〇六〇 凶 刃
そこには、黒みがかった紫色の大きな豚がいた。
下顎からは牙が二本突き出し、身体は瘤のような肥大した塊があちこちが突き出している。獲物を見つけて興奮して鳴いていた。
その醜い豚の右耳は、腐ったように歪に欠けていた。
「うわっ!! ブタ!? なんでここにいるんだよ!」
「おい、どう見たって特撮とかじゃねえ、現実だぞ!?」
「にっ、逃げろ!!」
「そうはいかん」ヴェーレンは伸ばした掌から白い物体を撃ち出す。
バシュッ! バシュバシュバシュ バシュッ!
「うわあっ!!」
男たちは急に転んだ。その足元には――――
「なっ! なんだよこれ!?」粘度の高い、帯のようにも見える太い糸がくっついて繋ぎ止められていた。
ザッ ザァァァァァァァァッ!
五人の男はなすすべなく両足を捕縛され、天井から逆さ吊りにされた。リーダー格の男が、口角泡を飛ばす。
「ぐっ、解けねえ! なんだよ! おい下ろせ、おっさん!! 俺を誰だと思ってる!? 法務省の官僚の息子だ!
他だって大企業の重役の息子とかだぞ!? 今まで揉み消せなかった案件なんてない!! お前らなんか、す――――!」
バシュッ!
喚いていた男の口が、白い粘液で塞がれる。
瞬時に固まり束ねた綱のようになった。男は口を塞がれてそのままもがき続ける。
他の男達も同様に、口を糸で封じられた。くぐもった声が病室に響く。
「お前たちの身分や来歴なぞ知らん。儂にとって肝要なのはより良い虚を造って目的を為すこと。そして」
――――ド スッ
鈍い音が古びた病室に響く。ヴェーレンの拳がカッターシャツごと男の腹にめり込んでいた。
「小僧が暴走していた場合、それを止めることだ。貴様らにかかずらっている間も惜しい。さっさと終わらせるぞ」
ぐっ ぐふっ かはっ か――――
男の口元、糸で塞がれた隙間から、濁った黄色い吐瀉物、胃液がたらたらと流れる。
気を失ったのか眼は上を向き、身体はびくっ、びくっと痙攣しだした。
それを見た残り四人の男達はもがくのをやめ、一様に押し黙った。その代わり言い知れぬ恐怖に囚われ、カタカタと震えている。
那由多は、床に蹲った若い女性二人を片手で一人ずつ担ぐ。そのまま病室の隅に寄せた。
ガムテープの戒めを薄紙を破くように切り裂く。そのあとひとりごちた。
「ふう、結局自分では何もできない、親の威光に縋るだけの哀れな男、か……。
特に強制はしないけど、これから起こることに関しては……目を閉じて、耳も塞いでたほうがいいかもね」
それを聞いた若い女性二人は口を塞いでいるガムテープを取るのも忘れ、目をぎゅっと閉じて両手で耳を塞ぐ。
那由多は女性二人の前に立った。
ブゴーーーー! ブゴーーーー! ブゴーーーー!
濁った紫色に染まった片耳の豚は、鼻息荒く男達を見据える。
「ほら、ごはんの時間よ。
いつも以上に、遠慮なく――――喰い散らかして」
それを合図に、男達の真下を片耳豚が音もなく駆け抜ける。
すると、男の一人に恐ろしい変化が起こった。
「……グッ!? グウウウウウウウーーーー――――!!」
身体から空気が抜けるように細く絞られた。皮膚が立ち枯れの木にも似た色に変色する。
ものの十秒もかからず、放置した干し肉のような異様な姿になった。周りの男は、再度逃れようともがいた。
が、死を司る豚の妖魅は躊躇いなく、隣に吊るされた男に鼻先を近づける。
もう一人の身体が、満たされていた空気が抜けるかのように、シュウシュウと音を立て、骨と皮だけになりさばらえた。
ぼたりと落ちた、惨たらしい二人分の死体。それをがつがつと平らげる。
抵抗しようにも、吊るされた二人の男は恐怖に慄いた。先ほどまでとは打って変わって一人は泣きだし、またもう一人は糸でできた口枷越しに歯がカチカチ鳴っている。
「もう二体程刃にしておくか。
那由多」
名前を呼ばれた妖艶な虚神は、真っ赤なスカートのスリットを指で開いた。
太腿に埋め込まれた、暗く濁った宝珠が覗く。
「妖魅顕現、邪魅。同じく妖魅顕現、陰摩羅鬼」
暗がりに、黒煙を吹いたように妖気が立ち込めた。
その中から一体は狗や狼に似た、四つ足で灰色の毛におおわれた妖魅。もう一体は人面に近い貌を持つ怪鳥が顕れる。
墓土や洞穴の奥から吹き込むような底冷えのする妖気、死の匂いを纏った妖魅を見た男たちは、そのショックで気絶した。口元から白い泡を吹き、小刻みに痙攣する。
新たに出現した二体の妖魅は、一人ずつ男たちの生命を吸い取り、塵に還す。
「頃合いや、良し」
ヴェーレンは懐から、捩子くれた黒い小振りなナイフを三本出す。
「虚を生み出す黒珊瑚を削り出して作り上げた刃、黒刃。ヒトの魂を喰らった妖魅を虚の刃に変えよ。
『虚刃化』!!」
虚神の幹部が妖魅に黒刃を投げつける。今度は三体の妖魅、片耳豚、邪魅、陰摩羅鬼の身体が引き絞られるように細くなった。
カラン カララン
三振りの刃物がリノリウムの床に落ちる。
ヴェーレンは拾い上げた刀の一本、全長五〇cm程の脇差を鞘から抜く。
品定めするように眺めた。鞘だけでなく刀身が紫色に艶めくそれは、暗闇の中でさらに禍々しく映えた。
「ふむ、出来はまずまずか。試し斬りに一人、というのは些か少なかったか?」
ヴェーレンは那由多の後ろ、二人の女性を見やる。女性の姿の虚神幹部は、頭を抱えて縮こまっている女達の前に立っていた。
「性能は一本試せば済むんじゃない? この子たちは警察――――公安F課に連絡させる役目があるから、生かしたまま帰すわよ」
「……そちらは任せよう、ではこいつで試させてもらうか」
紫色の刃を手に取る。視線を少し上げた。
逆さ吊りにされたリーダー格の優男――――
ヴェーレンは鋭い鉤爪で、カッターシャツのボタンをぷつぷつと切り落とす。細く白い腹が露わになった。
今までの残忍な仕打ちとは違い、幼子を寝かしつける時のように、努めて優しく男の腹を慰撫する。
その悍ましい感触に、男は再び意識を取り戻した。薄ら寒い病室の中でなお、冷や汗が止めどなくたらたらと流れ続ける。
長い腕、鋭い鉤爪に似合わない繊細さで、殊更に慈しむように撫で続ける。
虚神の幹部は、男に対して子守唄でも歌うかのように、静かな口調で言葉を繋げた。
「お前たちがここで数多の女子を慰み物、いや喰い物にしてきたのであろう?
このまま生き続ければ、飽きるまでそれを続けた筈。それを咎めようとも、死して償えとも思わんし、言うことも無い。
我らは基より、度し難き衆生を赦し救う為に動いているわけではないからな。
これからは、生と死の狭間で苦しみながら、罪という腐った泥、錆びた鉄屑の中で更に罪を塗り重ね」
ヴェーレンは言葉を一旦区切る。
「害悪と厄災を撒き散らせ」
逆手に持った脇差しを男の腹に深々と突き刺した。
「「「――――――――――――!!!」」」
男と若い女性達、三人の声なき悲鳴が病室に響いた。
刺された男の生と死、魂と罪業が煮え滾り、そして分解される。
男の身体は、瞬時に数個のオレンジ色の珠、そして鉄錆にも似た不浄な気体虚霧に変貌した。
カシャン
男が持っていた大型のスマートフォンが床に落ちる。
ヴェーレンは、胴体から伸びた二本の腕に宝珠を携えていた。強く念じると珠と虚霧はそれぞれ別の宝珠に吸い込まれる。
その後、再度脇差しを検めた。
「ふむ、急拵えの割りには斬れ味はまずまずか。那由多、儂は小僧を抑えに行く。後は任せた」
「ええ」
細長い手を伸ばし、スマートフォンを手に取った。
「ソルム・スピナー」
文言を唱えて画面に幾条にも糸を伸ばす。画面が鈍く光るのと同時に、画面から部屋を覆い尽くさんばかりの糸が伸びる。
ヴェーレンの身体が糸に包まれるのと同時に、糸と一緒に徐々に虚神の首魁は吸い込まれていく。最後はスマートフォンだけが残った。
那由多は小さく息を吐き、若い女性二人に声をかけた。
「もう済んだわ。さあ、帰りなさい。できれば警察、それも公安庁F課の倉持安吾か清楽秋子とかに連絡入れてもらえると助かるわね。ま、無理にとは言わないけど」
二人とも耳に両手を当てたまま、その場を動こうともしない。
「世話が焼けるわね」
那由多は一人を小脇に抱え、もう一人を肩から担ぐ。そのまま埃の積もった廊下を抜け、裏口へ向かう。
「ほら、ここでいいでしょ。今さら言うことじゃないけど、悪い男には気をつけることね」
二人は夜の外気に晒されしばらく動けなかったが、それでもなんとか重い腰を上げた。
お互いを支え合うように、よろよろと車道へ向かった。
「ふう、どうしても女の子に手をかけさせるのは気が引けるわね。
それにしても、今見逃しても更なる地獄を見ることになるかも。
今ここで殺されたとしても生き延びても、『三大御霊』が揃った時……」
那由多は空を見上げる。曇天模様の空は、病室内での惨事同様、濁った重油のように、重く昏かった。




