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第9話 「悪魔との契約」


第9話 「悪魔との契約」



美月―――


「…美月?」


陽翔の心配そうな声で、わたしは、ハッと、我に返った。

いつの間にか、わたしは陽翔の肩に頭を預けていた。


「…なんでもないわ」


わたしは、そう言って何事もなかったかのように顔を上げる。

でも、陽翔はわたしのほんの少しだけ潤んだ瞳を、見逃してはくれなかった。

彼もまた同じ、悲しい記憶の海を泳いでいたのだ。

その瞳は、深い後悔の色に揺れていた。


「俺…あの時、お前のこと、ちゃんと…」


わたしは、何も言わずに陽翔のその言葉を遮るように、人差し指を彼の唇に、そっと当てた。


「…しーっ」


「…美月…?」


「…もう、いいの」


わたしは、静かに首を横に振る。


「…あれは、わたしの、弱さのせい。…あなたに、心配をかけたくなくて、嘘をつき続けた、わたしのせいよ...だから、あなたはもう、自分を責めないで」


わたしは、そっと、陽翔の頬を両手で包み込む。

そして、彼の潤んだ瞳を、まっすぐに、見つめて微笑んだ。


「…それに、わたしは、今、こうして、あなたの、目の前にいるじゃない。過去は、もう、変えられない。…でも、今、この瞬間は、わたしたちだけのものよ」


その言葉に、陽翔は子供みたいに、こく、こくと頷いた。

そして、彼はわたしの肩に顔をうずめてきた。

わたしは、そんな彼の大きな体を、優しく抱きしめてあげる。

彼の、少しだけ震える背中を、あやすようにゆっくりと撫でてあげる。

まるで、壊れ物を扱うみたいに。

しばらくして、陽翔が顔を上げた。

その目は、ワインのせいか、それとも涙のせいか、少しだけとろんと潤んでいる。

そして、どこか眠たそうだった。

無理もない。

この、残酷なゲームが始まってから1週間、彼が本当に、心から休めた夜なんて一日もなかったのだから。


(…本当は、あの日の続きをしたかった。もう一度、あなたとダンスを、踊りたかった。そして、今夜こそ、あなたの全部を、わたしのものにしたかった...)


でも、その黒くて甘い欲望を、わたしは静かに、心の奥底に沈めた。

今、彼に必要なのは、刺激的な「毒」じゃない。

ただ、全てを忘れられる、深い、深い、「眠り」だ。

わたしは、陽翔の頬にそっと手を添える。

そして、最高の優しい笑顔で、彼に嘘をつく。


「…あらあら。もう、眠くなっちゃったの? …しょうがないわね、子供なんだから」


「…ん…。…わりぃ…」


「ううん。いいのよ」


わたしは、ゆっくりと立ち上がる。

そして、彼の手を優しく引いた。


「さあ、行きましょう? …わたしが、ベッドまで、連れて行ってあげる」


わたしは、陽翔を寝室まで連れて行く。

連れて行く途中、お月見が終わったからか、キッチンに紬希の姿が見えたが、特に声はかけない。

彼が、ベッドに倒れ込むように、横になるのを見届ける。

そして、彼の額に、おやすみの優しいキスを落とした。


「…おやすみ、陽翔。…今夜こそ、いい夢を見なさい」


わたしは、部屋の電気を消して、静かにドアを閉めた。

庭に戻り、ワイングラスを片付ける。


(…これで、いいのよ)


わたしは、自分に言い聞かせる。


(…わたしは、彼の、唯一の『夜』になるんだから。彼が、安心して羽を休められる、静かで優しい夜に)


わたしは、空になったワイングラスを、月の光にかざした。

その、グラスの向こう側で、静かに揺れる月の光が、なんだか少しだけ、わたしのことを褒めてくれているような気がした。


陽翔―――


美月に、申し訳なさを感じながらも、

俺は、促されるままベッドで眠る。


――気づけば、そこは闇だった。


足元も天井もない。

無限に広がる暗黒の空間に、俺の体だけがぼんやりと浮かんでいる。

息を呑むと、耳の奥にガラガラとした声が響いた。


「……一週間が過ぎたぞ、我のご馳走」


闇の中から、異形の影が浮かび上がる。

青白い肌、骨のように痩せた体。

赤く長い髪は乱れ、二段に並んだ四つの赤い目がぎらついている。

鼻はなく、穴が二つ。

大きな口にはギザギザの歯が並び、ボロ布をまとったその姿は、まさしく悪魔だった。


骨ばった手が闇をかき分けると、禍々しい燭台が現れる。

黒く歪んだ金属に、人間の骨を模した装飾。

そこに立つ、三本の赤いろうそく。

「紬希」「ひなた」「美月」と名が刻まれ、青白い炎が静かに揺れていた。

すでに四分の一ほどが燃え尽きている。


「見るがいい。たった一週間で、これだけ燃えた。お前の選択が、毎日、この炎を育てているのだ」


俺は黙って炎を見つめる。

悪魔の声が、さらに深く胸を抉る。


「このろうそくが燃え尽きた時、彼女たちの命は終わる。完全に、消える」


「……分かってるよ」


「だが、こうして見るのは初めてだろう? 命が削られていく様を」


悪魔は愉快そうに笑い、続けた。


「あと三週間。このろうそくが尽きる前に、お前は新しい一本を選ばねばならぬ。選んだ女の名が刻まれた、新しいろうそくに火を灯すのだ。そして、残された二本は……燃え尽きる」


「……」


「3つの世界で三人を愛したお前が、最後に一人を選び、二人を捨てる。その絶望に歪む顔こそ、我にとって最高のご馳走だ」


俺には、3つの世界の記憶がある。

それは、悪魔に与えられた幸福でもあり、(かせ)でもある。


この選択が正しかったのか、未だに答えは出ないが、3人に会えるなら全てがどうでも良かった。


「あと3週間後、誰か1人を選ぶんだよな?……契約を変える方法はないのか?」


「お前も承知の上で契約したはずだ。それに、三人に、もう一度会いたいと泣きながら訴えたのはお前だろう?…契約を違えば、全てが消えるだけだ」


「……」


「カカカカカ」


悪魔は、再びいやらしく笑った。


「では、また来週会おう。その時には、ろうそくはさらに短くなっている。我を失望させるなよ」


燭台も炎も、悪魔の姿も、闇に溶けるように消えていった。


――目を開けると、寝室だった。


冷や汗で濡れた額を拭う。

一人ひとりの顔を思い浮かべ、俺は小さく呟いた。


「……あと三週間か」


すると、勢い良く寝室のドアが開いた。


「陽翔さん、ハンバーグできましたよ!」


俺は、紬希の声に導かれるように食卓へ向かうと、ひなたも美月も席についていた。

香ばしいハンバーグの匂いが部屋いっぱいに広がる。

三人の笑顔を見て、幸せを噛み締めながら、俺はスプーンを口に運んだ。


――あと三週間。


胸の奥で、その言葉が何度も反響する。

けれど、それを顔に出さずに、笑顔を作って「美味いよ」と言った。


食事を終え、団欒のあと、いつものように4人でベッドに並んで眠る。

三人の寝息を聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じ、今度こそ深く眠るのだった。


―――3人の妻たちは、契約の事や期限の事を知っている。


知った上で、俺たちは生活している。


最後に、俺は誰を選ぶのだろうか……




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