第一話・『俺』
「うそつき」
「…ごめん」
泣きかけの顔で僕を糾弾してくる女の子に、僕は思わず俯いてしまう。
――違う。
僕は彼女にこんな顔をさせたいわけじゃない。
「ずっといっしょにいてくれるって…やくそく、したのに」
「……ごめん」
僕は幼いながらも、彼女のことが好きだった。
だから僕は――僕たちは、約束を交わした。
それに僕も、ずっとそれだけは守っていくつもりだった。
けれど当時、僕の両親は離婚をして、母親の方にもらわれた。同時に母親の実家である都会の方に引っ越すことになったのだ。
どれだけ僕が訴えても、所詮はただのガキ。僕の言葉には、欠片ほどの力もなかった。
「………うそつき」
ついに彼女は泣き出す。
「ごめん。――でも、」
ただその時は、彼女に笑っていて欲しいという、その一心の行動だった。
「もういちど、やくそく」
彼女は涙を拭いて、小首を傾げる。
「またいつか、ぼくはここに、すみれちゃんのところに帰ってくるよ。だから、そのときはぜったいにすみれちゃんとずっといっしょにいるってやくそく、守る」
「ほんと…?」
「うん」
それは、鎖だ。
帰れる保証など何もないと言うのに、僕は彼女に待っていて欲しい、と希望をちらつかせ、彼女が他の誰かを好きになる自由をも束縛してしまう、〝約束〟という名の鎖だった。
…今思えば、なんと無謀で、愚かで、残酷だったんだろうかと思える。
でも当時の僕は、それが最善だと思っていたんだ。
彼女に笑っていてもらう為に。
「だからすみれちゃんも、やくそく」
「?」
彼女はまた首を傾げた。
「ぼくがかえってくるまで、なかないで」
「え? でもわたし、じしんないよ…」
彼女の瞳が不安そうに揺れる。
その目をする時の彼女は決まって、僕に助けを求めるのだ。
もしかしたら彼女自身も、無自覚ながらもその目をすれば僕が助けてくれると思っていたのかもしれない。
「すみれちゃんはなきむしだから、ぼくがいなくなったら、ちょっとしんぱいなんだ」
少しだけ、ぷくぅ、と頬を膨らませた。
「わたし、なきむしじゃ、ないもん」
「いまもないてるよ?」
彼女は驚いた顔をして、目の辺りをごしごしこする。
「なきむしじゃ、ないもん」
そしてむくれた顔で繰り返す。
こらえきれず、吹き出した。
「ぼく、すみれちゃんがしんぱいなんだよ。だからぼくがあんしんできるように、すみれちゃんにはわらっていてほしいんだ」
「……うん、がんばる」
その言葉を聞いて頷いた僕は、
「じゃあ、やくそく」
そして僕たちは、指を絡めた。
「ぼくはぜったいにここにかえってきて、それからはすみれちゃんとずっといっしょ」
「わたしは、しおんくんがかえってくるまで、なかない」
結局のところ。
僕は、何ひとつ理解していなかったのだ。
…………
…………
「……き」
ごとんごとん…と、身体が静かに揺さぶられる感触がする。
それはきっと、今乗っているはずの電車の揺れからか。
「…にき」
? 違うな。この揺れは、機械的なものだけじゃなく、もっと優しい感じ――
まるで母親に優しく揺り起こされているかのような――
「あーにーきッッ!!」
――大音量の怒声。
「どぅわぁぁあっ!?」
驚いて、思わず飛び起きる。
「「痛ーーっ!?」」
そして、その瞬間何が起きたかも把握できないまま、額に鈍い痛みが。
「いったー……」
痛みを堪えながらの涙目で薄っすらと目を開ける。
そこに広がった光景は、ありふれた電車の車内。……ただし、乗っている人はかなりまばらだ。そこのシートの一角に、僕は座っていたらしい。
「ってあれ?」
一緒に隣に座っていたはずの妹の姿がない。
「由里? 由里ー?」
「こ、ここだここ…!」
お? なぜか由里の声が下から?
声の聞こえた床を見下ろすと、額を押さえながら上目遣いに僕を見上げ睨みつけて(涙目)うずくまる我が妹、由里の姿。
「……で、なんでそんなところにしゃがんでんの?」
「兄貴が急に起きたからっ!」
「あ、さっきのはお前にぶつかったからか」
それでおでことおでこがごっつんこ、と。
「ごめんごめん。おでこ、大丈夫?」
まだおでこをさすっている由里の手をどけて、額の様子を見てみる。
あ、少し赤くなってるな。
「どうする? 湿布でも張っとく? 僕、一応持ってるけど」
そう言ってショルダーバッグをごそごそと探る。
「いらないっ! 余計目立つし。つうか、兄貴はなんでそんなの常備してんの」
「いや、嗜みかなって」
「女子か」
失敬な。昨今では気の利く男子がモテているというのに。
「じゃあ真面目な話、ハンカチを水で濡らして冷やしとく? それぐらいならいいでしょ?」
まぁ、今は車内だから駅に着いてから、ということになるけれど。
「ま、まぁそれぐらいなら…」
渋々という風を隠すでもなく、由里は頷きつつ答えた。
「………」
「………」
そして、何故かの二人共の沈黙。
や、別に何か気まずいものがあったとかそういうものじゃなく、何かを猛烈に忘れているかのような、そんな不思議な感覚に囚われているのだ。多分由里も同じようなものなんだろう。
そんな2人の空気感に割り込むかのように、電車のアナウンスがスピーカーを通じて車内に響く。
『間もなく、繚乱町、繚乱町。お降りの際は、お忘れ物のなきよう、ご注意ください。左側の扉が開きます』
「あ、もう繚乱町なんだ」
僕の故郷であり、今向かっている町。
そう。かつて僕が住んでいた、そしてとある少女と約束を交わした懐かしい町へ、僕と由里は向かっていた。
「……って!」
「そうだよ兄貴! 降りる準備しなきゃ!」
なるほど確かに。寝ていた僕を起こす理由なんて、もうすぐ目的地に着く以外そんなにないだろう。
って、だからそんな冷静に判断している場合でなく!
慌てて床に置いていた旅行カバンを肩に引っ掛ける。
「よ、よし。僕の準備は大丈――」
コロコロコロコロ……
「あわわわ兄貴っ! ごめん、飴玉転がったっ!」
「由里焦りすぎっ!!」
……そんな慌しい降車も、なんとか無事に済み。
「ふー、とーちゃーっく」
改札を抜け、駅の構内から僕と由里は外に出た。
ちなみに降車の時の慌しさで由里は額の痛みをすっかり忘れてしまったらしい。単純というか切り替えが早いというか…。
駅を出て広がる人の多い通りから見える景色は、昔住んでいた時とあまり変わらないようでいて、それでもやっぱり至る所で変化が見られた。昔は八百屋だった所にあるコンビニだったり、元は空き地だった所に学習塾が建っていたり――
「……………」
こうして変化している町並みを見ていると、なんだか少し淋しい気もする。
まぁ、住んでいたのは10年も前の話だから、記憶なんて曖昧になっている箇所もかなり多いけれど。
…うちの家庭の事情は少しばかり複雑である。とはいえ、まぁない話という訳でもない。
僕が小学校一年生の時に、両親は離婚し、僕は母親と共に母の実家のある都内で暮らすことになった。
その町の、母さんが働いていた場所で母さんは社内恋愛をし、再婚した。その新しい父さんの連れていた子供が由里である。つまり由里は僕の一歳年下の義妹にあたるわけだ。
そして今、何故僕達が僕の生まれ故郷に帰ってきたのかと言えば――
「これから兄貴と二人暮しかー」
義父さんはいわゆる転勤族という奴であり、各地を転々としてきたのだが、それが今回の帰郷の原因である。
というのも、義父さんの転勤先が海外になったのである。そこで僕も由里も、海外にまで着いて行きたくはなく、ならばせめてと、この町で賃貸マンションを借りて生活することになったのだ。
……まぁ、この町を選んだのには、僕の感傷が多分に含まれているんだけれど。
「兄貴」
この妹、由里は僕のことを『兄貴』と呼ぶ。なんでも、素直に『お兄ちゃん』と呼ぶのは照れるらしい。出会った頃からそんなんなので、僕としてはもう何の違和感もない。実際、家族仲は非常に良好だ。
「何、由里」
「繚乱町ってどんなトコ?」
「また漠然とした…」
今いる駅前の方は、かなり開発が進んでいてニュータウン、という風情で、どこぞの町に比べたらだいぶ盛んな方だと思うが――
「少し歩くと畑とか山とかがあって、都市と自然が同居してる、って感じの町かな」
「そんなネットで調べたら誰でも分かるようなことはいいのよ、バカ兄貴っ」
「う…」
まぁ僕も引越しが決まってから調べたことだし。
「そーゆーのじゃなくて、兄貴が住んでたときの印象、みたいなの?」
「…随分様変わりしてるけど、いい町だと思うよ」
「それは、すみれさんって人がいるから?」
「ぶふぅっ!?」
思わず噴出す。
「どこから仕入れたのその話っ!」
「や、お母さんに決まってるじゃん」
「………」
聞くまでもなかった。
「随分いい雰囲気だったって聞いてるけどぉ?」
にしし、とからかう気満々ないい笑顔で言ってくる。
「もう10年も前の話だって。向こうは覚えてないかもしれないし」
まぁ、そう自分に言い聞かせてる節もなくはないんだけど。もし実際向こうが忘れてた時の予防線というか。
「なんかきゃっきゃうふふな話はないのー?」
「ないよ」
即答してやる。
悪いけど、このことに関して踏み込ませてあげる気はない。
途端にぶーぶー、と不満タラタラな由里だが無視だ無視。
「あわよくばあたしの嫁にしようと思ってたのになー」
「それは本気でヤメて…」
…不肖我が妹。一見普通の女子なのだが、その実、ただの親父――もとい、百合っ子なのである。『親父』というと怒るので、一応訂正しておく。本人曰く「あたしは女として女の子が大好き」らしいから。ちなみに男のことはそこらを這い回る虫、ぐらいの認識。僕以外の男とマトモに会話出来てる様を見たことがないし、また想像も出来ない。
……さらにフクザツなことに、この妹、僕なんかよりよっぽど女の子と付き合ったことがあるのだ。そんな奴に、すみれを近づけさせるわけにはいかないっ!
「大体由里はノンケで元気タイプの女の子をその気にさせながらしおらしくさせていく過程が一番好きなんでしょ?」
「そうだけど?」
「だったらすみれは、少し違うと思うけど」
すみれは当時からしてあんな大人しく女の子らしい女の子だったんだから。まぁ、性格は多少なりとも変わっている可能性はあるけども、いずれにしてもそこまで変わっているとは思えない。
その旨を伝えると
「へー、すみれさんってそんな人なんだぁ」
「しまった…」
ニシシ、と笑うすみれの顔を見て、うまく乗せられたことに気付く。
「さーて、兄貴の好きな人の情報も得たことだし、あたし達の住居へれっつらごーっ」
ごー、と同時に駅の前に続く大通りの道を指さす。
「……恥ずかしいし、方向逆だし」
通りを歩く人の微笑ましいものを見るような目が痛かった。
さて、ここで僕等の新しい住居である。
昔僕がここにいた頃に住んでいた家はれっきとした持ち家だったんだけれど、親が離婚した時点で売ってしまったという。
殆ど顔もおぼろげな父さんもこの町の出身ではなかったようで、そもそも僕が住みよい町を、と思って探した町だったらしい。
それはありがたいんだけど、それは同時に離婚した時に親の二人共、この町にいる理由がなくなった、ということなのだ。ぶっちゃけた話、都心への通勤にはちょっとばかし不便な場所である。
というわけで、これから由里と生活する場は。
「あれ? 結構いい場所」
そんな由里の感想が妥当かどうかはともかくとして、割と普通の賃貸マンションである。
2LDK、トイレ、風呂付き築10年で家賃8万1千円というんだから、まぁそれなりのところ。……なんて偉そうに言うものの、僕自身は部屋選びなんてしたことのないただの甘ちゃんだから、この部屋選びが初。僕が不動産屋に行き、部屋を見て、契約をした。母さんが手伝ってくれたらもっと楽だったんだけど、僕の自立性を試したのか放任主義の結果なのか、母さんは僕に全てを任せる、と言ってきた。
そして僕がその契約内容と建物の写真などを事後承諾的に見せた所、「まぁいいところ選んだんじゃない?」と言って来たので、まぁ良しとしよう。
「あたしてっきり、四畳一間みたいな所で生活かなぁって思ってたからさー」
「それはない」
それで1人暮らしならまだしも、2人暮しとかになったら寝床ぐらいしか確保出来ない。というか――
「もしそうなってたら、由里、どうしてた?」
んー…、と、さして考えてもなさそうな能天気な呟きを漏らした後
「兄貴の臓器は今頃海外に?」
「そんなところまでいっちゃうんだっ!?」
由里のことはある程度把握してると思っていたお兄ちゃんも驚きです。せめてお兄ちゃんを追い出すぐらいで留まってくれるものかと自惚れていたお兄ちゃんは死んだ方がいい虫なのかもしれません。
「だってぇ」
と少し甘えた声を出した後に言う言葉は、大抵黒い言葉だと、死んだ方がいい虫はご存知です。
「そうすれば兄貴がいなくなって部屋は広くなるし、お金も手に入る。すっごい一石二鳥っ。あ、兄貴、臓器は健康だよね?」
「臓器売買を前提に話をするなっ! 家はこのマンションなんだからいいでしょ!?」
「………」
由里がふと、なにやら黙考。
「今からでも四畳一間に変えない?」
「そんなにお兄ちゃんが邪魔ですかっ!?」
僕がツッコミを入れる。と、由里は楽しそうにコロコロ笑うのだ。
「冗談冗談♪ 兄貴は男の中では一番好きだから、そんなことしないよっ」
こういうところは、ホント直接的。
「うっ…ま、まぁ…、ありがと」
ってなんで僕がお礼言ってんだっ?
とは思いながらも、こういうストレートな言葉にはやっぱり弱い…。
「さてさてー、兄貴の照れた顔も見れたことですし、お部屋に行きましょー。おーっ」
「ちょ、由里ーっ」
ホントに…アイツが男嫌いでよかったと思う。
…あのストレートな性格が他の男の前で発揮されてたら、絶対に男を惑わす小悪魔になっていたと思うから。
部屋は、3階の角部屋。部屋番号で言えば306になる。
全体の階数は8階だからやっぱり少し低めの部屋だけど、別に僕も由里も高い所から人を見下ろすのが好き! とか、夜景をより綺麗に! とかは考えてないからこれで別に構わない。
そして部屋の中へ。
内装はフローリングに白い壁紙。入ってすぐには3人分の靴ならまぁ不便はないかなぁ、ぐらいの広さの玄関と靴箱。そしてこれは備え付けのものらしいのだが、靴箱の上にはバラの造花が花瓶に収まっていた。
そして玄関の正面には一部屋――広さは確か四畳ほど。その部屋から左手には、やはり四畳ほどの一室。この部屋のどちらかが僕の部屋で、もう1つが由里の部屋ということになる。
さて。
玄関を上がり左手には廊下、そしてそこから通じるのはリビングとそれと隣接する台所。ちなみにトイレは風呂と共用のユニットバスで、廊下の途中にある。
「まぁ、こんなところかな」
まだ何もないリビングに腰を下ろして、同様に僕のあぐらよりもやや上品な様子で僕の正面に腰を下ろした由里に話しかける。
「うん、まあまあねっ」
「…確かにザ・まあまあではあるんだけど、部屋を探す苦労をしてない由里に言われるとイラッとするものがあるね」
これでも僕は一ヶ月間ぐらい、色んな不動産屋をはしごしてこの部屋を探したのだ。
「ごめん、相変わらず兄貴のその据わってる目、地味に怖いからヤメて」
おや、そんな怖い目をしていただろうか。
「まぁそれはともかく、お昼ごはん、食べに行こうか」
「あ、あたしトンコツラーメン食べたーい」
「はいはい」
どうせ言うと思ってたよ。由里の好物だから。
「…予想以上だった」
空になったどんぶりを前に、僕は水を一気に飲み干した後にテーブルを挟んで目の前に座っている由里へと話しかけた。
「うん、満足満足ー」
本当に満足そうにホクホク顔で机に突っ伏す由里。食に対してそんなにこだわりがある、という訳ではないが、ことトンコツラーメンに関しては、その限りではない。むしろ「そんなところまで見る!?」ってな具合だ。その由里が満足だと言うのなら、それは間違いなく本音だ。
…まぁ、由里がうるさいのを分かってたから、事前にマンションの近くのおいしい店をリサーチしてたんだけど。それが無駄にならなくてよかった。
「じゃあ、行こうか」
テーブルに伏せられて置いていた伝票を持ち、立ち上がった。
店を出た途端、眩いほどの光が目を焼く。
とはいえ、まだ春の陽気。太陽は眩くはあっても暑くはない。
「これからどうすんのー?」
由里がややはしゃいだ様子で訊いてくる。トンコツラーメンを食べた直後の由里は毎度のことながらテンションが高い。
「もうすぐ荷物届くから、家に戻っとかないと」
今の時間は12時半。実のところ荷物が届くのは3時ぐらいだからまだ少しくらいぶらぶらしてても大丈夫なのだが、下手に動き回って迷子になるのはちと怖い。ついでにご近所さんに挨拶しときたいという目論みもあったり。
「まぁ、荷物受け取るだけだから由里はそこら辺ぶらぶらしててもいいけど」
「ん。だいじょぶだいじょぶ。兄貴だけに任せるのも悪いし」
「そ?」
こういう所は素直でいい子だ。こんなこと言うと「子ども扱いすんな」とか言われそうだけど。
「じゃあ帰ろっか」
そうしてマンションに向けて歩を進めた時に。
1人の男子が驚いた様子で僕を振り返っていたけれど。
全く見覚えがない奴だったから、さほど気にすることもなく見送った。
昔の同級生とかかなぁ。
家に帰り着き、旅行カバンに入れてあった東京土産の定番、バナナ風味のスポンジの中にバナナピューレを入れたお菓子の箱を取り出す。
無論、僕等が食す用ではない。これからお隣さんに渡す為のものだ。
ちなみにこれは由里の好物だったりもするので、ちゃんと我が家用にも確保してある。
さっきも言ったと思うけど、僕等のこの部屋は角部屋なので、挨拶をするのはお隣さんと上と下のお部屋だけだ。
まずはお隣さんへ。
由里を伴ってインターホンを押す。
ほどなく内側から「はーい」というおっとりとした若い女性の声が聞こえてきて、扉が開かれた。
そして現れたのは、髪に緩やかなウェーブがかかった女性。多分年齢は僕と同じか、少し上くらい。先ほどの声はこの女の人のイメージを正確に表していたように思う。
髪の毛の柔らかそうな雰囲気は言うまでもなく、ややタレ目になっている目元も母性を感じさせて、さっきの柔らかな声とマッチする。
……そしてなんというか――お胸がふくよか。
「ッーー!?」
足に感じた鋭い痛みに顔をしかめつつ、その原因となった隣へと視線を向ける。
言うまでもなく、由里である。完全に足を踏み抜かれた…。
…ちなみに断言してもいいが、この場合の由里の僕への攻撃は「あたし以外の女の子で見とれないでよ」なんて言うツンデレ的行為では、断じてない。「これはあたしの獲物よっ!」という意思表示である。
内心で「はいはい」と答えつつ
「今日隣に引っ越してきた、高岡です。これからお世話になります」
と目の前の女性――立川さんに言いながら持っていた東京土産を手渡す。
それを見ると「あらあらまあまあ」と穏やかに笑いながら立川さんは呟き、
「わざわざご丁寧にどうもありがとうございます。私は立川葵と言います。こちらこそよろしくお願いします、高岡さん」
僕が差し出したバナナのパッケージの箱を受け取る。
と、そこで僕の隣の由里に視線を向け、
「そちらは?」
と聞いてくる。
「あ、こっちは妹の由里です」
僕の発言に呼応し、由里が一歩前に。
「初めまして、高岡由里ですっ。お姉様、って呼んでもいいですか?」
コイツ手回しが早ええ!
「あらあらー。いいですよ」
そして即応じた!?
なんか出会って数秒でスールの契りが交わされたのだが。
「そちらのお兄さんの方はお名前は?」
あ、そういえば名乗ってなかったか。
「紫音です。高岡紫音」
「まあ。カッコいいお名前ですね」
そうかな? 個人的には女にも取られかねない名前だと思うけれど。
……まぁ、誉められて悪い気はしない。とりあえずありがとうございます、と頭を下げておく。
「お2人だけでここに?」
「ああ…。えっと、親は海外に赴任して…僕と由里だけここに」
「それは大変ですね…」
本当に大変そうに言ってくれる葵さん。
「禁断の兄妹愛ですか」
大変の方向性が決定的に違う気がしました。
そう言うとまた「うふふ」と楽しげに笑い、
「冗談です♪」
と言ってきた。
シャレになってねえ…。個人の感情はともかくとして、僕と由里に血の繋がりはないし。
そして数秒、葵さんは何かを思案する。
「もしよろしければ、時々ウチにご飯食べに来てください。大したものは用意出来ませんけど、ご兄妹での二人暮しだと、大変でしょう?」
ここら辺のフランクさは田舎特有のものか、それとも葵さんだからか。
……まぁ、後者かな。
「困った時は、お言葉に甘えさせてもらいます」
一応僕は料理が出来るけれど、決して得意なワケではない。単に由里と二人暮しするって決まったからある程度覚えただけだ。
だから葵さんの厚意はかなり嬉しい。
「ところでお2人は、今学生さん…?」
「はい。僕は今年高校2年生で、由里は高校1年です」
「キタコウ?」
「キタコウ?」と聞かれて一瞬なんのことを言っているのか分からなかったが、すぐに通う学校のことだと気づく。
繚乱北高等学校。それが、僕と由里が通うことになる高校の名前だった。その通称が北高。編入試験を受けに行った日に先生がその呼び名を使っているのを聞いた。
「はい」
「私も北高なんですよ。新3年生です」
「じゃあ先輩ですね」
ちなみに由里は当日一年生と一緒にクラスを確認するわけだけど、僕は事前に知らされている。2年C組だ。
「何時くらいに家を出る予定ですか? なんでしたら、一緒に行きません?」
と聞かれても、ちょい困る。…というのも
「実は、ここから北高までどれくらいかかるかイマイチ理解してないんですよね…」
一応場所は、前回ここを訪れた時に確認したから迷いはしない…はずだ。
「だったら尚更、私と一緒に行きましょう?」
だから葵さんのこの申し出は、実は結構ありがたかった。
「じゃあ、」
僕が口を開きかけた時、横の由里が
「是非に!!」
…コイツ、超ノリノリだ。
一応新学期始まりの日、4月9日に葵さんと朝8時にマンションの下で待ち合わせという約束を取り付けた。
その後は上と下の人(服部さんと斉藤さん)への挨拶を滞りなく済ませ、引越し業者が到着し、荷物を運び入れ(葵さんが手伝いにきてくれた)、配置をし……、ほっと、一息。
「なんとか生活の場は整ったね…」
現在午後6時。
新しくホームセンターで買ったばかりのテーブルを、僕と由里に葵さんを加えた3人で、例の東京土産をお茶菓子にお茶を飲んで囲っている。お茶とはいっても、紅茶だが。
「おいしいですねー、このお茶。ダージリン?」
葵さんがずず…、とお茶に口を付け一言。
「はい。折角の新生活なんでまぁまぁのヤツを買ったんですけど」
ちなみにここでの「まぁまぁ」とは変換すると「結構上等」になる。
「お姉様、よく紅茶の種類、飲んだだけで分かりますね」
お姉様って誰だよ、と一瞬ツッコんでしまいかけたが、すぐに葵さんのことだと思い当たる。なるほど、こうしてコイツは獲物の懐に入っていくわけか。
「私、結構紅茶が好きなんですよ」
「へええ」
とは言いつつ、物凄い『らしい』感じだ。このおっとりした人には緑茶や麦茶なんて似合わない。やっぱり紅茶か、日本風にしても着物を着てお抹茶を点てるのが合ってるだろう。
「それでも紅茶の種類が分かるなんてすごいですっ! 憧れます!」
由里の大袈裟な過剰な言葉に葵さんは照れたような表情を浮かべて
「えっと…ダージリンは香りが特徴的ですから、私がすごいとかじゃないんですよ? ほとんどの種類は味とか匂いでは分かりません」
なるほど。
僕や由里は「紅茶が好き」と聞いて、「紅茶を飲めば判別出来ますの、おほほほほ」といったようなマニア的なものを想像したけれど、そんなものよりももっと俗っぽいレベルでの話だったらしい。「飲み物で何が好き?」「うーん、紅茶かなー」ってぐらいのレベル。ただ葵さんのおっとりとした雰囲気がいかにも紅茶が好きっぽい感じだったからそう感じてしまっただけで、考えてみれば当たり前のことだった。
ふと話題が切れたところで「ところで」と話題の転換を図る。
「葵さんは、何かバイトとかしてるんですか?」
僕の隣で由里は「なんでバイトなんか聞いてんのよ」みたいな少しひんやりした視線を向けてくるけど、実は結構真面目な話だ。
由里には話してなかったけど、僕はこの町でバイトを探さなければならない。
一応生活費などなどは義父さん母さんが送ってくれることになってるけど、僕と由里が自由に出来るお金――要はお小遣いくらいは僕が稼ごうと思っているのだ。
これは母さんに言われたことではなく、僕自身が母さんに提案したことだった。ガキっぽい発想だなぁとは思うけど、これが僕なりのケジメということで。
だから葵さんに聞いたのは少しでもその参考になれば、ということだったのだが――葵さんは小さく首を振り、
「私は生徒会の方が忙しいものですから、バイトとかは…」
「あ、そうですか――」
とそのまま流しかけて。
なんだか聞き捨てならない言葉が混じってたことに気付いた。
「お姉様、生徒会役員なんですかっ!?」
そこだ。
「あら? 言ってませんでしたっけ?」
「言ってませんでした」
僕が言うと、また「あらあらー」と穏やかに笑って、
「そうなんですよ? 私、生徒会副会長さんなんです」
ふんす、と胸を張る仕草がなんだか可愛い。
するとだん! と隣で由里が机を叩きながら立ち上がった。…なんだか何を言おうとしてるか分かってしまう自分が嫌だ。
「あたし! 生徒会に入ります!」
やっぱりだ。
そんな由里の様子に穏やかな笑みを崩すことなく。
「ありがとうございますねー」
「いえ! お姉様と一緒にいられる――いえいえ、生徒の為に自分に出来ることをしてみたいので!」
本音がダダ漏れだ!
「でも生徒会役員の選挙は10月で、それが終わると私たち三年生は引退――」
「やっぱり入るのやめます」
しかも決断が早い!
あらあらー、と葵さんは笑う。
そんなこんなで、僕の新天地での初日は暮れていく…。
ちょっと騒がしいけど…まぁ、結構楽しいかもしれない。
翌日。4月7日。
今日は朝から町の探索に出かける。
由里も付いて来たがったのだが……実のところ、探索という名目がありつつも目的地があったので、なんとか言いくるめて1人で出てきた。
その目的地とは…まぁ、なんというか。アレだ。すみれの家だ。
やっぱり現在進行形で初恋を継続中の身としては、少しでも早くすみれに会いたいなー、なんて思っちゃってる訳で。
そんなに気になるなら離れてる間手紙でも電話でもなんでもすればよかったじゃん、という話なのだが、実のところ、家の場所は分かっても明確な住所も電話番号も知らなかったのである。
当時の僕の考え的には、『そこにいけばいつでも会える存在』。それが、すみれだったのだ。
「かくして、僕はすみれの住んでいた家へと足を運ぶ、と」
まぁ、そんな目的もありつつ町の探索というのも10分の1ぐらいは本音なので、道中には店の配置などを覚えておく。
ふとそこで、見慣れた場所を見つける。
「ここ……」
公園だった。
まぁ公園と呼ぶにはブランコと滑り台が置いてあるだけで、面積はかなり小さくてお粗末なものだけど。
それでもこの公園の光景は、否応なしに僕の胸を締め付ける。
僕とすみれが、あの日鎖を交わした場所。
自惚れかもしれないが、当時僕とすみれはお互いに好きだったはずで。
だから僕は、すみれが他の誰かを好きになって欲しくなかった。
だから。
僕は、彼女を約束という名の鎖で縛ったのだ。
「はぁ…」
僕は1人溜息を吐く。
自分の後悔した過去とかを思い出すと、無性に何か口から吐き出したくなる。多分、気を紛らわせたいんだと思うけど。
そう。確かあの日、僕はあの滑り台の前で――
「…………」
あんな風に、すみれを待っていた。
僕の視線の先には、滑り台を下から見上げるジーンズに黒いパーカー姿の男。肩よりも少し上くらいの長さの髪の毛をした、どちらかと言うと中性的な顔立ちの男で、多分年齢的には僕と大差がない。
中性的というと『女の子っぽい』という表現にも取られかねないが、滑り台の下の男は精悍な、凛とした、という表現が似合いそうな、男の僕から見ても羨ましい外見をしていた。
パーカーのポケットに手を突っ込んだまま佇むその男は、ここから見てるだけでも絵になる。それぐらい、その情景にマッチしてるというか。
はた、と。
「…………」
「…………」
その男と目が合う。
そういえばその男。今見てみると昨日ラーメン屋の帰りでチラッとすれ違った男だった。
軽く会釈をしてその場を去ろうとして――
「…ッ!?」
その男は明らかに狼狽した様子で顔を真っ赤にし、僕が今立っているのとは逆方向の出口から公園を走り去った。
「……?」
なんだ…?
いや。この疑問は、今の男の行動に対してではない。なんだかあの男に会ったことがあるような気がしたのだ。
当然、昨日会った時のことではなく、もっと昔――
あの、真っ赤にした表情と、輪郭、そして…目。
そして記憶を遡っていった先で。
あの顔が、すみれの顔とダブる。
それに気付いた瞬間、僕は思考することも煩わしいとばかりに、あの男を追いかけた。――いや、今更誤魔化すこともないか。
あれは、すみれだ。
外見や雰囲気は全然違うけど、あの目元を、間違えるはずがない。
たとえ他の友人達の目を別の人と間違えたとしても、すみれの目だけは、間違えない。
これでも走りには少し自信がある。すみれが去っていた出口から出て細い路地に入っていくと、ほどなく黒いパーカーの後ろ姿を視界に捉える。
全力で走りながら声を出すのは、結構しんどい。だけど、空気を限界まで吸い込む。
「すみれっ!!!」
多分僕の声は、届いた。
すみれは徐々に減速し、やがて立ち止まった。
「はぁ、はぁ…」
すみれのすぐ後ろまで着き、呼吸を整える。
「すみれ、だよね…?」
僕は同じように呼吸を整えるために上下に動かしているすみれの肩に、手を乗せる。
途端。
「っ」
すみれは肩を大きく回して僕の手を振り払った。
そして振り向いたすみれの目に浮かんでいたのは、悲しみや悔しさや怒りが内包された、複雑極まりない色と…そして涙。
「今更、なんだよッ!」
「!」
すみれから発せられたそのぶっきらぼうな声に面食らう。
なんだ…? これが、すみれか…?
少なくとも僕の知ってるすみれは、こんな言葉遣いでは…
「俺はもうお前になんか会いたくなかったのに! 今更帰ってきやがって!」
「…『俺』……?」
僕の呟きを聞いたすみれはまたうろたえた表情で僕から視線をそらす。が、すぐにまた僕に視線を戻す。
その息は走っていたせいか、それとも興奮のせいか、ひどく荒い。
けれどすみれは呼吸を整えることも忘れたように言葉を吐き出した。
「とにかくもう、俺の目の前に出てくんなッ!」
それだけを捨て台詞に、すみれは再び僕の前から走り去る。
大した速さではなかった。追いかけようと思えば、割とすぐに追いついただろう。けれど僕は、動かなかった。もしかしたらすみれは、そこまで見越していたのかもしれない。
突然の出来事の応酬に僕の思考が全く追いついていない。
……だけどまぁ、ただ1つだけ、僕の中で漠然と分かることがあった。
どうやら僕の初恋は、失恋に終わったらしい。
初めまして、高梨鷹介と申します。
ここまで読んでいただけた方、このような拙文をお読みいただきありがとうございます。
この作品のコンセプトとしましては『王道だけど邪道』というものを目指しております。
これからもまだまだ続いていきますので、引き続き読んでいただけたなら私もとても嬉しく思います。
また、今作ワードで打ち込んでコピペしているのですが、それをした結果段落空けがうまくできていません。
次回から直していくつもりですので、今回は大目に見てください。