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第8話 「月明かりの約束」


第8話「月明かりの約束」



美月は、読んでいた本をゆっくりと閉じて、リビングから戻ってきた俺を、まっすぐに見つめてきた。

美月の瞳に、選択に選ばれた驚きの色はない。

焦りの色もない。

ただ、「やっと、来たのね」とでも言うような、静かで、深い、月の光みたいな色が宿っているように見えた。

美月は、何も言わず、ただ、じっと、俺の瞳の奥を見つめ続ける。

まるで、「あなたの覚悟は、できているの?」って、問いかけるように。

俺が、ごくり、と、喉を鳴らすと、美月が、ゆっくりと立ち上がる。

そして、俺の目の前まで歩いて来ると、俺の、シャツの襟を、くいっと、引っぱった。


「…ずいぶん、待たせたじゃない、陽翔」


「え…?」


「さあ、行きましょうか。…二人だけの、お月見に」


美月に、選択肢は見えてないはずなのに、それを当てる洞察力に俺は黙って感嘆した。

美月は、そう言うと、俺の手を取りキッチンへと向かう。


「…美月?」


「準備よ。…あなた、まさか、手ぶらで、月を見るつもりだったの?」


美月は、冷蔵庫から、ひなたがさっき買ってきた赤ワインを取り出す。

そして、食器棚から二つのグラスを取り、俺に渡す。


「あなた、それ、持ってなさい」


「お、おう…」


次に、美月は、リビングにあったクッションと、押し入れから取り出したレジャーシートを俺に押し付けた。


「それも、お願いね。…わたしは、もっと、いいものを、持っていくから」


美月は、自分の部屋に戻ると、一枚の大きなカシミアのブランケットを手に取って戻ってきた。

庭は、春とはいえ、夜になると冷えるから。

俺は、レジャーシートを広げ、クッションとグラスを並べて待っていた。

美月は、ワインをグラスの横に置くと、俺の隣に、ぴったりと寄り添う様に座った。

そして、持ってきたブランケットを、二人の肩にそっとかける。


「…これで、完璧ね」


美月は、俺の肩に、こてん、と、頭を預けて微笑んだ。


「さあ、始めましょうか。…大人の、夜の、ピクニックを」



時は少し戻り、紬希は―――



とん、とん、とん。

ハンバーグ用の、玉ねぎをみじん切りにする軽やかな音が響いていた。


(陽翔さんの、だーいすきな、ハンバーグ。ひなたさんの分も、おっきくしてあげなくっちゃ。)


そんな、幸せなことを考えていた、その瞬間だった。


(…え…?)


ふっ、と、手に持っていた包丁の冷たい重み消えた。

とん、とん、と、響いていた、まな板の音が消えた。

ツン、と、目に染みていた、玉ねぎの匂いが消えた。

そして、何よりも──すぐそこのリビングに感じていたはずの、陽翔さんの、温かい大切な大切な気配が、無くなった。


(あ…...また…『選択』が…あったんだ…。そして…私は…選ばれ、なかったんだ…。)


世界が希薄になり、私は、ただ、キッチンに立ち尽くしていた。


(今回は…誰…?)


リビングを、そっと覗き込む。

そこにいたのは、陽翔さんと…美月さん。

美月さんが、本を閉じて立ち上がると、陽翔くんの、襟を、くいっと、引っぱる。

その仕草が、あまりにも、堂々としていて、あまりにも、美しくて…。

私の、知らない、陽翔さんの顔を引き出していく。


(ずるい…)


胸の奥が、ちりちりと、黒い炎で、焦げていくみたいに、痛い。

美月さんが、冷蔵庫から、ワインを取り出す。


(それ、ひなたさんのじゃ……)


グラスを、用意する。

クッションと、レジャーシートも。

そして、大きな、カシミアの、ブランケット…。


(…わたしには、できない…)


そう、思った。

私には、あんな、大人なデートの準備なんて思いつきもしなかった。

私が考えられるのは、せいぜい、子供みたいにハンバーグをこねることくらい。

美月さんが、陽翔さんの肩に、こてん、と、頭を預けて微笑む。

「大人の、夜の、ピクニックを、始めましょうか」

その声が、私の心を、ずたずたに引き裂いていく。


(陽翔くん…行っちゃ、だめ…その人の、隣は、危険だよ…その人は、あなたを、甘やかしてなんて、くれない。あなたを、その、夜みたいな深い闇で、独り占めにして、飲み込んじゃう人なんだよ…!)


叫びたいのに、声は届かない。

追いかけたいのに、足が動かない。

涙が、ぽろぽろと、こぼれ落ちる。


その時だった。


私は、はっ、と、我に返った。


(…そうだ。私には、ハンバーグが、ある!私は、ここで、陽翔さんの、帰りを、待っていなくちゃ…)


私は、エプロンで、ぐいっと涙を拭うと、キッチンに戻り、作りかけのハンバーグが入ったボウルに向き合った。

そして、その、冷たいひき肉に手を伸ばした。


(大丈夫。陽翔さんは、絶対に帰ってくる。だから、私は世界で一番おいしい、ハンバーグを作って…)


──すかっ。


(…え…?)


私の手は、ひき肉を通り抜けた。

こねようとしても、触れない。

ボウルにすら、触れない。

玉ねぎを、加えようとしても、掴めない。

塩も、胡椒も、何もかも、私の指は、するり、と、通り抜けていく。


(あ…そっか…今の私には、何も、できないんだった…)


陽翔くんを、慰めることもできない。

ひなたちゃんみたいに、励ますこともできない。

そして、美月さんみたいに、戦うこともできない。

私が、できるのは、ただ、こうして『見ている』ことだけ。

陽翔さんが、他の女に、堕とされていくのを、ただ、指をくわえて見ていることしかできないんだ。


(私は…なんて、無力なんだろう…)


私は、その場にずるずると崩れ落ちた。

目の前には、作りかけのハンバーグ。

陽翔くんへの、愛情の塊。

でも、今は、それを完成させてあげることはできない。

雨が上がった夜空には、綺麗な満月が浮かんでいた。

その月の光が、まるで美月さんが、私を嘲笑っているかのように思えた。

私は、ただ、温度の無いキッチンの床の上で、声を殺して、泣き続けた。

陽翔くんが、美月さんの腕の中で、どんな顔をしているのか想像するだけで、胸が、張り裂けてしまいそうだったから。



現在―――


俺たちは、グラスに注がれた赤ワインを、静かに飲む。

ひんやりとした夜の空気が、心地いい。


「…ん…。…うまいな、このワイン」


俺が、感心したように呟くと、美月が、くすっ、と笑った。


「そう? …ひなたが、どうせ適当に選んできたものよ。…あなたの、口に合ったのなら、良かったわ」


「…ああ。…なんか、落ち着くな、こうしてるの」


「そうね」


「…お前といると、なんていうか…静かで、いいな」


俺は、空の満月を見上げながら、ぽつり、と、そう呟いた。

その、短い言葉の中に、俺がどれだけこの残酷なゲームに疲れているのかが伝わったようで、美月は少し顔をしかめた。


「…ふん。…やかましいのは、嫌いなのよ、わたしは」


美月は、そう言って、またワインを一口飲む。

俺は、そんな美月を見て、優しく笑った。

そして、俺は、月を見上げたまま呟いた。


「…なあ、美月」


「…何?」


「…覚えてるか? 俺たち、昔も、こうやって、月を見ながら…」


あの日の、夜景が綺麗な高層マンションのベランダ。

そして、二人だけで踊った、あの、ぎこちないワルツ。


「…ええ。…覚えてるわ」


美月が、静かに頷く。


「…あなたが、馬鹿みたいに、わたしを、ダンスに、誘った夜のことでしょう?」


「ははっ…! ばかって、言うなよ!」


俺が、楽しそうに笑ったが、美月は、笑っていなかった。

それは、胸の奥が、ちくり、と痛んで、ほんの少しだけ、息が、苦しくなるのを感じていたから。


あの日の、ダンスを思い出して…




美月の回想――


陽翔と結婚して、初めての春だった。

わたしたちは、少しだけ奮発して、夜景が綺麗な高層マンションに引っ越したばかりだった。

まだ段ボールが部屋の隅に残っているような、慌ただしくて、でも希望に満ちた毎日。

あの日も、そんな何気ない一日だった。

わたしは、ベランダの手すりに寄りかかって、街の夜景をぼんやりと眺めていた。

その日は、珍しく空気がすごく澄んでいて、高層ビルの間に満月が、宝石みたいに輝いていた。


「わ、見てみろよ美月! 今夜の月、すげー綺麗だな!」


後ろから陽翔が、わたしの肩にブランケットをそっとかけてくれた。

そして、わたしの隣に並んで、同じように月を見上げる。


「そうね。綺麗だわ」


「だろ? あ、そうだ!」


陽翔は、何かを思いついたみたいに、わたしの手を優しく取った。

そして、リビングの電気を、全部消してしまう。


「ほら美月! 踊ろうぜ!」


「は?」


「月明かりの下でダンス! 俺たちだけの、ダンスホールだ!」


彼は、スマホから、どこかで聞いたことのある静かなワルツの曲を流し始めた。 月明かりだけが差し込む、薄暗いリビング。 わたしは呆れていた。

でも、その子供みたいなロマンチックさが、どうしようもなく愛おしかった。


「しょうがないわね。少しだけ、よ?」


わたしがそう言うと、陽翔は嬉しそうに、わたしの腰をそっと引き寄せた。

そして、わたしの手を、彼自身の肩に置かせる。

二人だけの、ぎこちないダンスが始まる。

彼の不器用なリードに合わせて、くるり、くるりと回る。

窓から差し込む月の光が、わたしの銀色の髪をキラキラと照らす。

彼のダークブラウンの瞳が、すぐ目の前にある。

その瞳に、わたしだけが映ってる。


(ああ、綺麗…)


わたしは、月じゃなくて、彼の瞳を見て、そう思っていた。

心臓がドキドキと、うるさいくらいに鳴っている。

顔が熱い。


(まただわ…少し、息が苦しい…)


幸せなはずなのに。

世界で一番満たされているはずなのに。 胸の奥が、きゅーっとなって、うまく息が吸えない。

少しだけこみ上げてくる咳を、必死に飲み込む。


「どうした、美月? 顔、赤いぞ?」


「うるさい。あなたのせいよ」


わたしは、そう言って、陽翔の胸に顔をうずめた。

彼のたくましい胸板に耳を当てて、心臓の音を聞きながら、必死に乱れた呼吸を整える。

陽翔に気づかれないように。

この完璧な、幸せの時間を、わたしのせいで壊してしまわないように。

彼は、わたしの頭を優しく撫でてくれた。

その温かい手のひらの感触を、わたしは今でも覚えている。

月明かりのリビングで、二人だけで踊った、あの秘密のダンス。

それは、わたしの人生で、一番ロマンチックで、そして、一番息が苦しかった、宝物みたいな思い出。


それから、数週間──


あの夜から、わたしの体調は少しずつ、でも確実に悪化していった。

朝、目が覚めると胸が重い。

深呼吸をしようとすると、肺の奥がひゅうひゅうと鳴る。

でも、陽翔の前では、平気なフリを続けた。


「美月、大丈夫か? なんか顔色悪いぞ」


「平気よ。少し寝不足なだけ」


嘘をつく。

何度も、何度も。

吸入器は、いつもバッグの奥に隠していた。

陽翔が仕事に行っている間に、こっそりと使う。

でも、最近はそれだけじゃ息苦しさが治まらなくなってきていた。


(病院に、行かなきゃ…)


頭では分かっていた。

でも、行けなかった。

陽翔に心配をかけたくなかった。

「大丈夫」って笑っていたかった。

彼のあの優しい笑顔を、曇らせたくなかった。

そして、その日が来た。


最後の満月──


カレンダーを見ると、今日は満月だった。

あのダンスから、ちょうど一ヶ月。


(もしかしたら、今夜また…)


陽翔が、もう一度誘ってくれるかもしれない。

そう思うと、胸が嬉しさでいっぱいになった。

でも同時に、息苦しさもいつも以上に強かった。


「美月、今日は仕事が遅くなるかも。11時くらいになると思う」


「そう。気をつけて」


陽翔が出かけていく。

その背中を、わたしは、いつもより長く見送っていた。


夜。


わたしは、リビングのソファに座って、窓の外の満月を見ていた。

一ヶ月前と同じ、綺麗な満月。


(また、踊りたいな…)


そう思った、その瞬間だった。

胸が、ぎゅっと締め付けられる。

息が吸えない。

喉がヒューヒューと鳴る。


(やば…)


わたしは、バッグから吸入器を取り出そうとした。

でも手が震えて、うまく掴めなくて床に落としてしまう。

脳に酸素が行かず、視界がぼやけてくる。


(陽翔…)


わたしは、床に崩れ落ちた。

月明かりが、わたしの銀髪をキラキラと照らしている。

あの日と同じ、優しい光。


(ごめんなさい…また、踊りたかった…)


意識が遠のいていく。

最後に見えたのは、窓の外の満月だった。



その頃、陽翔は──


「ふぅ…やっと終わった…」


時計を見ると、午後11時を回っていた。 会社を出て、タクシーを拾う。

窓の外を見ると、綺麗な満月が浮かんでいた。


(今日、満月なんだ)


ふと、一ヶ月前のことを思い出す。

美月と、月明かりの下で踊ったあの夜。 彼女の照れくさそうな顔。

銀色の髪が、月の光でキラキラと輝いていたこと。

思い出すと、それが、無性にまた見たくなった。


(帰ったら、また誘ってみようかな)


そう思うと、なんだか嬉しくなって、自然と笑顔になっていた。

マンションに着く。 エレベーターに乗りながら、なんとなくワクワクしていた。

ドアを開ける。


「ただいま、美月──」


その言葉が、途中で止まった。

リビングの床に、美月が倒れていた。

窓から差し込む月明かりが、彼女の銀髪を優しく照らしている。

あの日と同じように。

でも、美月は、動かなかった。


「美月っ!!」


駆け寄って、抱き起こす。

体は、まだ温かい。

でも息をしていない。


「嘘だろ…なんで…!」


床に落ちている吸入器が、目に入った。 手の届かない場所に、転がっている。


(吸入器...?...喘息?...そんな事、一言も……)


頭の中で、全部が繋がった。

時々、息苦しそうにしていたこと。

顔色が悪い日があったこと。

でも、俺は、何も気づいてやれなかった。

涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。


「ごめん…ごめんな、美月… 俺、何も気づいてやれなくて。...今夜、また踊ろうって…誘おうとしてた…」


窓の外の満月が、静かに俺たちを照らしている。

あの日と同じ、優しい光で。

でも、もう、美月は笑ってくれない。

もう、一緒に踊ることはできない。

俺は美月を抱きしめたまま、声を上げて泣いた。


そして──俺は、美月の後を追う為、満月の空に飛び出した。

彼女のいない世界で、生きていく意味なんて、なかったから...


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