第4話 「卵焼きと、永遠じゃなかった朝」
第4話「卵焼きと、永遠じゃなかった朝」
コーヒーの香りが、まだ少し残っている。
俺は、紬希の言葉から、あの日の事を思い出していた。
「ハンバーグか……」
──あの、地獄の日のことを。
あれは、紬希と結婚して、まだ数週間しか経っていない頃だった。
新しい部屋、新しい生活、そして、新しい“家族”としての時間。
紬希は、その日の朝、いつもより少しだけ早く目が覚めた。
隣で、まだ、すぅすぅと寝息を立てている陽翔の寝顔を、ぼんやりと見つめていた。
(ふふっ♡ 寝てる時は、子供みたいで、可愛いんだから…)
紬希は、陽翔を起こさないように、そっとベッドを抜け出してキッチンへ向かった。
今日こそは、と、ずっと心に決めていたことがあったから。
(よしっ…! 今日こそ、陽翔さんのために、世界で一番、おいしい、卵焼きを、作ってあげるんだから…!)
お母さんに何度も電話して聞いた、秘伝のレシピ。
緊張で手が震えながらも、卵を割って、しゃかしゃかと溶いていく。
その音さえも、紬希には“幸せのメロディー”に聞こえる。
くるん、ぱたん。
くるん、ぱたん。
一生懸命巻いた卵焼きは、少し焦げて、形もいびつだった。
でも、紬希はそれを、遅れて起きてきた俺の前に差し出して、ドキドキしながら言った。
「あ、あの…! は、初めて、作ったから…ちょっと、形が、変なんですけど…! でも、いっしょうけんめい、陽翔さんのために、心を込めて、作りました…! よかったら…食べて、ください…!」
俺は、笑った。
くしゃっと、世界で一番優しい顔で。
そして、卵焼きを一口食べて、彼女の頭を撫でながら言った。
「…うん。世界で、一番、おいしいよ」
その一言で、紬希は泣いた。
嬉しくて、嬉しくて、涙がぽろっとこぼれてきた。
焦げたところも、いびつな形も、全部が宝物になった朝。
俺たちの、甘くて、不格好で、世界で一番幸せな、初めての卵焼きの思い出。
──俺たちは、この幸せな朝が、永遠に続くと信じていた。
でも、それは永遠じゃなかった。
その日の午後、紬希は買い物に出かけた帰り道の横断歩道で、信号無視をした大型トラックによる交通事故に遭った。
俺が、病院に駆けつけた時には、もう意識はなく、そのまま二度と目を開ける事はなかった。
冷蔵庫に貼られていたメモだけが、彼女の最後の言葉になっていた。
「陽翔さんへ。夜ご飯はハンバーグ作るから楽しみにしててね♡」
俺は、そのメモの前で、崩れ落ちた。
「ありがとう」も、「美味しかった」も、もう二度と言えない。
俺は、絶望に飲まれた。
この日から、食べる事をやめた。
寝る、起きる、キッチンで紬希を探す。
起きたら、紬希が朝ごはんを作っていてくれる。
卵焼きを作っていてくれる。
あれは、夢なんだと、信じたかった...。
そして、俺はまた眠りにつく。
そんな日を続けていると。
いつしか、俺は、永久に目を覚まさなくなっていた。
そして今──
目の前にいる紬希は、あの朝の続きにいるように思える。
この幸せは、俺が選ばなければ壊れる。
だから、俺は選んだ。
あの卵焼きの記憶を、もう一度味わうために。




