第17話 「月下の嘘」
第17話 「月下の嘘」
窓の外を流れる新緑が、やけに鮮やかに見える。
電車の揺れが心地よくて、少しだけ現実から遠ざかっている気がした。
(…まさか、この地獄みたいな1ヶ月の中で、温泉旅行に行けるなんてな)
選択肢が出た瞬間は、訳が分からない選択肢ばかりで困惑した。
でも、Cを選んだ時、ほんの少しだけ心が軽くなった気がした。
(選択肢の内容を実行中ってことは、もう次の選択は出てこない…...はず)
その開放感が、ジワジワと胸の奥に広がっていく。
美月は、隣りで静かに景色を眺めたり、本を読んだりして過ごしている。
その横顔に、少しだけワクワクしている自分がいる。
(美月と温泉か...…そういえば、行ったことなかったよな。現実感はないけど、なんか楽しみだな)
でも──
ふと、紬希とひなたの顔が浮かぶ。
(2人を置いてきたのは、やっぱり忍びない。けど、実体があるってことは、透明な時よりもずっと快適に過ごせるはずだ)
それでも、どうせなら4人で行けたらよかったのになと思ってしまう自分がいる。
そんな、夢のようなことを思った瞬間、ふと、あの選択肢の違和感が頭をよぎった。
(…そういえば、なんでCだけ、2人は留守番だったんだ?)
AもBも、突拍子も無い選択だった。
でも、Cだけは、温泉旅行で他の2人は“留守番”。
(悪魔の罠か?…いや、考えすぎか。たまたま、そういう構成だっただけ。悪魔の気まぐれみたいなもの...…だよな?)
いつの間にか、電車は山の奥へと進んでいた。
川のせせらぎが、窓の外から聞こえてくるのが心地良い。
俺は、心の中のモヤモヤを吐き出す様に、深く息を吐いた。
(余計な事は考えず、今はこの旅を楽しもう)
美月―――
電車の、規則正しい揺れ。
窓の外を流れていく、知らない緑の景色。
隣りには、陽翔がいる。
その横顔を、わたしは本を読むフリをしながら盗み見ていた。
(……何を、考えているのかしら?)
彼は、時々、窓の外をぼんやりと眺めては、ため息をついている。
わたしと、二人きりになれたことを、喜んでいるようには見えなかった。
(まあ、そうでしょうね...)
わたしは、心の中でため息をつく。
お人好しのあなたが、紬希とひなたを家に置いてきて、手放しで喜べるわけがない。
きっと、今も罪悪感で胸を痛めているに違いないわ。
(...本当に、手のかかる男)
でも、その馬鹿正直なまでの優しさが、どうしようもなく愛おしいのだからしょうがない。
わたしは、読んでいた本を、パタン、と閉じた。
その音に、陽翔がハッとしてこちらを見る。
「どうかしたか?」
「…別に」
わたしは、短く答えると、彼の腕に自分の腕をそっと絡ませた。
そして、彼の肩に、わたしの頭を預ける。
「…少し、疲れただけ」
「温泉、遠いもんな...」
陽翔は、それ以上何も聞いてこなかった。
ただ、わたしの好きにさせてくれる。
その、無言の優しさが心地いい。
(いいのよ、陽翔。今はまだ、あの子たちのことを、考えていても)
わたしは、目を閉じる。
(この旅行が終わる頃には、あなたの頭の中は、きっと、わたしでいっぱいになっているはずだから)
わたしは、焦らない。
わたしは、もう、不安に怯えていたわたしじゃない。
わたしは「悪魔」と取引をした。
わたしは「思い出」を捨てた。
今のわたしには、絶対的な「自信」がある。
あなたの、その、罪悪感も優しさも、全て飲み込んで上書きしてしまうくらいの、もっと、強くて深い「快楽」を、あなたに与えることができるという自信がある。
わたしは、陽翔の肩に頭を預けたまま、静かに唇の端を吊り上げた。
(せいぜい、今のうちに感傷に浸っていなさいな。あなたの、甘っちょろい感傷も、今夜、わたしが全部ぐちゃぐちゃに溶かしてあげるんだから)
電車の心地よい揺れが、まるで、これから始まる、甘美な夜への、前奏曲のように聞こえていた。
電車を降りて、しばらく歩くとたどり着いたのは、山の奥深くにある静かな温泉旅館だった。
古いけど、大きな門構えが高級感を漂わせている。
もちろん、ここはわたしが予約したのだけれど。
打ち水がされた、石畳のアプローチを、二人でゆっくりと歩く。
旅館の中に入ると、木の香りと、お香の良い匂いがした。
「ようこそ、お越しくださいました」
女将さんの挨拶の後、仲居さんに案内されて、一番奥にある離れの部屋へ向かう。
部屋のドアを開けると、い草の匂いが鼻をくすぐる広々とした和室だった。
床の間には、高そうな掛け軸と、一輪挿し。
テーブルの上には、地元の名産のお茶菓子が置かれている。
「……すごいな。高かったんじゃないか?ここ」
陽翔が、感心したように部屋を見回している。
わたしは、そんな彼を横目に、部屋の奥にあるガラスのドアを開ける。
その先には―――
「わぁ!」
思わず、声が漏れる。
そこには、信楽焼の、趣のある大きな露天風呂が、湯気を立てていた。
そして、その向こうには、手入れの行き届いた、小さな日本庭園が広がっている。
わたしは、振り返って、陽翔に悪戯っぽく微笑むと、陽翔が駆け寄って来てお湯に手を入れる。
「あったけぇー。もう入る?入っちゃう?」
子供に返ったような無邪気な陽翔を「あとでね」と、たしなめて1度部屋に戻った。
夕食まで少し時間があるので、浴衣に着替えてから、この部屋に着いた時に仲居さんが言っていた、近くの展望台へ行ってみることにした。
夕日が、空をオレンジ色に染めている。
「…綺麗だな」
陽翔が、景色を見て呟く。
わたしは、その景色じゃなくて、陽翔の横顔をじっと見つめる。
「...…ねぇ、陽翔」
「ん?」
「約束...して? 来年の今日も...また、二人でここに来るって」
それは、この地獄のゲームの先では、叶わないかもしれない、儚い約束。
「…………」
陽翔は、言葉に詰まる。
でも、わたしは、彼の答えなんて待たない。
わたしは、彼の小指に自分の小指を絡ませてこう言った。
「指切り、げんまん。嘘ついたら、針千本、飲ますわよ?」
わたしが、悪戯っぽく笑うと、陽翔は困ったように、でも、愛おしそうに笑った。
「そう......出来るといいな」
部屋に戻ると、豪華な夕食が用意されていた。
美味しいお料理と、少しのお酒で、陽翔の心も体も少しずつほぐれていくのが分かる。
わたしは、彼のグラスが空になるたびに、黙ってお酒を注いであげる。
言葉数は、少ない。
でも、お互いの視線が、何度も絡み合う。
その度に、お互いの胸が、高鳴るのが分かった。
夕食の後、陽翔が「涼んでくる」と言って縁側に出たので、わたしも続いて縁側に出る。
空を見上げると、すっかり暗くなっていて、綺麗な満月が昇っていた。
「美月……今日こそ、ダンスしないか?今は、本当に2人きりだし。俺たちだけのダンスホール、だろ?」
「………………え?」
わたしには、陽翔が何を言っているのかが、まったく思い出せなかった。
いや、思い出せないと言うか、そんな事をした覚えがない。
(あ…………)
すぐに分かった。
これが、悪魔との代償。
(わたしの代償は、これだったのね...)
「美月?」
陽翔が、わたしの不自然な反応を見て、顔を覗き込んで来る。
わたしは、罪悪感のせいなのか、反射的に目を逸らしてしまっていた。
陽翔の瞳は、純粋な期待の色に輝いている。
その瞳が、わたしの心を、ナイフで刺しているとも知らずに。
(……ああ、そう。わたしは、こんなにも、綺麗なものを、捨ててしまったのね…)
わたしは、ゆっくりと顔を上げて、陽翔の綺麗な瞳を、まっすぐに見つめ返した。
そして、わたしは、最高の女優になる。
わたしは、ふふっ、と、吐息混じりに妖艶に微笑んだ。
陽翔は、わたしに問いかける。
「……もしかして、忘れたのか?」
「もちろん覚えてるわよ。
…あなたが、馬鹿みたいにわたしを誘ってきた、あの満月の夜のことでしょう?」
わたしは、嘘をついた。
完璧な嘘を。
頭の中には、そんな記憶はどこにもない。
でも、陽翔の嬉しそうな顔を見ているだけで、どんなダンスだったのか、想像がつく。
わたしは、陽翔の首に、そっと、腕を回す。
そして、彼の耳元で囁いた。
「でもね、陽翔...…今夜は、そんな、子供みたいな、ダンスは、おしまい」
わたしは、彼の耳たぶを甘く噛んだ。
「っ!?...美月?」
「わたしが、もっと、素敵な『ダンス』を教えてあげる。あなたが...まだ知らない、もっと、熱くて、激しい大人のダンスをね」
わたしは、陽翔の手を取ると、寝室へと導いていく。
わたしの瞳の奥には、罪悪感も、悲しみも、もうない。
あるのは、ただ、獲物を手に入れるための、冷たい炎だけ。
(ごめんなさい、陽翔)
心の中で、一度だけ謝る。
(思い出なんて、なくてもいいの。
わたしが、これからあなたの全てを、上書きしてあげるんだから)




