〇五二 嚆 矢
私からみても巨大な御滝水虎ですら、海から上がってきた牛鬼と較べると、大人と赤ん坊くらいはっきりした差がある。
ヴォォォォォォォォ………!
牛鬼は私たちを見ると唸り声を上げた。私と目が合うと地の底から響いてくるような野太い声を出す。
「なんだ? その怪態な妖気は。陰だけでなく陽の気までも練り上げているだと?
……そうか、貴様は夜叉姫か。
前に遭ったのは……五百年ほど前だったか。代が替わっても生意気そうな眼に変わりはないな……。
濡れ女の試練はなんとか突破できたようだが、このまま退いても構わぬぞ?
我に遭えただけでも僥倖だと知るがいい。これより先はちっぽけな水妖一匹だけでは歯牙にもかけんぞ」
ギリリリリリリ……
御滝水虎が悔しそうに歯軋りする。無理もない、牛鬼の指摘が正しいからだ。
妖魅の強さは、大地自然のエネルギーや本体の鬼力だけで成立していない。
人間、それも一般の人に広く知られてこそ、その強さが十二分に発揮できる。
私は、六花が氷獣雪野槌を初めて見せた時のことを思い出していた。
***
「少年は妖怪だけでなく、クトゥルフ、暗黒神話とかは知ってる?」
「え? ああ、はい。妖怪ほどじゃなくても、ヒトじゃないモノっていう点では近いですから。でも一般に知られてるレベルですけど」
「うん、それでいいよ。で、暗黒神話とかTRPGを語る上でよく使われるミームって単語知ってる?」
「はい、ええと……確かリチャード・ドーキンスが提唱した、文化を進化させるための、狭義の生物学的な遺伝子以外の遺伝情報ですよね。技術とか習慣とか物語とか。
日本語だと模倣子とか模伝子とか、意伝子とかそんな風に訳されますよね」
岳臣君は、すらすらと諳んじるように説明した。
六花は無言でうなずく。
「そう、で、私たちは観念子って呼んでる。
正式には文化の遺伝子だけど、私たち夜叉姫や妖魅にとっては『心の遺伝子』、『文化、現象、恐怖心の経験値』とも言える大事なもの。
今出した雪野槌もそうだし、涼子の御滝水虎もそうだけど、産まれたっていうか、創られて――――発生してからの認知度はほぼ0に近い妖魅だからね。
並の妖魅とか虚神なら大体互角以上に戦えるけど、本腰入れてかからないといけない敵はまだまだ増えてく。
今日契約した鎌鼬みたいに知名度が高い妖魅を眷属、契約していかないとね。
まああれだ、飲みながら話ししようか」
***
妖魅達の遺伝子、集合的な経験値そのものとも言える観念子。
御滝水虎は妖具化した時は虚神に対して無類の強さを誇る。それは私との結びつきが一番強いからに他ならない。
でも、民間伝承だけでなく絵姿、イラスト、それに大きな祭事の中心として大きく取り上げられている牛鬼。この巨大な妖魅はまさに剛妖そのものだ。
生半な覚悟では、契約そのものすらできないだろう。
だからこそ。逃げ帰るわけにはいかない!
「御滝水虎、妖具化!!」
水虎が蒼い宝珠に凝り、取り出した太刀に済んだ水が纏わりつく。
ただの鋼の刀が彼岸の水を鍛え上げた刃、瀑布刀に姿を変える。
正眼の構えを取った。
「妖魅を駆り、その力を統べる戦姫、夜叉姫か。その気概だけは買ってやる。
だが、今帯びた刃では我に一太刀入れることも叶わぬぞ……」
「――――その通りニャ、涼子に御滝。逸る気持ちは解るがここは私に任せるニャ」
私が言い返すよりも先に、語尾に取って付けたような『ニャ』をつけて話す声がした。
振り向くと、すらりとした細身に黒一色のノースリーブのワンピースを着た女性が腰に手を当てて立っていた。
「んん? 貴様は……火車か? 貴様ともあろう大妖が、なぜ小娘についている?」
「色々事情があるニャ。
にゃあ、牛鬼。昔蔑ろにされたのは解るんニャが、私に免じてここはおとなしく契約してくれんかニャ?」
――――ぶふぅぅぅーーーーっ
火車の提案を聞いた牛鬼は鼻を鳴らす。その息はまるで真夏の叢、草いきれのように熱かった。
「その提案は飲めんな。仮に力を示さず、ただ契約しただけでは、我の力を御せずに我が力に潰されるだけだろう」
その言葉に火車もふんと鼻を鳴らす。
「まあ、一理あるし想定内の返事だニャ。
涼子、これから私を妖具化して戦うニャ。この剛妖を止めるにはそれしかニャ――――」
――――はっ はっ はっ はっ はっ はっ……。
――――はあ はあ はあ はあ はあ はあ……。
暗がりから荒い呼吸が聞こえてきた。
「……もう、火車様、なんでお一人で行っちゃうんですか?」
「……遅くなりました……。涼子さま……。火車様……連れてきました……」
猫又と五徳猫が息を切らせてやって来た。二人ともはあはあ言っている。よっぽど遠い所から走って来たみたいね。
「自分は子猫の姿で抱っこされて来て、浜まで来たら急に自分だけ走って、なんでここぞっていう時だけ、主役みたいにかっこつけてるんですか!?」
「煩いニャ! たまには私にもかっこつけさせろニャ!!」
「……………………」「……………………」
三人のやり取りに、私だけじゃなく牛鬼も沈黙する。全くもう、緊張感無くすなあ……。
「火車、あなたを妖具化しても大丈夫なのね!?」
「当然ニャ、伊達に普段あちこちほっつき歩いて、食っちゃ寝だけしとらんニャ」
――――自分が普段ほっつき歩いて、食っちゃ寝しかしてない自覚はあったんだ……。
「――――じゃあ、いくわよ。妖魅顕現、『火車』!!」
私が改めて文言を唱えると、瀑布刀は飛沫になって掻き消えた。夜目にも蒼い宝珠が、浄眼珠に格納される。
それと同時に火車の姿が人間女性から、一際大きな黒猫の姿になった。
その背中の上には、前に顕現させる時に使ったものと同じ、木製で黒塗りの車輪が丸い背中の上に水平に浮いていた。
火車が喉をごろごろと鳴らすと、車輪はゆっくりと回転する。私はさらに文言を唱えた。
「火車、妖具化!!!」
巨大な黒猫と背中の車輪が一点に集まって、濃い黒と深紅が混じり合った宝珠になった。
こうしている間も、余裕の表れだろう。牛鬼は臨戦態勢を保ったまま成り行きを見ている。
宝珠が浄眼に吸い込まれると同時に、手に持っていた太刀の刀身、鍔や柄ごと黒く染まった。
持っている柄と、切っ先だった部分が太くなり上下に伸びていく。
緩い弧を描いて、長さ七尺三寸、220cm程に伸びる。
鍔に当たる所からは小さいけど、細い御簾と牛車の黒塗りの車輪、同じく牛を繋ぐ部分、轅と軛が顕れる。
太刀に、妖魅火車を上乗せして妖具化した新たな武器。
それは全体が漆で塗られた、艶めく巨大な和弓だった。
『遠からん者は音にも聞けい!!
葬獣火車が、我が身を武器に転じる!!
諡は無し! 字は『火葬弓』!!!』
火車の妖具化が済むと、改めて牛鬼は大きく息を吸い込み、天を仰いで大きく吼えた。
――――ヴォォォォオオオオオオオーーーー!!!
「よかろう、小娘! 火車の力を御して見事我に一太刀浴びせて見せよ!!!」




