パンケーキが焼けないなら、婚約破棄させていただきますわ!
――その日、ルクレール家の末娘フレアリスは、いつものように完璧だった。
ドレスの裾は燃えるような赤。
金糸の髪は陽光を反射して、まるで揺らめく炎のよう。
彼女の笑みを見た男たちは、みな一様に息を呑んだ。
……ただし、その笑顔の裏に「小麦粉と塩の比率」を計算しているとは、誰も思わなかったが。
「フレアリス嬢。私は――あなたとの婚約を破棄する」
婚約者であるアレクシス=ド=メルヴァン伯爵家の嫡子が、居並ぶ貴族の前で声高に宣言した。
茶会のざわめきが一瞬で止む。
カップの持ち手が微かに震え、侍女たちは固まる。
空気は、氷のように張りつめた。
しかし、当の本人であるフレアリス=ヴァン=ルクレールは――涼しい顔で紅茶を啜った。
「……まぁ、美味しい。今日のブレンドは、なかなか良い火加減ですわね」
「っ……!? フ、フレアリス嬢! 今、私は重大な話を――!」
「聞こえましたわ。婚約破棄、ですって? 結構なことですわね」
彼女は微笑を崩さぬまま、そっとカップをソーサーに戻す。
その仕草すら、炎が舞うように優雅だった。
「では、ついでに申し上げますけれど――
この紅茶、あなたの家の倉庫から横流しされていた“二級品”ですわ。
お味は上品ですが、香りの抜けが早いの。……次はもっと誠実な商人を選ぶことね、アレクシス様」
一拍の沈黙。
次の瞬間、会場がざわめいた。
「……フレアリス嬢。君との婚約を破棄する理由を、話しておこう」
アレクシスは咳払いを一つ。
周囲の視線が集まる中、彼は声を張った。
「君の家――ルクレール家は、すでに没落している。
貴族と呼ぶには資産も人脈も乏しい。
そして何より、君は……少々常識に欠ける」
「まあ、まあ! 常識に欠ける、ですって?」
フレアリスはぱちりと瞬きをした。
「どういう意味かしら。私は毎朝、召使いにパンを投げつけるのをやめておりますのよ?」
「……なぜ投げていたんだい!?」
「焼き加減の確認ですわ。貴族の舌に合わない焦げ具合なら、その場で教育しないと」
(きっぱり)
会場に小さな悲鳴と笑いが漏れる。
アレクシスは顔を引きつらせた。
「……君の教育が問題なのだ! 侍女たちが何人辞めたか知っているか!」
「もちろん。三人ですわ。うち二人は私の料理を盗み食いして逃げました」
「盗み……? あの、何を作っていたんだ?」
「煮詰めた焦熱蜂蜜の炎ケーキですわ。一口で舌が焼けるほどの甘さが評判でしたのよ」
「評判……どこで!?」
「家の裏庭のカラスたちに、ですわ」
沈黙――どこかでカップが落ち、甲高い音を立てた。
「……というわけで、僕は新たに婚約者を迎えることにした」
アレクシスが隣に立つ令嬢の手を取る。
淡い桃色のドレスに、宝石のきらめき。
伯爵家の娘――マリアンヌ=ド=ロートリンゲン。
その名が告げられると、周囲の空気が一層ざわめいた。
「ロートリンゲン伯爵家……あの名門の!」
「家格がまるで違う……」
貴族たちの囁きが波のように広がる。
アレクシスは誇らしげに顎を上げた。
「フレアリス嬢、理解してくれるね?
愛ではなく、家のための婚約だ。貴族として当然の選択だろう?」
フレアリスは静かに紅茶を啜った。
そのまま、そっとカップを置く。
――カチン。
完璧な角度で音が鳴る。
「……そうですの。よく理解いたしましたわ、アレクシス様」
「わかってくれるか」
安堵の笑みを浮かべた彼の次の瞬間、
「――ですが、私の方からも婚約を破棄いたしますわ。」
「…………は?」
「貴方のようにパンケーキひとつ満足に焼けない方とは、未来が見えませんもの」
「なっ……!? な、なにを言っているんだ!」
「ええ、事実ですわ。先日の午後、私の厨房に忍び込んでパンケーキを焼かれましたわね?
焦がしておりましたの。あの香ばしい炭パンを、マリアンヌ様のために?」
「そ、それは……っ、まさか見ていたのか!?」
「ええ。煙が三階まで届きましたもの」
フレアリスは微笑む。
「伯爵家の娘を妻に迎えるというのなら、まず焦げの匂いを隠す魔法でも身につけなさいませ。
――ロートリンゲンの食卓は、炭ではありませんのよ?」
沈黙。
貴族たちのざわめき。
どこかで「確かに焦げ臭かった」と囁く声。
マリアンヌの頬が赤くなり、アレクシスの顔は青ざめた。
「私、没落貴族ですけれど――炎の使い手ですの。
火加減ひとつ、貴族の矜持ひとつ。どちらも焦がさずに済む女ですわ」
彼女はすっと立ち上がり、金の髪を揺らして言い放った。
「この婚約、こちらからもきっぱり破棄いたします。
――貴方のように、愛も理性も焦がしてしまう殿方にはもったいなくてよ」
会場がどよめき、拍手が起こる。
マリアンヌが怒鳴ろうとするより早く、フレアリスはくるりと踵を返した。
「お紅茶、もう一杯いただける? ……あ、できれば“焦がさない”やつで」
あの茶会のあと、貴族社会はしばらくの間、紅茶とパンケーキの話題で持ちきりだった。
「ご存じ? 焦がしたのは伯爵家の倅ですって」
「しかも婚約破棄を先に言い渡したのは彼のほうらしいわよ」
「それを火加減で返すなんて、あの令嬢……只者ではないわ」
噂は貴族街から城下町へ、そして下層の喫茶店にまで広がった。
炎の令嬢、フレアリス=ヴァン=ルクレール。
没落貴族の娘が、一杯の紅茶で伯爵家を焦がした――と。
だが当の本人は、そんな世間の騒ぎなど露ほども気にしていなかった。
翌朝、彼女は優雅にパンケーキを焼いていた。
完璧な黄金色、焦げ一つなし。
「ふふ、今日の焼き色は理想的ですわ。……ねぇ、裏庭のカラスさんたち?」
窓の外で三羽のカラスが鳴く。
まるで称賛するように、かすれた声で「カー、カー」と。
フレアリスは満足げに微笑んだ。
「愛だの身分だのと騒ぐ方々には、火加減の難しさなどわからなくてよ。
――焦げつかぬ誇りを持つのが、本当の貴族というものですわ」
そう言って、黄金色のパンケーキにフォークを入れる。
立ちのぼる湯気の中で、彼女の瞳が炎のように揺らめいた。
その日の午後、近所の喫茶店にはこんな張り紙が貼られたという。
《本日のおすすめ:フレアリス風パンケーキ ※焦げ注意》
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