第23-2話 「トイレミッション・インポッシブル」
第23-2話 「トイレミッション・インポッシブル」
陽翔―――
一筋の光も無い完全な闇。
俺の視界は、全ての光を失っていた。
どれだけ目を見開いても、ただの暗黒。目が見えない恐怖と、その間にみんなに何かあったんじゃないかという不安に、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
けど、俺の顔を埋めている温かくて巨大な柔らかさだけが、俺を現実に引き止めていた。
(紬希……)
彼女の温かさが、少しづつ俺の心を落ち着かせてくれる。
俺の動揺は、彼女に伝わっていないはずなのに、俺を離さない。
この感触こそが、俺が今ここに立っていられる唯一の錨だ。
「うえぇぇん! 陽翔くぅん! 足がぁ! 私の足が動かないよぉ……!」
床のあたりから、ひなたの悲鳴が響き渡る。
鼻をすする音、床を叩くような鈍い音。ひなたが、パニックを起こしているのが分かる。
そして、「足」が動かないのか。
俺は、さっき紬希が「手」が動かないと言っていたのを思い出す。
(……そうか、欠けた歯車の意味は、俺たちから何かを奪って、その無様な光景を悪魔が見て楽しむ選択肢だったって訳か。俺が目で、ひなたが足、紬希が手……それなら美月は?)
俺は、この家の主だ。
だから、機能している部分を使って、みんなをまとめなければならない。
俺は、一呼吸……しようと思ったけど、このままでは窒息するのでさすがに顔をあげる。
そして、声を出した。
闇の中、全員に届くように、冷静に低く抑えたトーンで。
「ひなた……泣くな」
俺の声は、震えていなかったか?
不安の色は、なかったか?
視覚を失った今、俺の「声」こそが、この地獄の中での武器だ。
ひなたの泣き声が、ぴたりと止まるのが分かった。
代わりに、小さく「えっ……?」という戸惑いの声が聞こえる。
俺は、頭をゆっくりとひなたのいるであろう方向へ向けた。
見えてはいないが、音で位置を掴む。
「……いいか、ひなた。よく聞いてくれ。俺は今、何も見えてないんだ」
「……えっ?」
「真っ暗だ。俺の視界は、悪魔に奪われた。……これが、今回の選択肢を選んだ結果なんだと思う」
冷静に、淡々と事実を告げる。
そうすることで、自分の恐怖も押さえ込める気がした。
「俺は目が見えない。ひなたは足が動かないんだろ?そして紬希は、手が動かない。……美月は、どうなんだ?美月?」
美月がずっと無言なのが、不安でしょうがない。
「紬希、美月はいるか?どうなってるか分かるか?」
「……美月さんは、口を動かしてますが、声が出てません」
(美月は声を奪われたのか...)
「美月は声…………みんな、それぞれ何かを奪われた……でも、俺たちには、まだ残っているものがあるだろ?」
ひなたが答える。
「……のこってるもの?」
「ああ、そうだ。俺には、こうして意志を伝える『声』がある。ひなたには、自由に動く『手』があるだろう?」
俺は、自分の役割を彼女に委ねる。
この暗闇の中で、光を放てる彼女に。
「ひなた。お前のその元気な目は、まだ死んでないはずだ。……俺の目になってくれ。そして、紬希の手になってくれ」
ひなたのいる方から、ゴシゴシと何かを拭う音が聞こえた。
おそらく、涙だ。
そして、次に来たのは、いつもの力強い明るい声だった。
「うん! やる! わたし、陽翔くんの目になる!そして、紬希ちゃんの手になる!」
(よし!1つ歯車が噛み合ったぞ!)
「よし!……美月は、手も足も動くのか?美月??」
(くそっ!返事がないから、見えない俺には美月の様子が全く分からない!)
美月―――
(……うるさいわね)
目が覚めた瞬間、わたしが最初に思ったのはそれだった。
視界の中で、ひなたが床に落ちるのが見えた。
陽翔が、虚空に向かって何かを叫んでいる様に見える。
でも、その動きが、まるでパントマイムを見ているみたいだった。
(…………え?)
違和感に気づくのに、数秒かかった。
「うるさい」と思ったのは、彼らの「動き」が騒がしかったから。
さっきから、わたしの耳には、何も届いていない。
ひなたが床を叩く音も。
陽翔の叫び声も。
衣擦れの音さえも。
世界は、真空の中にいるみたいに、完全な「無音」だった。
(……耳が聞こえない。そして、みんなも何かがおかしい)
わたしは、すぐに陽翔に声をかけようとした。
でも、わたしの声帯は、明らかに震えていない。
その上、何も聞こえない。
(……悪魔ね。やってくれるじゃない)
わたしは、静かにベッドから降りた。
足は動くし、手も動く。
わたしが奪われたのは「発信」と「受信」の手段。
この騒がしい部屋の中で、たった一人、孤独な深海に沈められた気分になった。
(……陽翔)
彼が、見えない目で、必死にわたしの名前を呼んでいるのが、口の動きでわかった。
「み、づ、き」
陽翔の、必死な形相が見える。
(……バカな人。そんなに怯えて)
わたしは、驚かさないようにそっと彼に近づく。
そして、目の前に立つと、そっと彼の手を取った。
「っ!?」
陽翔が、ビクッと体を震わせて、何かを言った。
唇が動く。
でも、聞こえない。
わたしは、彼の手のひらを広げ、指先で文字を書く。
『み』
『づ』
『き』
陽翔の顔に、安堵の色が広がるのが見えた。
彼は、わたしの手を強く握り返し、早口で何かをまくし立ててくる。
心配そうな顔をして。
(きっと「大丈夫か?」「声が出ないのか?」みたいな事を言っているんでしょうね。でも、ごめんなさい陽翔。今のわたしには、あなたのその愛おしい声が1ミリも届かないの)
わたしは、陽翔の唇に人差し指をそっと当てて、彼を黙らせた。
そして、彼の手のひらに、残酷な事実を書き記す。
『こ』
『え』
『×』
陽翔が、悲痛な顔をする。
でも、まだ終わりじゃないわ。
『み』
『み』
『×』
「…………っ!!」
陽翔が、息を呑むのが分かった。
「美月、声だけじゃなく耳も聞こえないのか!?」
目が見えない彼の手が、わたしの耳を、頬を、確かめるように触れてくる。
その手は、小刻みに震えていた。
(……わたしには、あなたの声は聞こえない。あなたは、わたしを見ることが出来ない。わたしたちは今、一番近くにいるのに、悪魔によって断絶されている。でもね、陽翔。わたしは、こんな事で絶望なんてしていないわ)
わたしは、震える陽翔の手を両手で包み込む。
そして、彼の手を、わたしの心臓の上に当てた。
トクン、トクン、トクン……。
(感じるでしょう?音は無くても、言葉は無くても、わたしの命は、ここで動いている)
わたしは、彼の手の平に、最後のメッセージを書く。
『め○』
『あし○』
『て○』
『まかせて』
陽翔が、それを口に出してみんなに伝える。
わたしは、陽翔の手を強く引いた。
わたしは、あなたの「目」になる。
わたしは、ひなたの「足」になる。
わたしは、紬希の「手」になる。
この静寂の世界で、わたしだけが冷静に全てを見渡せる。
だったら、わたしが司令塔になればいいだけのこと。
(さあ、やるわよ陽翔)
わたしは、無音の世界で不敵に微笑んだ。
(言葉なんて、愛を囁く時以外は邪魔なだけよ)
陽翔―――
緊迫した空気が流れる中、ひなたの顔色がさっきとは違う種類の赤みに染まっていた。
モジモジと動かない足を擦り合わせようとして、涙目で俺の方を見る。
「あの……だ、だーりん……」
「ん? どうした?ひなた。もしかして、足が痛むのか?」
俺は、心配そうにひなたの声がする方を向く。
ひなたは、美月の方をチラリと見た。
美月は、無表情で俺を見ているが、もちろんこちらの会話は聞こえていない。
「ち、ちがうの……その……えっと……」
ひなたは、意を決して蚊の鳴くような声で言った。
「…………お……おしっこ……漏れそう……」
その一言が、この「欠けた歯車」チームに激震を走らせる。
俺が、その言葉に固まった瞬間、紬希が「ああっ!」と声を上げた。
「トイレかっ?!」
(どうする!? 美月には聞こえない。 俺は見えないから場所が分からない。 紬希はドアが開けられないし)
「……漏れちゃう……」
ひなたの、消え入りそうな、しかし爆弾発言級の一言に、俺の思考は一瞬停止した。
だが、事態は一刻を争う。
生理現象は、悪魔の理不尽なルールなんて待ってくれない。
「紬希! 美月はどこだ!?」
俺は、すぐさま叫んだ。
美月には、俺の声が聞こえていない。
だから、まずは彼女に状況を伝えなければ何も始まらない。
「えっ、あ、えっと……! み、美月さんは、今、陽翔さんの右斜め前に立って、キョトンとしてます!」
「よし!」
俺は、紬希の声を頼りに、右斜め前へと手を伸ばす。
空振るかと思ったが、運良く美月の細い腕を掴むことが出来た。
美月が、ビクッと体を強張らせるのが伝わってくる。
いきなり腕を掴まれたら驚くのも無理はない。
「美月、頼む……! 分かってくれ!」
俺は、祈るような気持ちで、美月の手の平を探り当てると、そこに指先で文字を走らせた。
『ひ』
『な』
『た』
『ト』
『イ』
『レ』
美月の手が、ピクリと動く。
そして、数秒の沈黙の後、彼女の小さく息を吐く気配がした。
きっと、呆れているんだろう。
その後、美月がひなたの方を見た気配を感じる。
どうやら、伝わったらしい。
美月が、俺の手を握り返し、ポンポンと二回叩く。
(『了解』の合図だな?)
「よし……ひなた、今からトイレに行くぞ。俺が抱えるから、首に捕まってくれ」
俺は、床にいるであろうひなたを目指して、足の感触を頼りにベッドの縁を探し、床に降りる。
そして、ひなたの位置を手探りで探り当てる。
「う、うん……ごめんね、だーりん……」
ひなたが、申し訳なさそうに、俺の首に腕を回してくる。
俺は、ひなたの膝裏と背中に手を入れて、慎重に持ち上げた。
「んっ……!」
軽い。
目が見えていたなら、このままスッとトイレに運ぶ事が出来る。
だが、視界が無い今の俺には、この軽ささえも不安定で恐ろしい。
バランスを崩せば、ひなたごと倒れてしまうし、少し間違えば、ひなたを壁にぶつけてしまう。
すると、俺の左腕に、誰かの冷たい手が添えられた。
(美月……)
彼女は無言で、俺の体を支え、進行方向へ導こうとしてくれている。
「よし、これで歩ける。でも、俺には前が見えない。美月には声が届かない...だから、紬希!」
俺は、部屋のどこかにいるはずの妻の名を呼ぶ。
「は、はいっ!」
「お前が俺の『目』だ! トイレまでのルート、障害物の位置、全部お前が指示してくれ!」
「わ、私が……陽翔さんの、目に……!」
紬希の声が、緊張で裏返る。
でも、すぐに決意を帯びた声に変わった。
「わ、わかりました! 私が、皆さんを安全にトイレまで導きます!」
そして、俺たち家族の、奇妙な陣形が完成した。
荷物を抱える盲目の運び屋が『俺』。
その運び屋を物理的に支える、耳の聞こえないガイドが『美月』。
そして、全体を俯瞰して指示する、手の出せない司令塔が『紬希』。
「しゅ、出発します! ……あ、えっと、まずは直進です! そのまま真っ直ぐ……あと3歩、いや4歩くらいです!」
紬希の指示に従って、俺はおそるおそる足を踏み出す。
左側からは、美月がグイッと体を引いて、微調整をしてくれる。
「きゃっ……! だ、だーりん、気をつけて……!」
「わ、悪い! ……くそっ、見えないってこんなに怖いのか……!」
一歩踏み出すたびに、暗闇の恐怖が襲う。
だが、腕の中のひなたの体温と、左腕の美月の支え、そして紬希の声が、俺を前に進ませる。
「ああっ! 陽翔さん、ストップです! ストップー!!」
紬希の悲鳴に近い声に、俺は急ブレーキをかける。
「な、なんだ!?」
「そ、そこ! 床に、ひなたさんが脱ぎ捨てた靴下が落ちてます!踏んだら滑ります!」
「ひなたぁ」
「えへへ、ごめんね?」
腕の中でひなたが縮こまる。
美月が、足元の異物に気づいたのか、すぐに拾ってポイッと放る。
「よし、クリアです! 次は廊下に出ます! 右に曲がってください! ……あ、美月さんがドアを開けてくれてます!」
視界のない世界で、音と感触だけが頼りだ。
ドアが開く風圧を感じ、俺は廊下へと出る。
「もう少しです! あと3メートルくらい……! 頑張ってください!」
「うぅ……だーりん、急いでぇ……限界がぁ……!」
「わかってる! 落ちるなよ!」
額に汗が滲む。
たかが数メートルのトイレへの道のりが、まるで崖の上を綱渡りをするような大冒険に感じられる。
今、全員の「欠けた歯車」が、ギシギシと音を立てながらも、必死に噛み合って回っているのが分かる。
そして──。
「と、到着です! トイレの前です!」
紬希の声に、俺は深く安堵の息を吐いた。
美月が俺の腕を引き、トイレの中へと誘導してくれる。
そして、美月が蓋を開けてくれた便座の上に、ひなたをゆっくりと下ろす。
「あとは、自分で出来るか?」
「う、うん! 手は動くもん! みんな、ありがとぉ!...早く 出てってぇー!」
ひなたの必死な叫びに、俺たちは慌ててトイレのドアを閉めた。
廊下に取り残された、俺と美月と紬希。
俺は、壁に背中を預けて、ズルズルと座り込んだ。
「はぁ……はぁ……間に合った……」
たかがトイレに行くだけで、この疲労感。
だが、不思議と悪い気分じゃなかった。
「……ふふっ」
近くで、紬希が笑う声がした。
そして、俺の手に、美月の手が重ねられた。
美月は、俺の手の平に指で文字を書く。
『ミ』
『ッ』
『シ』
『ョ』
『ン』
『完』
『了』
漢字は良く分からなかったけど、たぶんそう書いたんだと思う。
俺は、見えない天井を見上げて、小さく笑った。
「ああ……ミッションコンプリートだな」




