命の電話
疲れた……。
それは僕の口癖のような物で、決して本当に疲れている訳ではなかった。
けれど、今は本当に疲れている……。
疲れ切ってしまっているのだ。
心も身体も、もう何もしたくないと僕に訴えかけている。
こんな気持ちは、体験した事の無い人には理解出来ないだろうな……。
最近ではインターネットの自殺サイトを見て、知らない者同士が心中する事件が多くなっているらしいが、そんなのは僕に言わせればナンセンスだ。
見ず知らずの人間に苦しみを分かち合う事など出来るものか。
自分がどれだけ傷付き、疲弊しているかは、自分自身にしか解らない物なのだ。
ましてや、一人で死ぬのが嫌だから、みんな仲良く死にましょうって?
……あまりにも思考が幼稚で下らな過ぎる。
第一、死体を片付ける人の立場に立って考えてみれば、飛び降りたり、電車に飛び込んだり、首を吊ったり……どれも迷惑な事この上ない。
遺族だって、そんな物の確認をさせられるのは、たまらないだろうに。
僕には、きちんとしたプランがある。
死ぬなら雪山だ。
何しろ発見された時、遺体が一番綺麗だから……。
そんな事を考えていた。
しかし同様の事を考える人は他にもいるようで、今、僕の目の前には一本の立て札が立っている。
雪がかかっていて全てを読む事は出来ないが、
『止めはしません。 ただ、あなたの考えを実行する前に一度だけ電話をかけて下さい。 話を聞かせて下さい』
そんな一文が読み取れた。
そこだけ読めば充分だ。
それで他に何が書いてあるかは判る。
どういう目的で立てられた物なのか判る。
「『止めはしません』 か……」
なら、どうして電話をかけさせる必要があるんだ?
そのまま静かに死なせてやればいいじゃないか。
話なんて聞いて貰ったところで、何が変わる訳でもないだろうに……。
僕は心の中で皮肉を言うと、用意して来た酒を呑み始めた。
そのまま寝袋に入って眠ってしまえればいいのだが、いかんせん雪山は寒い。
結果的には体温が低下し、血液が凍結して死ぬ事に変わりは無いのだが、せめて死ぬ時くらい楽に死にたいじゃないか。
今まで散々苦しんで来たんだから……と、自分自身に言い訳めいた事を言いながら、僕は寝袋に身体を突っ込み、チビチビと酒を呑み続けた。
呑みながら、ふと考えた。
こういった立て札というのは、大抵、断崖絶壁の傍にある物じゃないか?
それが、こんな雪山になんて……。
それとも、ここはそんなに自殺志願者が多く来る場所なのだろうか?
「……話を聞かせて下さい、か」
考えてみれば、今まで僕の話しをちゃんと聞いてくれた人などいただろうか?
誰も彼も、みんな僕の相手などまともにはしてくれなかった……。
「いや、一人だけ……」
そう……彼女だけは僕を一人の人間として見てくれていた。
馬鹿にもせず、僕の夢の話を真剣に聞いてくれた……。
けれど、その彼女ももういない。
何故なら、彼女は僕がこれから行こうとしている場所にいるからだ。
「向こうで逢えるかな……?」
多分、無理だろうと思った。
宗教の類は信じない僕だが、限りある生を全うした者と、自ら命を絶つ者の価値が同等の筈が無い。
好きだった……。
恐らく人生であれ程真剣になった事など、後にも先にもあの頃だけだろう。
若さも手伝ったろう、周囲に何を言われても気にならなかった。
そんな僕も、もう三十歳になったんだな……。
「君は、あの時のまま……十六歳のままで時を止めてしまったんだよね……」
不意に涙が出て来た。
悲しいとか、寂しいとか……そういった感情からの物ではない。
ただ涙が出て来た……。
僕は寝袋から出ると、引き寄せられるように電話に近付いていた。
死ぬ覚悟に揺らぎは無い。
ただ、聞いて欲しいと思った。
僕が必死に生きようとしていた事を。
それでも、どうしても……どうしても駄目だったんだと。
払い除けた雪の下から顔を出した電話を見て、僕は驚いた。
何と、十円玉と百円玉しか使えないタイプの電話なのだ。
悴む手でポケットを探り、酒を買った時にお釣りでもらった百三十円を探り当てた。
これが今の僕の全財産だ。
立て札に書かれている番号を雪を払って読み取り、硬貨を投入して番号を押した。
何度目かの呼び出し音の後、雑音混じりに相手の声が聞こえた。
何だか酷く遠いようで、相手の声がよく聞き取れない。
特に話す内容など考えていなかった僕は、やはりそのまま電話を切ってしまおうかと考えたのだが、さすがにそれは失礼だと思い直し、とりあえず声を出した。
「あの……もしもし?」
『はい?』
僕は一瞬、自分の耳がおかしくなってしまったのかと思った。
だって、僕は立て札に書かれた番号にかけたんだ。
なのに……。
『ごめんなさい、少し電話が遠いみたいなんです。 もう少し大きな声でお願い出来ますか?』
間違い無い……間違えようも無かった。
懐かしい声……一番聞きたくて、でも聞く事の出来なくなってしまった声だ……。
その時、小さく 『ビー』 っと音がして、僕は慌てて百円玉を入れた。
そうか、遠くへ電話する時には小銭がたくさん必要だったんだ。
テレフォンカードになり、そして携帯電話へと移り変わった時代、僕はそんな事などすっかり忘れてしまっていた。
「……もしもし、僕だよ。 判るかな?」
『あ、なあんだあ。 誰かと思っちゃったじゃない』
楽しそうに君が笑った。
そうだ……君はいつも楽しそうだったね……。
『どうしたの? 公衆電話からだよね? 何か忘れ物でもしたの?』
「え? あ、いや、そうじゃないんだ。 ただ、君の声が聞きたくなってね」
『やだなあ、そんな気障な台詞言ったりするなんて。 似合わないよ』
彼女は、また笑った。
そうだ……。
僕は、いつでも彼女を笑わせたくて、わざとボケてみせたりしてたんだっけ……。
「そんなに笑うなよ。 本当に声が聞きたかったんだから」
『うん……でもそうだよね、明日から一週間は会えなくなっちゃうし。 あ、それでも電話は出来ると思うから安心してね』
明日から一週間……? 僕はハっとした。
そうなのか……この電話は、あの日に繋がってるんだ!
彼女の一家が旅行に出かける前日、僕は彼女の家へ遊びに行った。
翌日、一家の乗った飛行機は落ちた……。
『お土産、たくさん買って来るから期待しててね』
「うん……。 楽しみにしてるよ……」
でも、そのお土産を僕は受け取る事は出来ない……。
それどころか、こうして話す事さえ出来なくなってしまうんだ……。
『お父さんね、あなたの事気に入ったみたいよ? 少し大人し過ぎるけど、真面目そうな所がいいって』
「そう? そりゃあ良かった。 内心、殴られたらどうしようかと思ってドキドキしてたんだ」
『そんな事しないわよ。 何たって、私が選んだ人ですからね』
こんな僕を、君は選んでくれたんだよね……。
こんな情けない僕を……君は……。
そこで再び 『ビー』 という音が聞こえた。
百円入れたってのに、こんなにすぐに鳴ってしまうのか!
僕は残っていた十円玉二枚を続け様に入れようとして、一枚を落としてしまった。
ちくしょう! 指が上手く動いてくれない!
受話器を耳に押し当てながら、僕は落とした十円玉を必死に探した。
無い……無い……どこにも見当たらない!
雪の中に埋もれてしまって……どの辺りに落ちたんだ!?
探しながら、僕はある事を考えていた。
もしも彼女が旅行に行くのを止められたら……。
いや、そんな馬鹿な事がある筈が無い。
十四年も前の出来事を、変えられる筈が……。
でも、もしかしたら……!
『……はーい。 ごめんね、お母さんが呼んでるの。 そろそろ切らなきゃ』
「あ、ちょっと待って! 僕は君に……!」
『続きは帰って来てからね。 それじゃ、また……大好きだよ』
「待ってくれ! 僕は君に言わなきゃならない事が……行っちゃ駄目だ! 明日は絶対に行かないでくれっ!」
カチャリと音がして、通話は突然切れた。
受話器からは、もう何も聞こえて来ない。
僕の言葉は彼女に届いただろうか……?
僕は受話器をフックに戻すと、落とした十円玉を探した。
もう一度かけるんだ……何としても彼女を助けなきゃ!
雪の冷たさも感じないくらい僕は必死になっていた。
汗が雪の上にポタポタと落ち、小さな窪みをいくつも作った。
やっと見つけた十円玉を入れると、僕はもう一度、立て札の番号へ電話をかけた。
頼む、繋がってくれ!
しかし、彼女は素直に僕の言う通りにしてくれるだろうか?
いや、例え僕の言う事を彼女が信じてくれたとしても、 彼女の両親がそれを信じてくれるとは思えなかった。
なら、せめて彼女だけでも……そうすれば、またあの日からやり直せるかもしれない!
けれど……。
『はい、命の電話です。 どんな事でも結構です、あなたのお話を聞かせて下さい』
僕の全身から、一気に力が抜けて行った。
受話器から聞こえて来たのは彼女の声ではなかった。
僕はいつでもこうなんだ……。
いつでも肝心な時に必ず失敗してしまう……。
もう彼女は戻っては来ないんだ……永遠に……。
そんな事は解っていた筈なのに、もしかしたらと微かな希望を持ってしまった。
僕は、もう話しをするのも面倒になって、受話器をフックに戻す事もせず、寝袋に入って横になった。
もういいんだ……もう何も未練なんて無い……。
旅立つのに、何の思い残しも……無い……。
『……ご利用、ありがとうございました』
降りしきる雪の中、立て看板も電話も、その姿を白の中へと消して……。