酒は飲む前こそ楽しめ
とある日、川沿いの遊歩道を一人の男が歩いていた。
実に、実に珍妙な事態である。
男が『その時、その時間にそこにいること』、それこそが摩訶不思議であるのだ。
何故ならば、男は大の酒好き。
尚且つ空は夕暮れで、男のスーツは着崩れている、つまり彼は仕事終わりなのだ。
であれば本来、彼は風のように早く帰宅し、これまた風のように早く施錠した直後から飲酒を始めていなれば、物事の道理がつかぬと言うものである。
とはいえ、男も自身の異常には気付いていた。
だが、それは全て彼の計算によるものだった。
実の所、男は敢えて酒に辿り着くまでの道のりを困難にし、その過程を楽しんでいたのだ。
まず第一歩として、男は歩く事を選んだ。
運動による疲れと、少しずつ消費されゆく自身の水分とで、飲酒前のコンディションを最高潮とするためだ。
と、そのように酒のためなら何でもするこの男だが、単なる阿呆ではなかった。
何せ、自身の家にはせいぜい1kmも歩けば辿り着ける……これが何を意味するか、お分かりだろうか?
要は過度の運動によって飲酒時に水分が不足してしまわぬよう、男は自分の体力と距離とを計算した上でこの道を選んでいた、ということなのである。
そう、いくら酒をより美味くするためと言えど、その結果行き過ぎた行為によって倒れてしまっては元も子もない。
楽しく『酒に呑まれてしまう』未来を描いているからこそ、その前にはより冷静な思考で、より冷静に行動すべきだと、彼はそう考えていたのだ。
そうして歩く事暫し、漸く遠目にも男の家が見えてきた。
……だと言うのに、直後。
愚かにも男はあるコンビニへと吸い込まれて行った。
決して近所とは言えぬ距離だと言うのに。
家の付近にもまだスーパーやコンビニはあるというのに、だ。
もしや、とうとう欲望に抗えなくなってしまったのだろうか?
とはいえ、彼の酒好きは紛れもない事実。
その行動に一定の理解は出来るが、しかしそれは最悪手と言うものだろう。
歩けば酔いは冷め、酒は緩くなる。
しかもそればかりか、半端に刺激された〝酒欲〟が「もっと、もっと」と更なるアルコールを要求すれば、深酒や二日酔いの危険がある。
つまり、今の状況は誇張抜きで男にとって絶体絶命、彼は断崖絶壁に立たされていたのだ。
……そう、考えていたが。
どうやらそれは要らぬ心配、杞憂だったようだ。
コンビニに入った男は、カゴも持たなければ冷蔵庫の扉を開ける事も無かった。
ただそこに立ち、ただただじっくりと商品を眺める。
今現在、彼はそれだけに時を費やしていたのだ。
そして、それは男の第二の策略。
『飲酒前のイメージトレーニング』であった。
実はこの男、そうして肴の、酒の種類を決めつつ。
加えて、想像の中で既に酒を楽しんでもいたのである。
そんな彼の視線は今、ビールコーナーにあった。
ずらりと並んだ缶の中には、力強い喉越しがあるもの、素晴らしい余韻のもの、彼の好きな辛口と呼ばれるものと、様々なビールがある。
すると両の目は唐突にも閉じられ、彼の思考は脳裏に『自宅の居間』を作り出していった。
そこにはこれでもかと冷えたビールが何種類も、かつ大量に置かれている。
肴はまだだ、敢えて用意しない。何を何と合わせるべきか、熟考せねばならないからだ。
だが次の瞬間、男は微笑みを浮かべる。
早くも組み合わせが三つ程、決まったからだ。
まず一杯目となる、『力強い喉越しがあるもの』には揚げ物を。
二杯目の『素晴らしい余韻のもの』にはつまみ菓子の詰め合わせを。
最後の『彼の好きな辛口と呼ばれるもの』には、締めである濃い味のラーメンを添えた。
当然、これは雑に選ばれたのではない。
一つ目には揚げ物にも負けぬ力強さを。
二つ目は友をつまみ菓子とする事で口内の水分を意図的に奪い、余韻を更なる高みへ導こうと。
三つ目は……失礼、そこだけは単に彼の好みだ。
だがしかし、男にとってはそれが至高であった。
だからこそ、二杯目で本来ラストに相応しい余韻を楽しみ。にも関わらず、濃い味のラーメンで後々になってから全て上書きし。
だがそれでいて、最後の最後に自身の最も好みな、辛口のビールで再度爪痕を残す……そう、全てを投げうってでも、最中に崩壊があろうと、それこそが彼の辿り着いた最高到達点であるのだから。
と、そうして男がイメージトレーニングを続けていると、不意に背後から複数の話し声が聞こえて来た。
脳裏には自身ただ一人しか浮かばぬこの男であったが。実を言えば、皆で集まって飲む酒もまた嫌いではない、むしろ好きだと思っていた。
空腹、疲労、それもまた酒を美味くする一つの調味料ではあるが。『気の置けない友人達』、それもまた酒の味をよくするものの一つだと、彼は知っていたのだから。
だがそれはそれとして、その声は男と同様このコンビニを訪れた客のものであろう。
ならば彼等の邪魔となる前に、妄想の宅飲みは一度中断するとしようか。
本当は、もう少しこの空間にいたかったのだが……などと思いつつも。
男は目を開けると、レジに向かい歩き始めた。
流石にこの、『ハイレベルな冷やかし』だけでは店に申し訳ないと思っているのだろう。先程思い浮かべたつまみ菓子の袋をひとつまみして。
「ありがとうございました〜……ねえ斉藤さん、なんかあの人変じゃなかったですか?さっきからずっとビールの前でニヤニヤしてましたけど……」
「ああ、あの人ね。最近週末になるとよく来るのよ。
でも大丈夫よ、確かにちょっと不気味だけど別に何もしやしないし、すぐ慣れるわ」
コンビニを出、更に歩き進めた男。
今、彼の目前には近所のスーパーがあった。
とうとう、辿り着いたのだ。ここで酒を選び、購入するための謂わば本番の地……正しくは聖地へと。
男は目を閉じ、一つ大きく息を吐くと、ゆっくりと聖地への一歩を踏み出して行った。
しかし、踏み入ったその先には何と本来あるべき食材や日用品なぞではなく。
金銀財宝、宝の山がそこにはあった。
だがそれは全て偽り、男が創造したものだ。
彼のイメージトレーニングはまだ終わってはいなかったのだ。
否、終わりなどない。
『酒を呑む』とは人生と同義、なればいつまでも修行を続け、未来永劫、どこまでも自らを磨きあげてみせよう。彼はそう考えるような男であるのだから。
そうして彼の脳裏はまた、『酒のためだけにある世界』を作り上げてゆき……そのまま飲み物、酒類のあるコーナーに歩み寄った瞬間。
彼は自身のイマジネーションに驚かされることとなった。
まず真っ先にその目に飛び込んで来たのは、卓上で彼を待つ沢山の日本酒と、それを囲む肴の数々。
しかし、それは何と言うべきだろう……妙であった。
確かに日本酒と相性が良いとされる、チーズや刺身なども顔を見せてはいたが。
中央に置かれているのは中華料理や唐揚げ、濃い味のがっつりとした料理だ。
そういったもの達は普通なら、紹興酒やビールと合わせるのが定石であるはずなのに……とは、言ったものの。
その異質もまた、男の計算によるものだった。
男は〝ある話〟を聞いたことがあった。
それは彼が何となしに行ってみた、とある日本酒の入門資格を入手するための講義でのことだ。
『日本酒は原料が米、つまり米と合うものならばどれと合わせても美味い』との話を。
そう、事の真相とはこうだ。
彼はその言葉を信じ、たかどうかは分からないが、とにかく。真偽を確かめるためと脳裏に浮かべた酒席にそのような料理を用意した、という事なのである。
言い換えれば白首窮経、愛する酒のためならば何処までも学びを続けようという意思の表れであろう。
その事を知り、自身の想像に大変満足した男はまた別の卓へと歩みを進めて行った。
すると、そこで男は宇宙を見た。
ジュースやその他、数々のソフトドリンクと共にある焼酎の中に。彼は文字通り広大に広がる大宇宙を見出したのだ。
焼酎。それは一言では決して表せない代物だ。
甲類、乙類こと本格焼酎、そしてその二つを混ぜた混和焼酎と種も様々ある。
中でも本格焼酎は殊更だ。一度の蒸留のみで仕上げ、素材の風味や香りがたっぷりと詰め込まれるその酒は……何と、原料の違いによって四十九種もの異なる本格焼酎に変化するそうだ。
ちなみに、男が過去に飲んだことのあるものを並べてみると。有名所で米、芋、麦、泡盛などなど。他にはにんじん焼酎や、ニンニク焼酎なんかも口にした記憶がある。
が、まだまだ十種にも満たぬそれだけだ。
まあとにかく、これで『本格焼酎への道』がどれだけの広さかは分かって頂けた事だろう。
……にも関わらず、それだけには留まらないのがこの焼酎というものなのだが。
そうして数々の焼酎に一通り目を通した男の視線は、次にソフトドリンクへと向けられた。
そう、これこそが大地のように広かった焼酎の世界を更に広大とし、宇宙とすら比喩させる鍵となるもの達なのだ。
焼酎には水割り、お湯割り、お茶割り、ロックと様々な飲み方や割り方が存在するが……それは店での話、自宅であれば制約など何もない。
飲み口の良さで過度な飲酒になることさえ気を付ければ、自身の好みなジュースで割っても良し。
高カフェインのものでなければコーヒーで割っても良し。ものによっては牛乳だって案外いける。
と、このように多少の注意点はあれど、それだけ守ればあとは全てが自由、フリーダムかつ無法地帯なのだ。このソフトドリンク達がそこにいれば。
彼等は過言ではなく、我々に無限大の可能性を、希望を、与えてくれる偉大な存在であるのだから……
今の今まで、驚嘆の嵐に身を任せていたせいだろうか。男がゴクリと喉を鳴らし、唾を飲み込むのが見えた。
流石の彼にも、とうとう限界がやって来たのだ。
まあ何しろ、あれだけ過酷なイメージトレーニングを続けていたのだ。酒好きな彼がここで音を上げるというのは仕方ないというか、むしろ自然の摂理だと言えよう。
すると自身もここが上限だと悟ったのか、男は踵を返し、今度は足早に帰路を辿り始めた。
そんな彼の後姿はまるで、『夕飯を楽しみに家路を急ぐ小学生』、それそのものであった。
急ぐあまりか、それとも過度なトレーニングによるものだろうか。
肝心要の、酒の購入さえも忘れて。
しかし、こと酒に関しては色々な意味で情熱的なこの男だ。転んでもただでは起きない。
彼は帰宅した直後、家に酒が無いことに気が付くと。落胆するよりも早くスーパーへと舞い戻ったのである。
またその際、『もっともっと酒を美味く呑むために、スーパーに着いたらもう一度、ただし今度は極限の極限までイメージトレーニングをするべきだろうか』と、却って喜んでいたのは言うまでもない。
お読みいただきありがとうございます✨
また別の自作でもお会いできたら嬉しいです( ´∀`)マタネ




