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二○四七年三月二日 ファウスト秘密基地 更衣室
「‥ったく、マジやってらんねーっすよ」
叩きつけるようにロッカーを閉め、目つきの悪い若者は吐き捨てるように愚痴をこぼす。乱暴にシャツを脱ぎ捨てながら、不機嫌な様子を隠そうともせず、次第に声を荒げていく。
「一体何なんすかね、あの女。なーにが、我が組織に無能はいらんだ。ならてめえが代わりに戦いやがれってんだ!」
どうやら彼は次回の戦闘に、相棒が出れない事を怒っているようだ。返事こそないものの、更衣室にいる他のメンバーからも同意を示す頷きが返ってくる。
「すまないね、L君。まさか待機を命じられるとは思わなかったから、僕もびっくりしてるんだよ」
「いや、Kさんが悪いんじゃねえっすよ。俺がムカついてんのは、あのお色気姉ちゃんにっすよ」
Kと呼ばれた、人の良さそうな中年男性は、相方である若者Lに詫びを入れる。我々戦闘員は二人一組で戦うのが基本だ。コンビを組む彼等にとって、一方が休む事は負担の増大を表す。いささか場の空気が悪くなり始めたので、私は口を挟むことにした。
「心配ない、LにはMとコンビを組んでもらう。奴等と一人で戦う役は私が引き受けよう」
「マジッすか、兄貴。でも、めっちゃ大変っすよ」
「私は大丈夫だ。それにK、貴方は膝を痛めている。これを機にしっかり治してくれ」
「すまないね、リーダー。僕は契約終了まで後四戦闘だから、なんとかもつと思ったんだが‥」
「気に病む必要はない。我々はチームだ。難局には全員で立ち向かうと誓い合っただろう」
Kは私の手を握ると、本当にありがとうと感謝を込めた。私も力強く握り返し、彼の肩を叩く。それで険しかったLの表情も和らぎ、ぴりぴりした空気も幾分落ち着く。
「‥それにしてもあんなチンケな発電所襲って、どうするつもりなんすかね。俺頭わり―っすけど、こんなんで世界征服しようって程アホでもねえっすよ」
「ハハハ、でも僕等が原発でも襲おうものなら、それこそ洒落にならないよ」
もう問題はないだろう。本部の作戦にケチをつけるのは、いつものストレス発散方法だ。チームをまとめ上げるのもリーダーの努め。それに何より、彼等は家族も同然の存在だ。
「そりゃそうっすけど、一体本部の連中は何考えてんすかね。城ヶ峰の兄貴だって、そう思うっしょ?」
「こら、まだ任務中だぞ。私の事はJと呼べ」
たしなめられたLは、すんませんと答えるも、少しも悪びれた様子はない。まったく、けじめだけはしっかりつけろと言っているのに困ったものだ。だが、社会から居場所をなくした私にとって、ここは大切な場所。守るべき仲間のいる、大切な場所なのだ。
私の名はJ。世界征服を企む秘密結社『ファウスト』の戦闘員だ。
しかし、これは世を忍ぶ仮の姿。真の所属は日本経済界を統べる飛鳥グループの中核企業、飛鳥重工、軍事部兵装開発課、PS開発チーム戦闘モニター班小隊長。それが今の私の肩書である。
このプロジェクトFと呼ばれる極秘開発チームの発足は、二○二○年代より始まる軍需産業界の新しい動きに端を発する。当時の世界情勢は表立った戦争こそなかったものの、列国の関係は悪化の一途をたどり、各国とも軍事開発に余念がなかった。そんな中、万能細胞の研究や遺伝子工学の進歩に伴い、医療分野において強化筋肉繊維の製造技術が確立。これは本来、歩行困難者の治療や義肢開発に役立てられてきたのだが、軍事転用されるに至ったのは時代の常か。ここに次世代型兵器の開発が始まったのだ。
その頃日本では、尖閣諸島を巡る中国との衝突で領有権を奪われて以来、軍事支援を行わなかった米国との関係が急速に悪化。国内で自衛権の拡大が叫ばれる中、二○三○年代よりEU諸国との連携を深め、それは軍事面にも及んでいった。中でも遺伝子工学の最先端を行くドイツと、万能細胞開発技術で最先端を行く日本が技術提携し、装着者の運動機能を劇的に向上させるパワードスーツの開発には、欧州連合軍も期待を寄せていた。
PSに組み込まれた強化筋肉は、機械的なサポートを必要とせず、人体の動きに合わせて筋力を増加させることが可能で、装着者に超人と呼ぶにふさわしい運動能力を与えてくれる。しかも万能細胞より造られる強化筋肉は、培養が容易で安価。開発は実用化に向けて順調に進んで行ったが、実地テストの段階で大きな問題に直面することとなった。
後に過性能事故と呼ばれる最初の運用試験で、PSは期待に違わぬ、いや、それ以上の性能を示した。無助走の垂直跳びで六メートル、百メートルを三秒内に走りきる走力、マウンテンゴリラに匹敵する握力五百キロのパンチ。いずれも常人をはるかに凌駕する結果には、筋断裂や靱帯の損傷など、致命的なレベルでの肉体損耗を伴った。強化筋肉により増強されていても、生身の肉体にかかる負荷を減殺出来るには至らず、披験者三名の内、一名が死亡、二名も回復不能な重傷を負い、ここに来て初めて、スーツの性能に人間の肉体がついていけない事が発覚した。
その結果、人間の許容範囲を超えないレベルでの性能調整が必要となり、モニター試験が重要視されるようになったが、殺人スーツの異名をとるPSのモニター志願者は皆無となり、いかに安全面を保証しても説得力に乏しく、一時は開発中止も危惧された。
この窮地を救ったのが、日本に絶大な影響力を誇る、飛鳥グループ総帥、飛鳥霊仙氏である。氏は開発拠点を日本に移すと、犯罪経歴者などを好待遇で雇い入れ、モニター試験を続行させた。こうして厳重な管理と秘密保持が行われる中、開発は約十年に及ぶ歳月を経て、ついに最終調整の段階を迎えるに至った。しかし最終フェイズである実戦データの収集には、研究室の実験だけでは限度があった。
日本政府にとって、国内でのPS開発は公然の秘密であり、もちろん秘密結社ファウストの正体も知っている。もともと影の総理の異名を持つ、飛鳥グループと政府は蜜月関係にあり、将来日本の基幹産業ともなりえるPS開発には政府も積極的で、隠蔽工作にも全面的に加担していた。
機密漏洩を恐れるプロジェクト上層部は、もみ消しが容易な日本国内で、重要施設への侵入訓練や自衛隊との模擬戦など実践訓練を行っていたが、さすがに外部と接触するにつれ、機密保持にも綻びが生じ始めた。そしてついに一部マスコミによって、正体不明の超人部隊の存在が報じられると、やがてそれは国内に駐留する米軍の耳にも届くこととなった。
米軍との間で秘密協定が結ばれたのは二○四ニ年の事である。同じく秘密裏にPSの開発を進めていた米軍は、日欧共同開発のPSに危惧を抱き、いずれ両者の新兵装が戦争の概念を大きく変えることを予測。どのような政治的駆け引きが行われたかに興味はないが、世間へのPS公表は同時期に行うことなど、幾つかの点で合意した。そして「operation hero’s」、日本名「戦隊作戦」と呼ばれる演習が、日本国内で繰り広げられる様になったのも、この協定に盛り込まれていることだった。
どこのバカの発案か知らぬが、日本で昔から放映されている戦隊シリーズに則り、悪の組織と正義の戦隊に分かれ、軍事演習を行うと言う冗談の様な作戦は、PS同士の戦闘データが欲しい開発部にとっては願ってもない話だった。ましてやその相手が、将来的に相対するとわかっている米国製PSなら望むべくもないだろう。既に存在を噂されていた日欧製PSは、謎の軍事装備を用いるテロリストに立場を変え、かろうじて生きている日米安保条約に基づき、米軍がこれに対処するという構図を作りあげた。
この無茶苦茶な発案は、マスコミ業界を掌握してる飛鳥グループのメディアコントロールによって民衆に浸透。こうして国内で繰り広げられる謎のテロリストと、米軍提供による装備でそれを撃退する戦隊ヒーローの戦いは、今やテレビでも放映される人気シリーズとなり、国民の娯楽となりつつあった。
‥まったく、実に馬鹿げた話である。
「本部より連絡。戦闘モニター班は更衣終了後、医療検査室にて戦闘後検診を受診せよ。定例の戦略会議は二十時より作戦会議室Cにて。戦闘モニター班、開発班各チーム、戦術作成班の各員。及び支援装備班、医療班、広報班の主任以上は参加の事。またマスメディア対策班は、小会議室Bにて‥」
柔らかな女の声が無指向性スピーカーから流れ出し、部屋全体に響き渡る。近頃の音声合成機は優秀で、まるで本物の人間が喋ってるように、感情的で抑揚のある声を出すが、事務的な内容で機械合成音と知れる。
「あー、くそっ。また検査かよー。俺ぁ、注射で血採られんのがマジ嫌なんすけど‥」
‥またか。
半ば呆れながら、私は恒例となりつつあるLのぼやきを聞いていた。検診のたびに聞かされるセリフだが、彼の注射嫌いは子供と同レベルだ。
「おい小僧、いい加減仕事だと割り切ったらどうだ。いちいち注射ぐらいでごねてんじゃねえぞ」
うんざりした口ぶりでLを諌めるのは、古参の戦闘員D。彼もKと同じく四年目、今年で契約満期を迎えるベテランの戦闘員だ。無事に契約終了を迎えるのは今期この二人だけだが、彼等の抜ける穴は大きい。
「そうだよL君、君はまだ先が長い。無事契約終了を迎えるためにも、身体の事は気にかけるべきだ」
「そりゃ、わかっちゃいるんすけどねぇ‥」
それぞれ身体に故障を抱えるベテランに諭されるも、Lはまだ不承不承といった感じが拭えない。しかし彼とて検診の重要性はわかっているはずだ。それにDの言う通り、これは仕事なのだ。
PS装着による戦闘行為後、肉体にどの程度負荷がかかっているか。また米軍製PSの攻撃から、どの程度ダメージを受けているかを分析するため、身体検診を受けるのは我々の義務である。そのデータは、スーツの性能調整やグレードアップ、また補助兵装開発の礎ともなるが、何より重要なのは肉体負荷度の計測である。
そもそも日欧製PSと米軍製PSでは、設計思想からして異なっている。欧州連合軍はPSを、予備役を含む一般兵に普及させ、大部隊で編成することを望んでいる。その為、過性能事故の教訓を踏まえ、PS装着者に肉体面での後遺症が残らない様、健康維持面を最重視している。
これに対して米軍製は、高性能消耗型と言ってもいいだろう。米軍がPS開発に着手したのは、我々より遅れること四年。この埋めがたい開発期間の差は、そのままモニター試験のデータ差となり、安全面での差となって表れている。
米軍も開発当初より肉体負荷の問題に直面したが、我々とは異なる解決方法を選択した。彼等はエリート兵を選抜し、少数精鋭によるPS部隊を目指しており、薬物使用によって装着者そのものを強化することで、より高性能のPSを運用する道を選んだのだ。しかし、いかに強化されていると言っても、装着者の負担は大きい。その為、故障者や精神に変調をきたした者は、我々に比べて遥かに多く、薬物強化によるPS使用期間を一年以内にしなければ、その後の健康被害が甚大となるようだ。
この両者の差は、軍上層部を大いに悩ませている。長期的な運用を視野に入れれば、当然日欧製PSの方が優れているが、いざ戦争となれば、性能の優れたPSを短期でも使用できる方が有利となりかねない。そこで米軍製PS一体に対し、日欧製PS二体での戦闘データを収集し、量産型PSの開発を進めるか、それとも高性能PSの開発へ路線変更するか。すなわち質を選ぶか量を選ぶかの選択を迫られていた。現在のところ、リスクの少ない量産型PSで大部隊を編成する方に評価が傾いていると聞くが、まだ審査過程である以上、結果は神のみぞ知る、だ。
こういった事情から、戦隊作戦において米軍PSを装着する者の契約期間は一年。毎年名を変えた戦隊名で登場し、日本を悪の組織の侵攻から守ると言う任に着く。ちなみに現在は「討伐戦隊バスターレンジャー」だ。
ふざけた話ではあるが、危険を伴う仕事であるにもかかわらず、戦隊に志願する者は後を絶たない。なにしろ謎のテロリストを相手に、危険を顧みず戦うヒーローだ。世間での社会貢献度が評価されるため、知名度アップをはかる芸能関係者や、政治家を志す者、あるいは有名企業の子息なども志願していると聞く。おまけに、将来の夢に正義のヒーローと答える子供まで増えている始末で、そのヒーローが本当の職業として存在するから笑えない。特に我々にとっては、迷惑極まりない話と言えよう。
彼等と違って、表向き謎のテロリストである我々は、当然のことながら大っぴらな人材募集ははかれない。それに実戦訓練において、毎年三割の故障者を出すモニター戦闘員は、いまだ危険な役割である。従ってこの役割に就く者は、日本での開発が始まって以来、変わらず脛に傷持つ者から選ばれる。
政府の協力の元、開発当初は減刑や恩赦を条件に、受刑者からモニター人材を確保していた。しかしスーツの装着によって超人的な身体能力を手に入れるや、直ちに脱走をはかる者が多く、そのような輩相手では秘密保持が難しいことも相まって、この徴用制度は廃止。人材確保には、社会的に居場所をなくした訳ありの者が選ばれるようになった。飛鳥グループは、彼等に過去の経歴の抹消と、新しい顔と身分。そしてモニター試験によって得られる多額の報酬を約束。これによって選ばれた人材は、新しい人生を手に入れるため、四年間のモニター試験に参画すると言う悪魔との契約書にサインをするのだった。
ここに集められたメンバーは、何らかの事情を持って社会から居場所をなくし、新たな人生を求めている者達。そして私もまた、彼等同様、社会に居場所をなくした者の一人であった。
「あーあ、あのお色気姉ちゃんのせいで、次はマジ大変っすねぇ」
「お前、まだ言ってんのかよ。別にいいじゃねえか、Kの旦那にゃ悪いが、その分俺達の報酬が増えるんだぜ」
ぼやき止まないLに、スキンヘッドの巨漢、Rが応じる。金が目当ての彼にとって、今回の措置はリスクに応じたチャンスと映るのだろう。八百長疑惑によってプロ野球界を追放された彼は、これが大金を稼ぐ最後のチャンスと考えている。
「ふっ、あの麗しのシニョリーナが一緒に戦ってくれるなら、私も嬉しいんですがねぇ」
気取った口調のハンサムSは、今もホスト時代の名残か、美人の事をお嬢さんと呼ぶ。もっとも彼が他に知っているイタリア語と言えば、チャオとヴォン・ジョルノとパスタくらいであろう。やくざの女に手を出し、表社会を歩けなくなった彼は、何より新しい身分を欲している。
「アホ言うなや、あんなん組織に雇われたキャンギャルやろ。テレビの撮影以外で出るかいや」
関西弁のきつい角刈りのTは、いかにも面白くなさそうに吐き捨てる。遠洋漁業に従事していた彼にとって、陸の生活は肌に合わないのか。会社の倒産で負債を背負わなければ、こんな所にいることもなかったであろう。ここに来てまだ日の浅い彼は、いまだテレビ撮影に抵抗があるようだ。
Tの言う通り、先程クイーン・イリーヤと演じた茶番は、広報班がテレビの放映用に撮影したものだ。毎週米軍側の制作スタッフと共同でテレビ番組に仕立て上げているのだが、もちろん放映は次回の目標を襲撃した後となる。毎週の番組でテロリストの襲撃場所が予告されてしまっては、本末転倒もいい所だ。
ただし、彼の言うことには一つ間違いがある。確かにクイーン・イリーヤを演じる女性が戦いの場に赴くことはないが、女幹部であるのは役目の上の事ではない。彼女はキャンギャルなどではなく、このプロジェクトの幹部スタッフなのだ。
そして私がここにいるのも彼女がきっかけだった。全ては三年前のあの日。彼女との出会いが、私の運命を変えたのだ。
かつての私は野心に燃える男だった。金と権力を欲し、人の上に立つことを望んでいた。自分にはそれに見合うだけの実力があり、運にも恵まれている。少なくとも、当時はそう思っていた。
東大経済学部を卒業後、在学中に知り合った大手証券会社の重役令嬢と結婚。日本で一、二を争う藤岡証券入社後も優秀な業績を示し、会社からも有望株と目され、出世の道は約束されていた。全てが順調な私に怖いものなどなく、未来は薔薇色に輝いているはずだった。
投資の話を持ちかけられたのは、そんな折だった。もちろん危険を伴う話であったが、成功した場合の見返りはそれ以上に大きく、しかも話を持ってきたのは上司にあたる男。彼は弱冠三十八歳にして、重役まで上り詰めた、私の目標でもあった。
人生の好機をものにできず、大物になれるものなどいない。もちろん、共同投資に踏み切ったのは、慎重に投資内容を検討し、リスクマネジメントも講じたうえであった。これが理想通りの結果を出せば、私の名声はさらに高まり、社内での評価も高くなる。だが、それも所詮、将来の為のワンステップに過ぎない。傲慢な私はそのような考えで投資に踏み切ったのだった。
不正が発覚したのは、それから間もなくであった。私達の投資した会社が、悪名高き東京地検特捜部に摘発され、粉飾決算が発覚。その時私はニューヨークに出張中で、ニュースを聞くや、慌てて日本に舞い戻った。
だが、全ては信用できる人間を見誤った時点で終わっていたのだ。リスクマネジメントによって、最小限に食い止められるはずの被害は膨大に膨れ上がっており、しかも共同出資のはずが、私の単独出資。それも会社の金を勝手に使ってのものとなっていた。上司に裏切られたと気付いた時には手遅れで、しかも明らかに出資するはずのない債券にまで手を出したことになっている。裏切り者は一人ではなかった。妻が上司と結託して、私に全ての罪をなすりつけるため動いていたのだ。
私を陥れるための罠は、もうこの時終わりの段階を迎えていた。今にして思えば、急な海外出張もその一環だったのであろう。私は会社の金を横領して、無謀な投資を行ったことになっており、それを証明する証拠は十分そろっていた。冤罪であることを証明するには状況が不利で、何より信じていた者に裏切られたことが、私を絶望のどん底に落としていた。負け犬の人生を甘受できようはずもなく、逮捕は時間の問題となった段階で、私は死を決意した。
死に場所を信州の山奥と決めたのは、最後に雄大な北アルプスの雄姿を目に焼き付けておきたかったからか。都会の道路や自宅で死に姿をさらすなど、プライドが許さなかった。それに私の死体が見つからなければ、上司に疑いの目が向く可能性も考慮した。もっとも死んだ後ではどうでもいいことだが、最後に僅かばかりの抵抗の気持ちがあったのかもしれない。
名も知れぬホテルに宿をとり、人生最後の酒を階下のバーで嗜んでいるた時、彼女は現れた。
登山客が多い中、場違いとも言える紺のビジネススーツ姿の若い女性は、客達の目を惹いたであろう。彼女はきびきびとした足取りでカウンターに歩み来ると、私の隣に腰を下ろした。
「悪いが、一人で呑みたいんだ。他を当たってくれないか」
「お気持ちはお察しますが、是非聞いて頂きたい話がございます、‥‥様」
本名で呼ばれた私は、少なからぬ動揺を覚えた。ここに来ることは誰にも告げてないし、足がつかぬよう、ホテルには偽名で申し込んである。もしや当局の手の者かと思い立ち、この時初めて彼女に目を向けた。
野暮ったいスーツの上からでも、スタイルの良さがうかがえる美女は、静かに私を見つめていた。細面の美貌はさぞや男の目を惹くであろうが、その時の私にはどうでもいいことだった。だが、どこか憂いを帯びた瞳が印象に残っている。
彼女は警察関係の者ではない旨を告げ、私の事はアイとお呼びください、と申し出た。
「愛?随分可愛いらしい名前だな」
「いいえ、アルファベットのIです。便宜上の名前とお考えください」
「ふん、まるで暗号名だな。だが、何も聞く気はない、失せな」
「貴方が苦境に立たされていることは存じております。なぜここに赴いたかも。ですが、我々の話を聞いて、是非お考え直し頂きたく存じます」
柔らかな響きを持つ女の口調は、あくまで丁寧だったが、この言葉は癇に障った。私の苦況が分かるだと?お前に一体何が分かると言うのだ?
話を促したのは、彼女の言うことに興味を持ったわけでも、その美貌に迷ったからでもなかった。ただ、この女に無駄足を踏ませてやろうと言う、意地の悪い考えからだった。しかし淡々と語る女の話は、私の予想にもつかぬ内容だった。それは藤岡証券の機密漏洩を望むものでも、保有する株の譲渡を求めるものでも、死後、臓器をくれと言うものではなく、もっと悪かった。悪い冗談だとしても、いささか度が過ぎていた。
ふざけるな、と一蹴するも、彼女は諦めなかった。真摯な口調で実に根気良く説得にあたるも、私は次第に怒りを募らせていった。人生に敗れ最後の時を臨むにあたり、突然現れて私の苦境をわかると言ったこの女は、子供向けの戦隊ものの悪役に扮し、テロリストになれと言いだしたのだ。
私はこの女を傷つけねば気が済まなかった。その澄ました顔を苦渋で歪めてやりたかった。だから、一晩ベッドを共にするなら考えてやろう、と言った時、表情を強張らせたのを見て、ざまあみろと思ったものだ。
茶番に付き合うのもうんざりで席を立つと、彼女は短く、わかりましたと答えた。その表情は努めて冷静を装うとしていたが、目は悲しげだった。しかし怒りに駆られた私は、もはや冷静ではなかった。
その晩、私は彼女を抱いた。優しさなど微塵も見せず、ただ己の欲望を満たすためだけの乱暴な行為だった。
事が済んでも、私の心はちっとも満たされなかった。それどころか、自分の情けなさに涙が出る始末だった。死を覚悟して自暴自棄になったとはいえ、こんな八つ当たりにも等しい事を見知らぬ女にするなど、男の風上にも置けない行為だ。
だが、そんな私を彼女は優しく抱きしめた。散々ひどい目にあわせたにもかかわらず、彼女の瞳には愛情が宿っていた。
「お願い、命を大切にして。貴方には人生をやり直すチャンスがあるの‥」
その言葉は、私の身を案じる優しさに溢れていた。それは仕事を成功させるためのものではなく、一人の人間としての心がこもっていた。途端、自分のあまりの惨めさに私は泣き崩れた。女の胸でおいおいと子供の様に泣きくれた。信じていた者に裏切られ、絶望しかなかった心に彼女の優しさは沁み渡った。絶望の闇に閉ざされ、死ぬしかなかった未来に一縷の光が宿り、私はそれにすがりたいと思った。
‥生きよう。
涙にくれながら、私は心の中で誓った。彼女が灯してくれた希望の輝きは、暖かい光となって胸の中に宿っている。この尊い灯火を消すことは、彼女の為にもできない。
こうして野心家だった私は死に、新たに生まれ変わった。私に生きる意義を与えてくれたIに。いや、クイーン・イリーヤに報いるために!
「ピピッ、メールの着信、一件を確認しました」
イヤフォン型の携帯端末がメールの着信を告げ、私を回想から引き戻す。本部に傍受されないよう、秘匿回線を通じて連絡してくる心当たりは一人しかいない。他者から見えぬよう、非透過型のスクリーンに立体結像画像を投影させると、彼女からのメッセージが表示される。
『雅哉さん、ごめんなさい。勝手にKさんの待機を命じたりして御迷惑でしたよね。でも、Kさんの膝の状態を考えると、どうしても休ませばいけなかったと思います。戦闘評価についての責任は私が取りますから、どうか無理だけはしないでくださいね。”I”』
相変わらず心配性な彼女に、顔が綻ぶのを覚える。もう二度と笑うこともないと思っていた私に笑顔が戻ったのも、彼女の優しさのおかげだ。しかし彼女との関係は、他のメンバー達の知らないことだ。故に音声入力ではなく、光学表示式入力装置を投影させ、手早く返事を打ちこむ。
『君は何も心配しなくていい。チームの事は私に任せたまえ。‥君の笑顔が恋しい。”J”』
米軍PSとの戦闘結果は、指揮官である彼女の評価にもつながる。もしKの不在で敵に後れをとる様な事があれば、彼女の責任となりかねない。むろん、私が戦闘リーダーとして前線に立つ以上、そんな結果を出させるつもりはない。チームの皆にも奮起を促してもらわねばならないだろう。
「よし、この後予定のある者はいるか?」
大体私がこう呼び掛ける時の意味を悟って、仲間からは期待に満ちた笑みが返ってくる。
「次回の戦闘で、我々の不利は否めない。これに打ち勝つためには作戦が大事となるだろう。そこで戦略会議終了後、リーダー権限でミーティングを招集する。全員、居酒屋『権兵衛』に集合。今夜は私の奢りだ」
「おー、さすがリーダー、太っ腹!」
「マジっすか、兄貴、ゴチになります!」
賑わう彼等を見ながら、私は充足感を覚えていた。今の私には共に戦い守るべき仲間と、心を捧げた女性がいる。野心に溢れていたかつての私はもういない。ここにいるのは、組織より城ヶ峰雅哉と言う名を与えられた、ただの男にすぎない。だが、その境遇には何の不満もなかった。