第7話 「月の光の温度」
第7話「月の光の温度」
玄関のドアを開けると、部屋の中の温かい空気に心が和らぐ。
春とは言え、やはり雨に濡れると体が冷えるなと思った。
玄関に入ると、俺とひなたを迎えるように、紬希がタオルを持って立っていた。
「…おかえりなさい、陽翔さん。ひなたさん」
その声は、あまりにも穏やかで、その上優しくて──
ひなたが、びくっと肩を震わせるのが分かった。
きっと、怒られると思ったんだろう。
でも紬希は、何も責めることなく、ひなたの髪をそっとタオルで包み、わしゃわしゃと撫でて微笑んだ。
「ふふっ♡ ひなたさん、お疲れ様。…陽翔さんのこと、ありがとう」
その言葉に、俺の胸が少しだけ痛んだ。
選ばれなかった紬希が、こんなふうに笑ってくれるなんて──
俺は、どれだけ彼女に甘えているんだろう。
次に、紬希は俺の髪を優しく拭いてくれた。
その手つきは、まるで母親のように感じられた。
「陽翔さんも、お疲れ様です。二人とも、このままだと風邪ひいちゃいますよ。今、あったかいココアでも淹れますね」
「...ありがとう。助かるよ。ほんとに」
紬希がキッチンへ戻ると、振り返って少しだけ大きな声で言った。
「あ、そうだ! 陽翔さん! 今日の夜ご飯のハンバーグなんですけどね? ひなたさんも、きっと、お腹空いてると思うから、いつもより、いーっぱい、おっきいのを作ってあげなくっちゃですね!」
その言葉に、ひなたが嬉しそうに笑った。
俺も、少しだけ笑った。
でも、心の奥では──また、選ばなかったことへの罪悪感がじわじわと広がっていた。
買い物袋をキッチンに運ぶひなたの背中を見ながら、俺はソファに腰を下ろす。
雨音が、窓を打つ音が聞こえると、さっきまであの中にいたのかと思い苦笑してしまう。
「おかえり、陽翔」
そう言うと、隣に座っていた美月が、スっと立ち上がりスタスタと歩き出す。
「…美月さん? どちらへ…?」
紬希の声が聞こえた。
美月は振り返らずに答えた。
「…お風呂。あいつ、雨に濡れたまま放っておくと、すぐに風邪を引くから」
その言葉に、さすが美月だなと思った。
美月は、口数は少ないが、いつも俺の体調を気にしてくれている。
そこが、愛おしくてたまらない。
しばらくして、彼女が戻ってきた。
タオルの準備、着替え、風呂の温度──
全部、俺の好みに合わせて整えてくれていた。
「…お風呂、沸いてるわよ。…早く、入ってきなさい。風邪、引くでしょ」
ぶっきらぼうな言葉。
でも、その中に、確かに愛情が込められているのが分かる。
「…ああ。…ありがとう、美月」
俺は、少し照れくさくなりながらも、バスルームへ向かおうとしたが、ふと、俺は振り返って声をかけた。
「……美月も、一緒にシャワー入るか?」
冗談のつもりだった。
でも、少しだけ本気だった。
美月は、本から顔も上げずに、冷たい声で言い放った。
「…は? 何を言ってるの? わたしが、あなたなんかと、一緒に入るわけ、ないでしょ。…子供みたいなこと、言ってないで、早く、体を温めてきなさい」
「はーい」
その言葉に、俺は少しだけがっかりした。
でも、どこか楽しくもあった。
美月らしいな、って思った。
彼女は、ぱらりと本をめくる。
でも、視界の端で、俺の動きをちゃんと確認しているのが分かった。
「…ふん。まだまだ、子供ね、陽翔」
俺は、少しだけ笑って、バスルームへ向かった。
「なんでこんな時に限って、選択肢が出ないんだよ……」
俺は、仕方なく一人で風呂に浸かり体を温める。
しばらくして、風呂から上がり、服を着ていると、脱衣場にひなたがやって来た。
「ひゃっ! ご、ごめん、陽翔くん!」
と言って、顔を真っ赤にして、すぐにドアを閉めた。
そして、ドアの向こうから声がする。
「もう、陽翔くんの、おバカ! 見えちゃったじゃない!」
(...これは、俺が悪いのか?)
そんな、誰も得をしない、逆ラッキースケベがあった。
服を着て髪を乾かした後、リビングに戻った。
俺が風呂から上がってリビングに戻ると、少しだけ冷たい空気がただよっていた。
数分前―――
キッチンでは、紬希がハンバーグの下ごしらえをしている。
リビングのソファでは、美月が静かに本を読んでいる。
ひなたは、顔を真っ赤にして自分の部屋に駆け込んで行ったので、姿はない。
「…ずいぶん、ご機嫌な犬だったわね。お散歩、楽しかったみたいじゃない」
美月が、本から目を離さずに、ぽつりとそう呟いた。
その声は、氷みたいに冷たかった。
紬希は、ハンバーグをこねる手を止めずに、優しく微笑んで答える。
「…ひなたさんの笑顔は、陽翔さんのお薬ですもの。今日は、きっと、陽翔さん、よく眠れますよ」
「薬…ね」
ぱたん、と美月は本を閉じた。
そして、その月光みたいなプラチナシルバーの髪をさらりとかきあげながら、紬希をまっすぐに見つめた。
「…あいつに必要なのは、そんな生ぬるい癒やしじゃないわ。全てを忘れさせてくれる、もっと、もっと強い"毒"よ」
「毒は、いつか、陽翔さんを壊してしまいます」
紬希も手を止めて、美月をまっすぐに見つめ返した。
「…あの方に必要なのは、いつでも、安心して帰ってこられる、温かい"家"です。私が、その家になります」
その時だった。 ひなたが部屋からひょっこり顔を出した。
まだ少しだけ顔が赤い。
「あ、あの…! 陽翔くん、もう、お風呂上がったかな…!?」
その無邪気な声に、二人の間に流れていた張り詰めた空気がふっと緩む。
美月は、ふん、と鼻を鳴らして、また本を開いた。
「…見てなさい。子供のおままごとよ」
紬希は、その言葉には何も答えずに、また、ハンバーグをこね始めた。 とん、とん、と愛情を込めて空気を抜いていく。
現在―――
俺がリビングに戻ると、窓の外が明るい事に気付き、外を見に窓辺に立つ。
すると、さっきまであんなに降っていた雨が、嘘のよう止んでいた。
そして、雲が晴れ──綺麗な満月が、夜空に浮かんでいるのが見えた。
―――その瞬間、世界が止まった。
テレビの音が途切れ、キッチンから聞こえていた包丁の音も、ページをめくる音も、すべてが凍りつく。
そして、目の前に、赤黒く滲んだ"血文字"が1文字づつ浮かび上がって来る。
【心して選べ】
A. 紬希と夜食を作る
B. ひなたとゲームをする
C. 美月とお月見をする
その下に、もう一行。
※選択しなければ、全員が消える
そして、砂時計が、ふっ、と宙に現れ、逆さまにひっくり返る。
中に入った血のように赤い砂がゆっくりと、落ち始めている。
「……また、か」
俺は、窓の外の満月をもう一度見上げ考える。
そして、手を伸ばした。
C. 美月
──選んだ瞬間、世界が動き出し、テレビの音が戻った。
(ひなたは...風呂で消えたはず。だから大丈夫か。紬希は?)
キッチンから、紬希の姿が消えているのを見て、コンロを確認しに行く。
「火は……付いてないな」
消えるタイミングによっては、大変な事になるので、ホッと胸を撫で下ろす。
美月だけは、冷静にソファで本を読んでいる。
いや、読んでいた。
彼女は、いつの間にか、本を閉じて、俺の方を見つめていた。
その頃、ひなたは―――
わたしは、湯船に浸かっていた。
陽翔くんが入った後の、温かいお湯に包まれて…
「はぁ〜、幸せだなぁ…」
なんて呟いて、ちょっと、油断してたんだ。
その、瞬間だった。
(…え…?)
ふっと、何の前触れもなく、わたしを包んでいたお湯の温かさが消えた。
肌を撫でていた、柔らかい水の感触が消えた。
ぱちゃ、っていう水音も、全部消えた。
目の前には、ゆらゆら揺れる、湯気もお湯もちゃんとある。
でも、わたしは、その中にいない。
まるで、水と油みたいに、世界から完全に分離されて、ただバスタブっていう白い入れ物の中に座ってるだけ。
(…そっか。また…選ばれなかったんだ…)
胸の奥が、ぎりぎりって痛くなる。
さっきまでの、あの、幸せな温かさを知っているからこそ、この何も感じない、冷たい無の世界がどうしようもなく辛い。
ぽろって、涙がこぼれる。
でも、その涙が頬を伝う感触すらない。
(今頃、陽翔くんは、誰といるんだろう…? わたしは、お風呂の中で一人ぼっちなのに…)
寂しくて、悔しくて、悲しくて…。
わたしは、何も感じない自分の体を、ぎゅーって抱きしめるフリをした。
でもね。
その時、ふと、思い出したんだ。
今日の、雨の中のデートのこと。
陽翔くんが「お前の、太陽みたいな笑顔が見たくなった」って、言ってくれたこと。
わたしが、ちゃんと陽翔くんの太陽になれた、あの、時間のこと。
(そっか…。そうだった。わたし、今日、ちゃんと選んでもらえたんだった。ちゃんと、陽翔くんを笑顔にできたんだった)
そう思ったら、何も感じないはずの、この冷たい体の中に、ぽっと、小さな温かい光が灯った気がした。
わたしは、大丈夫。
わたしは、ちゃんと自分の役目を果たしたんだもん。
(よし!わたしも、次、選ばれた時のために、自分磨きしなくちゃね!もっと、もっと、可愛いお嫁さんになって、陽翔くんをびっくりさせちゃうんだから!)
そうやって、わたしは何も感じない水の幻影の中で、一人、決意を固めた。
そして、ただ、じっと待つ事に決めた。
この、無の世界が終わって、また、陽翔くんのいる温かい世界に、感覚が戻ってくるその瞬間を。
それが、選ばれなかったわたしにできる、たった一つの戦い方だから。




