〇三〇 彼 岸
自然と全員の視線が私に集まる。が、私は両手を左右に振った。
「……違います。岳臣君は私の高校の同級生ってだけで、それ以上のことは……とにかく死んじゃうと困るんで助けてやってください!」
黒い猫はさらに目を細めて納得したかのように、うんうんとうなずく。
「まあ、そう答えるだろうニャ。そういう態度になる女子は嫌いではニャい。よし、男の魂を喚び戻してやろうニャ。
ただ、私も顕現してすぐで腹が減っとるニャ。贅沢は言わぬがなにか鮪の刺し身でもあればいいがニャーー……」
「それだったら、刺し身はないけどこれで間に合わせて」
と、六花が夜叉の浄眼から猫用のマグロ缶、それに白い皿と割り箸を出した。
「どうか食べて」
地域猫や野良猫にあげ慣れているのか、手際よくマグロ缶5個を皿の中央にこんもりと盛りつけた。
「ふむ、まあよかろう。いただくニャ」
大きな黒猫は缶詰をぺろりと平らげた。
「じゃ、お願いします」
私が頼むと『火車』は名残惜しそうに皿をぺろぺろとなめていたけど、私の目を見て真顔になった。
「よかろう、冥府に連れていってやるニャ。けど、以降の交渉はお前たちが自分でやるニャ」
『火車』は車輪の前に座ると両前足を上げた。肉球同士を合わせて祈るように前足を上下に振っている。その真面目ふざけた様子に私は少しじれた。
「あの、ちょっと……」
言いかけたその時、黒い木製の車輪が2mほど浮かび上がった。その真下に黄色い光が照らされる。
「準備完了ニャ。その光を浴びると黄泉の国、冥府に行けるニャ。特別に私もついていってやるニャ」
「涼子、心の準備はいい?」
無言でうなずく。
六花が車輪の下に進むと瞬時に姿が消えた。
私が歩を進めると、まばゆい光に目がくらむ。あっという間に目の前の風景が変わった。
***
「ふむ、では行ってくる。そこの人間、車輪は私たちが帰ってくる時の縁になる。盗られたりしないように見張っておくニャ」
『火車』が光に包まれて消えると、木製の車輪は地面にふわりと降りた。鵼塚の『蚊帳吊り』も消え、のどかな空気が辺りを包む。
「行っちゃったわね。まあ彼女たちは人知れず虚神と戦っているわけだから。一般人よりも多少は、生殺与奪の権利が大きくてもいいんじゃないかしら」
清楽が誰に言うともなくつぶやく。
「じゃあ、民間、一般人に過ぎない俺達には、そんな権利は無くって泣き寝入りを決め込むしかないってのかよ」
倉持は松の幹に握りこぶしを打ちつけた。
「覆水盆に返らず、でしょ。民間人の被害を最小限に留めるのも私たちの仕事。それが彼の遺志でもあるし」
「……ああ」
倉持は黒塗りの車輪を見つめる。そうしながら昔のことに想いを馳せていた。
***
「……ん……どこだ、ここ……?」
僕は辺りを見回す。自分が今いる状況、光景がよくわからなかった。辺りは殺風景な河原で申し訳程度に草が生えていない獣道がまっすぐ続いている。
「あれ、僕、鵼塚がある芦屋公園にいたんじゃ……」
はっきりしない頭で、なんとか記憶の糸をたどる。
そうだ、涼子さんと六花さんが鵼と戦って……それから、涼子さんが鵼が変化した水晶を取ろうとしたら……バケモノがいっぱい現れて、僕もサブマシンガンで戦って……。
涼子さんの家にいた変な子供がいて……そうだ! 僕刺されたんだ!
思わず自分の胸を触ってみる。穴どころか傷もないし、変わった様子はない……。
「ん?」
自分で触って気付いた。心音がない――心臓が動いてない!
嘘だろ!? 慌てて胸のあちこちを触ってみるけど、どこからも鼓動を感じない。顔から血の気が引いた――はずだったけど、それもない。
「まさかほんとに死んだのか? ひょっとしたら異世界転生? 不死の身体で新たな人生とか?」
精いっぱいの冗談で場を和ませようとしたけど、聞いてくれる相手は誰もいない。
ただ枯れススキの穂が、風で揺れる音が寂しげに響くだけだ。
急に恐怖を覚えた僕は河原の上流に向かって走り出す。ここがどこか分からないけど、元の場所に帰らないと。
「は……はあ、はあ、はあ」
僕はしばらく走って息切れする……と思いきやなんともない。でも、気分の問題で息切れしてしまう。
実際には呼吸を一分以上止めていても、苦しくもなんともない。
「本当に死んでるのか……?」
急に気落ちして、下を向きながらとぼとぼと歩いた。
子供の頃からそうだ。落ち込むとつい下を向いて歩いてしまう。いやこれではだめだと思って上を向くと、墨汁を溶かしたような雲が厚く立ち込めている。
僕はさらに憂鬱な気分になって肩を落とした。
そのまま10分ほど歩いたろうか、視界に何か白いものが入った。僕が駆け寄ると大きな松の木の下に誰かがいた。
「ああ、ご新規さん?」
そこにいたのは、着流しの白い着物の前をはだけるようにして着ている女性だった。
「あのーー……あなたは……奪衣……さん?」
僕はどうしても、奪衣婆の『婆』という言葉を口にできなかった。
かっこうこそ、本とか絵で見た奪衣婆だけど、外見はどう見ても20代前半、しかもすごい美人だ。
おまけに、前が開いた着流しの間から見える胸の谷間とか太ももは……色白で巨乳だし、太ももはすべすべそうだし。
河原なのに、サンダルとか草履も履いてない素足だ。
どう見ても着てるのは着流しと細い帯だけだし、着流しの下は全裸っぽい。セクシーというよりは、なんかエロい。
――本当にここ死後の世界か? それとも夢? 僕がまごついてると『奪衣さん』は僕に近づいてきた。
「服、脱いで」
黒くて長い髪をけだるげにかきあげながら、着流し美女は僕に命令してきた。
「え? ここでですか? ……下着も?」
「バカ、上着だけでいいわよ。何想像してんの」
『奪衣さん』は僕が脱いだブレザーを受け取ると、河原の松の木の横にせり出した枝にかけた。
――確か、生前の罪の重さに応じて重くなって枝がしなるんだよな……。
心配する僕の気持ちとは裏腹に、ブレザーはちょっとした風でも飛びそうだった。
少しほっとする。
「……ちっ」
え!? 今この人(?)舌打ちしたよ、なんで?
「あんた、ひょっとしなくても童貞? それも女の手も握ったことない純正のやつ。
あれでしょ、好きな女と『目が合った』とか『口きいてもらえた』とか『笑ってもらえた』とかで満足して、妄想で満腹してそっから先進展できないタイプだ」
奪衣……さんはこっちの顔も見ないで断言する。
僕は
「なんで知りもしないのに言い切れるんだ、この女ーーーー!」
と叫び出しそうなのを(怖いんで)なんとかこらえた。
代わりに心の中で血涙を流す。そりゃ、今指摘されたのほぼ全部当たってたけどさ……。
「なんだよーー。罪重いやつ送り込んだ方が点数高いのになーー。まあ来たもんはしかたない、送り出してやるか。
じゃあこれ、太枠で囲まれたとこに記入して」
『奪衣さん』はファイルバインダーに綴じられた書類を差し出してきた(ここってあの世……だよな)。
彼女の胸元に目が行かないよう気をつけながら、何とか必要事項を書き終える。
なんでこの女こんな格好してるんだよ……。
「よし、記入漏れは……ないね。書類は転送しとくから、この舟で向こう岸まで行って。そっから先はは道なりに進んでけばいいから」
「あの、僕はほんとに死んだんですか? もう戻れない?」
僕の質問に『奪衣さん』は、髪をかきながらけだるげに応える。
「どうだろ、罪状は無いに等しいくらい軽いし。例えば心が通い合う人とかの呼びかけがあったら戻れるかもしれないけど……誰かそういう人、いる?」
返事に詰まる。両親は今海外だし、兄弟は大学だ。呼びかけてくれる可能性はオブラートよりも薄い。
「涼子さん……」
「まあそんなに悲観しなくても。あんた顔はまあまあだから、こっちのシフトがない時、もし会ったらサービスするから」
何のサービスだよ……僕は妙に重く感じるブレザーを着てから、木製の小舟に乗った。




