〇五九 降 魔
「ヴェーレン。今戻ったわ」
「那由多か、猪苗代城にて『亀姫』を手に入れる首尾はどうなった?」
「ご覧の通りよ」
紅い蠱惑的なドレスを纏った女性。虚神の首魁の一人、那由多。
彼女は懐から、内側が緑色に鈍く光る真球の宝珠を取り出した。
「わざわざ福島まで出向いた価値はあったわ。
でも相変わらず六花の、いいえ人間の脆さにはがっかりさせられる。
せっかく夜叉姫っていう人智を超えた能力を持ちながら、人間二人とこの亀姫の宝珠。どちらを取るかって言ったら人間二人の生命を取るだなんて。
天秤にかけられるものじゃないでしょうに」
陽はとうに落ち、暗闇が持つ一種独特の匂いと気配が辺りを包む。
ブラインドを閉めきった暗い室内。無機質な白い壁には、およそ知性の欠片もないようなスプレーで描かれた落書き。
床には散乱したストレッチャー、椅子、寝台が転がって、セメントの粉末や埃で真っ白く染まっている。
かと思えば、大きな部屋の一角、そこだけある程度掃き清めてあった。打ち棄てられて、変色したマットレスが敷いてある。
切り裂かれた女性ものの衣服や下着、丸めたティッシュの山や大量の使用済みの避妊具。
凡そ、合意の上ではない情事の残滓が散乱していた。換気もされていないため、饐えた臭いが立ち込めている。
つい最近、何者かがここに来ている証左だ。
数年前、職員の過労による患者の事故死や、医療ミスによる死亡事故が多発し、廃業を余儀なくされた廃病院。
解体や売却もなされずそのまま放置されている。その一室に那由多達はいた。
那由多が話しかけている相手――――かつて手術室だったところに、一際異彩を放つ何者かがいた。
全身を覆い隠すように漆黒のローブを纏い、科学者然と振る舞う男、ヴェーレン。フードの奥底から紅い瞳を覗かせていた。
彼は那由多から手渡された宝珠を矯めつ眇めつしたあと、那由多に返す。
「で、次の計画は? ヴェーレン」
名を呼ばれた矮躯の男は、ふむ、とローブの中から黒く細い何かを取り出す。
「それは?」
「うむ、オーブの精製や虚霧を生み出すには、多くの『人手』が必要になる。
ここは『下請け』を増やそうと思ってな。これはその依代になる。
わざわざ虚兵を駆りだしたり、我らが奔走する手間が省ければ、大願成就はさらに早く、易くなるだろうて。
ドゥーガルの小僧はどうも任務より、己の楽しみのために虚兵を駆ることが多い。
『御霊新皇』の器の夜叉姫。
奴はあの娘にだいぶ執心のようだが、他の御霊がまだ見つかっておらん。
今、下手につついて覚醒を速め過ぎては事を仕損じる。
その力を見極めさせるのに、覚醒を促せさせたのは早計だったやもしれぬな。なんとか上手く手綱を引いておかねば」
「あら、その暴れ馬なら、西へ向かったわよ」
「……なんだと?」
「その三滝涼子は、牛鬼と契約するために九州へ行ってる。
牛鬼に会って契約するには、濡女が寄越す赤ん坊を自分の連れ合い、男に抱かせてこれを克服させないと顕れない」
「……男…………」
「ええ、今現在三滝涼子に一番近い異性ね。
ドゥーガルの話じゃ、その子の首を虚水黽騎で傷つけたら、夜叉姫としてもう一段階覚醒したらしいし。
下手したら、その男の子を手に掛ける可能性もあるわね。もし死んだら、夜叉姫の御霊は本格的に覚醒するかもしれない。でも」
「一度焔が点いた篝火は、辺りを照らし烈しく燃え続ける。
しかし、一度焔が灯ったが最後、どのようにしても燃え尽きるまでは消えぬ……」
老司祭のような痩身の男は、呪詛じみた響きで呟いた。
「今この時期を以て、夜叉姫を妄りに覚醒させ御霊を使い潰してはな。
ここまで拓いて均した道に、己で置いた石で躓かされるわけにはゆかぬ。早急に手を打たねば……。
捜すべき人間もまだ見つかってはおらん。ここで瑕疵を拡げていては元も子もない」
「ああ、御霊計画に必要な男ね。あなたの能力でもまだ捜せないの?」
「ふむ、忌々しいがな、生身の人間が儂の網をここまで掻い潜るとは。
――――この場合は流石というべきか。
御霊新皇の器、夜叉姫が三滝涼子の父、三滝渓介」
ヴェーレンがぶつぶつと呟いていると、男達の賑やかな歓声が聴こえてきた。
那由多やヴェーレンもそうだが、こんな場所、時間に訪れる人間が真っ当な目的で来るわけがない。
若く上品な身なりをした男たちは口々に自分たちの『成果』を喜んでいた。
「いやーー、やっぱり横浜で釣り糸垂らして正解だったわーー」
「ほんっと、こんな上玉が二人も! 大金星じゃね?」
「そーそー、やっぱり日頃の行いがいいから美少女がゲットできる。これこそ天の采配だよーー!!」
男は五人。廃病院に似つかわしくない喧騒だ。
その中に混じって、若い女性のすすり泣く声が幽かに聞こえる。
清楚そうな服装に、髪型、それに佇まい。
二人いるが両方とも口を粘着テープで塞がれ、両手首は後ろ手に組まされ、同じく粘着テープで縛めを受けている。
明らかに無理強いされて連れて来られた様子だ。
自分達の饗宴の主賓、ともすれば生贄として彼女たちは連れて来られたのだ。
「はーー、今月は豊作だーー! やっぱり――――」
「――――おっ、おわっ! なんだよ!? 先客? 魔法使いかよ!?」
「うわーー、きれいなおねいさんもいるー。こういうとこで、イメージプレイ? 奇遇だなーー、僕らもこれから仲良く楽しむんだーー」
「お互いあれだ、動画撮影しない? そうすればいつでも今日の思い出を楽しめるし。何より『抑止力』になる。一石二鳥、いや三鳥だね」
それを聞いた女性二人は、絶望に恐れ戦いた。さらに身体を震わせ、泣き声を漏らす。
それを見た男達の嗜虐心はさらに高まった。
「おおーー、そっちのプレイ内容は分かんないけど、お互い楽しもうよーー。せっかくだからさーー」
その様子を見ていたヴェーレンは忌々しげに舌打ちする。
「なにか野暮用を済ませようとすると、その都度、阻まれる。
面倒なことだな」
「どうする? ドゥーガルが気になるなら私が処理しておこうか?」
那由多の提案に対して、漆黒のローブの男は手で制する。
「いや、構わん。行き掛けの駄賃だ。儂がやる」
そのやり取りに若者たちが騒ぎ立てた。
「えーー、魔法使い(笑)のおじさん、おねいさんをリードするの――? 俺らそのあとでいいんで、見学してていいですかーー?」
「――――ふん、新たな得物を拵えるため廃病院を選んだのだ。手頃な贄が確保できるからな。
せっかくだ、搾り取らせてもらおうか」
黒衣の男の脇腹部分から、細長い腕が二本突き出した。
黒と黄色の横縞模様。ところどころから太く鋭い毛が生えている。異様に長い腕の先には鉤爪が三本生えていて、男達を値踏みするように開いたり閉じたりする。
その様子に男達は沸いた。
「おおーー、すげえ! 金かかってそう!」
「ひょっとして、特撮? 自主製作映画とか? 俺らと趣旨違うけど、これはこれでマジ尊敬するわ!
撮影とか邪魔しないんで、ちょっとだけ触らしてもらってもいいすか?」
男の一人が無遠慮にヴェーレンに近づいた。
ヒュン
「あ、あれ? なんか今通った?」
ヴェーレンに近づいた男が自分の頬を手の甲で拭う。と――――
「うわっ! 血!? なんで!?」
ヴェーレンの手、尖った爪先は血で濡れていた。爪の先を口元に寄せる。
「うむ、いい味だ。己の情欲を満たす為のみに動く腐りきった魂、虚無に近い味がする。いい刃ができそうだ」
バリッ! バリバリバリ!
ヴェーレンの撫で肩の先からさらに腕が二本伸びた。元の腕と合わせて六本。どれも不自然に長く、先には鉤爪が生えている。
「う、うわっ! うわああああ!!!」
男たちは先ほどまでの楽し気な状態から一転、叫び声を上げ恐慌状態に陥った。
ヴェーレンが目配せすると、那由多は頷いた。腕を組んだまま文言を唱える。
「妖魅顕現、亡獣、『片耳豚』」
――――ブキィィィィィィィーーーー!
人が寄り付かない廃病院の一室。暗闇に太く無遠慮な鳴き声が響き渡った。




