりであろうものまで任された。
けれど先生はあっという間にいなくなってしまって影も形も見えない。
こうなればもうやるしかないか、と腹をくくる。
幸い割と簡単そうだからちゃっちゃと終わらせてしまおう。
◇◇◇
「――――で、俺は何をすればいいんだ?」
「え……?」
先生が出て行ってすぐに声がした。
それは予想外のもので、私はすぐに振り返る。
もう誰もいなくなったはずの教室で、ドアに寄りかかり私を見ていたのはケンだった。
西日がほんのりと射し込んで、教室が温かな空気に包まれる。
「あなた、帰ったんじゃなかったの?」
「俺はお前と違って部活やってないからな、暇なんだよ。だから大神の手伝いでもしようかなって思ったってわけ」
それは本当に自然な仕草だった。
ケンは私の横を通り過ぎると先生からもらった書類の束を手に取って眺めだす。
「ま、俺が見たところでわかるもんじゃねぇけどよ、何か手伝えることはあるか?」
「え、ええ。これをクラスの人数分コピーしてもらったりとか、振り分けてホチキスで閉じてもらったりとかあるけど……」
「ん。ならやるよ」
「…………」
「? どうした?」
「っ……!!」
「――――ぶっ!?」
あわててケンに書類の束をつきだしたら顔に見事にヒットしてしまった。
というか、本当にさっきからケンとの距離がすごく近い。
「いってぇなー。なにすんだよー」
「な、なんでもないわよ。ていうか、ごめんなさい……」
「どうしたよ大神。おまえが俺に謝るとか、なんか変なもんでも食ったか?」
「食べてないわよ! そ、それよりこれ、まずコピー取ってから振り分けてホチキスで止めてほしいんだけど」
「ん、あいよ。りょーかい」
「あ……」
パラパラと書類をめくり確認するとケンは無造作に片手を上げて廊下に出ていく。
本当に自然。
私と話す時に近くにいたように、当然のように手伝おうとしてくれたみたいに。
ケンは自然な動作でコピー機のある職員室へと向かっていく。
「――――ケン!」
「ん? どうした、大神?」
「その、……。ありがとう、手伝ってくれて。すごく、助かるわ」
「おう」
ひらひらと片手を振って歩いて行くケン。そんな仕草がすごく頼もしくて、嬉しかった。
立ち上げたパソコンを使って書類に沿った文章を作成していく。
ケンのおかげで面倒な仕事が無くなったからこの作業にだけ私は集中できる。
やはりこれは職員用の資料作成だ。私には関係ないものだけど見ていけないというものでもないらしい。
それよりもパソコンのディスクトップには明らかに私が見たらいけないような生徒資料なんてショートカットのフォルダまであったりして、先生の不用心さと言うか楽観的なところに見つけた時は溜息が出た。
それでもそこまで信頼されてるのかな、なんて思ったら我ながら単純だけど嬉しかった。
そのまま私はちょっとでもいいものを作るためにキーをカタカタとどんどん叩いて行く。
「――――ひゃっ!?」
「はははっ、驚いたか?」
頬に熱いものが当たって私は思わず飛び上がった。
「ケン! なにすんのよっ、びっくりするじゃない!」
「わりぃわりぃ。ほらよ」
ぽーんと飛んできたものを反射的に私は受け取った。
それはあったかい缶コーヒー。
「結構寒くなってきたからよ、あったまろーぜ」
「あ、……うん」
渡された缶コーヒーを両手で包みこむ。
じん、と伝わって来る手のひらのぬくもりが心地良い。
「コピー取ってきたから俺の方は後はまとめるだけだけどよ、そっちは終わりそうか?」
「えっと……、ええ。もう半分以上終わってるからもう少しよ」
「そっか。ならちゃっちゃとやっつけちまおうぜ」
教室はだんだんと薄暗くなり始めていた。
日暮れの早い冬の空を、夕暮れの茜色が染めていく。
今日は晴れていたせいかまだ日暮れにはほんのちょっとだけ時間があって、だんだんと陽が落ちていくなか、教室の電気はつけないでいた。
赤く、茜色に染まって行く教室が、冷え切った空気の中、どこか温かい。
私たちは二人、しばらくお互いの作業に没頭する。
思えばケンとは顔を合わせるたびに何か言いあってきた気がする。
もっともそれはほとんど一方的に私が怒鳴ってきただけなのかもしれないけど。
だからこそ、こうしてケンといっしょに静かな時間を過ごす事が新鮮で、驚きだった。
こんなに穏やかの時間を過ごせるとは思ってもいなかったから。
「ふぅ……」
タンタン、とキーを叩いて作った文章を保存する。
「あ……、もう終わってたんだ」
「ちょっと前にな。大神の方も、終わったみたいだな」
「ええ。あなたのおかげで早く片付いたわ」
西日が射し込んでくる。
やさしく柔らかい光に教室が包まれる。
あったかい、燃えるような茜色で満たされた教室。
パソコンのウィンドウを閉じてケンが作ってくれたプリントの山を受け取った。
パソコンといっしょにまとめて教壇の上に置く。
そのまま私はケンの隣に座った。
「……」
「……」
私たちはともに何も言わない。
ただ、寄り添うように傍にいる。
お互いに黙り合ったまま、触れ合いそうな肩と肩。
澄んだ空気の冷たさで、自然と距離は近づいて。
「ねぇ、ケン。今日はありがとね」
「おう」
「でも、どうして手伝ってくれたの?」
「だから言ったろ、暇だからだって。ま、特に理由なんてねぇよ。手伝おうと思ったからそうしただけ」
「……やさしいね」
自然と、そんな言葉がこぼれ出る。
でも驚きはない。
だって本当は、ずっと前から気がついていた事。
「ん?」
「あなたよ。今頃になって気づいたわ。やさしいんだなーって」
「そうか? 普通だろ、こんなの」
暮れていく夕日を眺めながら。
それは当たり前と紡がれる言葉。
「そうなのかもね。でもそういう当たり前の優しさってなかなかできないことだって知ってる? それが当たり前だって言える事自体がすごいことなのよ」
「……考えた事もなかったけどな。それにこんなの鶴巻や鷲崎だって普通にしてる事だろ、京介だってそうだしよ」
「かもね。……でもあなたはやさしいわ。それは私が一番良く知ってる。誰も覚えていないけど、私が覚えてる」
――――ちゃんと、時間は稼ぐからよ。
あの優しさに救われた。
だから覚えている。
みんなが忘れてしまっても、私だけはしっかりと覚えている。
そう、あんなにもケンがカッコいいって事は私がしっかりと覚えているんだ。
真っ赤に染まった茜色の教室。
夕暮れの光に感謝する。これならば頬の熱も気にならない。
伝えたい言葉を、今ならちゃんと伝えられるから。
「ケン。好きよ、あなたのこと」
夕焼けの中、頬が赤く染まる。
「――――ああ」
恥ずかしそうにケンは顔を逸らす。それがケンらしい。
でもその一言だけでうれしかった。
気持ちはちゃんと伝わったんだってわかるから。
「うん。――――じゃあ帰ろうか、ケン」
「おう」
二人並んで教室を出る。
職員室には岡崎先生はいなかったからメモを残して私たちは学校を出た。
そのまま寄り添って歩く帰り道。
「ねぇ、今度デートしようよ、ケン」
「ん、いいぞ。まぁ、一応昨日もしたみたいだけどな」
「一応ってなによ? 覚えてないの?」
「なんつーか、まったく実感がない。他人事みてぇだ」
「そう。でも実は私もよ。だからね、次はちゃんとやりましょう。時間と日にちを決めて、一日かけて。私、うんとお洒落して行くわ。だから」
今度はウソじゃない本当のデートを。
「ああ。そうだな。また鷲崎に見られてからかわれたら今度は二人でとっちめてやろーぜ」
「あ、それいいかもね」
そんな場面を想像して二人して笑う。
びっくりしながら逃げるミノリの姿が目に浮かぶよう。
それを笑いなが見守るメグミと、呆れながら眺める兎塚くん。それにはしゃぐクラスのみんな。
それはとても楽しそうな毎日で。
その日常に思いを馳せる。
夕暮れの中、並んで二人、ゆっくりと歩いた。
普段とは違う、少し遠周りな道のりを。
並んだ影法師はいつの間にか繋がって。
この時間がいつまでも続くようにと祈りながら。
◆◆◆
――――夜。
私はミナトさんに連絡を入れた。
直接電話は掛けない、メールだけの、簡素なもの。
『明日からまた、お手伝いします』
佐々木を倒した。でも、その後の連絡はミナトさんから受けていない。
なら、何かできる事があるのなら手伝おうと、ただそう思っただけの、思い付き。
なんというか、言葉にすると恥ずかしいのだけれど、
今私はものすごく幸せな気分になっていて、だから、誰かの力になりたいと思ったのだ。
結局、その日私が寝るまでに連絡は来なかったのだけど。
きっとミナトさんは忙しく、今日も夜の街を歩き回っているのだろうと、そう思った。
第6話 茜色の告白/了
~次回~
第七話 片鱗 ~秘めし者~
12/23(金)18:00更新