敵陣潜入
「新藤様、これを」隣に座っていた芳賀がカードのようなものを俺に手渡す。
「社員証ですか?」
「はい。それと右手を出してもらっていいですか?」
俺は言われるがまま右手を差し出した。
芳賀は俺の右手の人差し指に何か薄いシールのようなものを貼った。
「なんですか、これ?」
「アルファゼロの男性社員・斉藤亮一の皮膚を再現したシールです。社員証は社内で身に着けるもの、このシールは入館するときに必要なものです。まあセキュリティ対策でございます」
皮膚…。まるでスパイ映画みたいだな。
「驚かないのですね。さすがヒカリ様の見込んだ御仁だ」芳賀が感心したように言った。
「いや、色々麻痺してるだけですよ」
日はすっかり沈み、車は夜のレインボーブリッジを通過した。
「アルファゼロ本社のセキュリティは万全と言ってもいいでしょう。何しろあそこには世界を変革するだけの力と知恵が詰め込まれていますから。……しかし、100%安全という言葉はこの世には存在しません。必ず不完全な部分は存在します」
芳賀が空間上にバーチャルの画面を出した。
「おそらくですが、ヒカリ様が軟禁されているのはビル31階、レジデンス(居住)スペースと呼ばれているフロアです」
「場所が分かっているなら31階に直接行けばいいんじゃないですか?」
「困ったことに30階以上への直通エレベーターは幹部社員しか使用できないことになっています。さすがに幹部の皮膚片を入手することは叶いませんでした。新藤様にはまず29階の上級社員用の休憩室に向かって頂きたい」
「上級社員?」聞きなれない言葉だった。
「はい。アルファゼロは正社員をさらに3分割にして下級社員、上級社員、そして幹部と振り分けています。下級が使えるエリアは1階から19階まで上級は29階までといった具合ですね。下級と上級では給料だけでなく福利厚生の充実度もかなり違いますので、社員のモチベーションも上がるという訳です」
何となく、いま日本でもっとも新卒が入りたがる会社ランキング一位になった理由がわかった気がする。
「そして上級社員にはそれぞれ個室の休憩所が与えられます。あなたにお願いしたいのは29階から31階への潜入です」芳賀が俺の手にある社員証を指でさした。
「ああ、なるほど。29階の社員のネットからAS内のアルファゼロの“ビジネス”のルームに潜入して31階の鍵を開けろと」
AS上で現実にある社内の鍵や自宅の鍵を施錠するのはもはや常識となっていた。
「ご明察でございます。…そしてあなたにしか頼めないことでもあります」芳賀が少し語気を強めた気がした。
「……やな感じですね。まるで断れる雰囲気じゃない」
「申し訳ない」
「いや、いいです。なんとかやります。ただ失敗しても恨まないでくださいね」
「はい。もちろん」
東京湾に面した広大なビル群に一際突出したビルが見える。
アルファゼロ、最上階からは東京を一望できるであろう、そのビルは外観からだけでも妙な圧迫感を感じた。
車はほどなく本社の近くに止まった。雨は止んでいる。
「それじゃあ、行きます」俺がドアを開けようとすると芳賀が呼び止めた。
「新藤様、行く前にこれに着替えを」
振り向くと芳賀はスーツを俺に見せた。
「…ああ。たしかに」自分の服を見て納得した。部屋着のままだった。
車の中で着替えを済ませ、ドアを開けた。
「ご武運を」芳賀が笑みを浮かべていった。年の功というやつか、状況はあまりよくないのに芳賀の顔からは焦りの色ひとつなかった。
「ヒカリ様をお願いします」牧野が言う。そういえばはじめて声を聞いた。
「了解です…」




