〇四九 潮 騒
「ね、ねえりょうこさんほしぞらがきれいだね」
「……………」
またしても迂闊だったと、今さらながら思う。学芸会でももう少し気持ちを込めて言うだろうに、今の彼は棒読みもいいところだ。
場所は昼過ぎに来た磯付近、時刻はもう夜九時を回っている。雲が薄くたなびいていて、星空は言うほどはっきりは見えていない。
「男女の仲睦まじい様子を見せつけてやれば、牛鬼の仲間の妖魅を呼び寄せられる。
そしてその妖魅が出してきた試練を乗り越えれば、『牛鬼』が姿を顕す」
夜叉姫にそう助言されて、九州は福岡県の海水浴場まで来ている。
私が夜叉姫として浄眼と契約してから、今月で二回目の遠出だ。そのうち青春18きっぷでも買おうか、本気で考えないと。
思えば先週、岳臣君がなんとなく放った一言で今回のミッションが始まったんだった。
しかもそれは私の右手に格納されている篭手、『夜叉の浄眼』に宿る人格『夜叉姫』に少なからず因果がある妖魅だとか。
お互いに疲弊するからあまりやらないけど、浄眼の内側で夜叉姫と話をすることがある。
最初に出逢ったのは、浄眼を手にはめた時で、その時は何もない霧が出てる空間だった。
だけど、前回行った時は私の家の座敷とほぼ同じ間取りや調度品の部屋に通された。
細かい理屈や機能は分からないけど、ある程度夜叉姫が好きにカスタマイズできるみたい(中で私が貸した携帯ゲームとか、家にあったレトロゲームまでやりこんでたのは驚いたけど)。
お茶菓子を出してあげて一服した所で、彼女からはあっけらかんと言われた。
「前回は、似たような状況で契約を結ぼうとしたけど……結局失敗した」
それに関して問い質した。
そうしたら、その昔、女だけで行っても牛鬼には会えないから契約できない、ということで、そこいらにいた若い男を何の説明もなしに連れて行ったみたい。
当然のように、契約どころか男は逃げて牛鬼との契約は失敗。そのままうやむやにしたままらしい。
厳密な意味では、牛鬼そのものとは会ってもいないから失敗ともいえないけど、それにしても……。
岳臣君は聞かれたことに答えただけだし、夜叉姫は後始末させるというよりは、私を信頼してくれている、はずだ。そう信じたい、本当に。
「で、なるべく仲睦まじいカップルになって、こうして……海辺で戯れていると、牛鬼の仲間が顕れるって」
もちろん私は、夜叉の浄眼を一般人には視えない状態で右手に展開している。
ただのカップルがここらを闊歩してるだけで、牛鬼が出没したらそっちの方が大問題だ。
晩ごはんもそこそこに海岸に来たからお腹が空いてきた。でもまさか、さっき旅館で出された料理を広げるわけにもいかないし。
万が一にも、お膳をテイクアウトしてるのがどこからかバレたら、旅館に迷惑がかかる。
こんな天気にもかかわらず、岳臣君は黒いウインドブレーカーにバイク用のグローブまではめている。私がどうこういう筋合いはないけど、だいぶ暑そうだ。
さっきまでと違って、きれいな星空には厚く雲が立ち込めてきた。
どことなく蒸し暑く、落ち着かなくなる感覚。
妖魅が此岸に近づく前兆だ。
それに伴って穏やかだった海もだんだんと波が高くなってくる。独特の圧迫感と緊張感は、妖魅が近くにいる何よりの証拠だ。
「……………………」
しょうがない、牛鬼との契約が最優先だ。岳臣君には悪いけど、埋め合わせはちゃんとしよう。
「ね、ねえ、いいふいんきじゃない?」
そう言って目を閉じてあごを少し上げた。
「「…………!!」」
ガサッ ガササッ!!
後ろの方でなにか物音がする。
見ると、猫又と五徳猫が灌木の枝を切って頭の横にくくりつけたり、身体の周りを木の枝で囲って身を隠すようにうずくまっている、みたい。
よくアニメとか漫画では見るけど、実際にやってるのは初めて見た。
気持ちは買うけど、あなた方、岩だらけの磯浜でやったらかえって目立つから。
私はジェスチャーで二人に下がるように促す。一方の岳臣君は緊張したのがちがちの表情になっていた。
――――はぁ、はぁ、はぁ――――
と、遠くから何か掠れた息が聞こえて来た。
暗がりで見えにくかったけど、遠くから女の人が、大きめのタオルにくるまれた何かを持ってこちらに来た。
「どうしました? ……顔から血が! なにがあったんです!?」
岳臣君が女の人に声をかけた。
ぱっと見は23~4歳くらいか。青いワンピースを着て、足はなぜか素足だ。
血の気が失せたような顔色で、長い前髪が顔にかかっている。
普通にしていれば確実に美人だけど、額や口の端から血が出ていた。ここまで走ってきたのか息も絶え絶えだ。
「主人が……暴力を振るってきて……アパートから……逃げたんですけど……追いかけてきて……なんとか……振り切って……」
「まず落ち着きましょう、僕たちがついてますから。
DV、いわゆるドメスティックバイオレンスとかそういう類ですか?」
岳臣君がハンカチを手渡す。その質問に女の人は声を殺してすすり泣いた。
「……うっ、ううっ……! ……本当は優しい人なんです、この子にも私にも……!
ただちょっと不器用で、人付き合いが苦手なだけで……! 新しい職場にも口下手だから馴染めなくって……!」
ぽたっ ぽたっ ぽたっ ぽたっ
押し殺した泣き声に、水滴が防波堤に落ちる音が重なる。
「すみません、見ず知らずの人にこんな身内の恥を聞いてもらうなんて……。
でも、話を聞いてもらったらなんだか落ち着きました。そうだ、あの人が心配するから電話しないと。
あの、初対面の人に頼むのも気が引けるんですけど……この子を抱っこしててもらえますか?」
いくぶんか気持ちが上向きになったのか、垂れていた前髪をかき上げて岳臣君に頼んだ。
「ああ、はい。いいですよ」
人のいい彼は一も二もなく、女性が抱えていた丸まった布を受け取る。
若い女の人は私たちから少し離れた。
「……ふう、岳臣君。差し出がましいのかもしれないけど、警察に連絡した方がいいのかも。
ほら、私たちの知り合いで清楽さんがいるでしょう? 彼女に連絡して、福岡県警の担当の人に連絡してもらえば」
私は小声で岳臣君に耳打ちする。
「家庭内暴力、虐待、ネグレクトとかなら福岡県警の生活安全課に連絡した方がいいですね。本当に虐待とかなら」
珍しく緊張した声で岳臣君が続ける。
「なんであのひと、電話するって言ってスマホも何も持ってないんですか?
第一、誰かに殴られてアパートから逃げて来たなら市街地、旅館側から来るはず。なのにあの女の人は防波堤側、海から来たことになる。
それに」
岳臣君は下を向いた。何か粘ついた水が防波堤の上に伸びている。それに暗くて気づきにくいけど、その中に混じって薄くて蒼い金属片のようなものが混じっていた。
その粘液を辿ると、こちらに背を向けた女の太腿や手先から出ていた。
粘液はとめどもなくなくたらたらと流れている。
「極めつけはこれです」
岳臣君は抱えていた布をめくると――――
そこには全身が青白い、濡れて不気味な、魚にも似た未熟児がくるまれていた。




