第14話 「再点火は、か細い叫びと共に」
第14話 「再点火は、か細い叫びと共に」
どんよりと重たい空気が、リビングに沈んでいた。
俺は、ソファに座ったまま、紬希に何もしてやれない無力感と、次の選択肢への憂鬱で、途方に暮れていた。
美月は、自分の部屋に閉じこもったまま出てくる気配は無い。
美月にも、何か声を掛けなければと思うが、言葉が出てこない。
紬希は、キッチンのテーブルで、椅子に座ったまま、ただ、ぼーっと、虚空を見つめている。
何度声をかけても、ずっと、あんな感じだった。
ひなたは、そんな紬希を心配して、そばに寄り添っている。
「…お腹、空いたな」
不意に、紬希が、ぽつりと呟いた。
その声は、か細くて消え入りそうだったが、ひなたは聞き逃さなかった。
その一言を聞いて、ひなたは急いでキッチンに向かった。
そして、冷蔵庫の中から、サッと皿を取り出した。
ラップをかけてしまっていた、紬希の分の卵焼きだ。
黄金色の卵焼きが、少しだけ、しょんぼりしているように見える。
ひなたは、それをレンジで温める。
そして、味噌汁を温め直して、炊飯器から、ホカホカのご飯を茶碗によそい、卵焼きと共に紬希の前に並べた。
「紬希ちゃん。…朝ごはん、だよ」
紬希は、何も言わない。
ただ、空っぽの瞳で、目の前の卵焼きをじっと見つめている。
ひなたが、諦めかけたその時。
紬希の手が、ゆっくりと持ち上がった。そして、震える指で箸を手に取った。
ひなたは、息を呑んでそれを見守る。
紬希は、自分が作った卵焼きを、箸で一切れつまんだ。
そして、それを、ゆっくりと口に運ぶ。
もぐ、もぐ…。
その、空っぽだった両の瞳から、ツーっ、と、涙が流れ落ちた。
「…あまい」
それは、本当に小さくてか細い声だった。
でも、ひなたには、確かに聞こえていた。
それは、紬希の心が、ほんの少しだけ戻ってきた瞬間だった。
紬希―――
「...あまい」
ぽつり、と呟いたその一言。
それは、私の中に残っていた、最後の陽翔さんへの『大好き』の味だった。
涙が、止まらない。
でも、さっきまでの、空っぽの涙じゃない。
しょっぱくて、温かい涙。
私が、まだ、私でいられるっていう、証拠の涙。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
隣りには、心配そうに私を覗き込んでいる、ひなたさん。
そして、ソファに座って、今にも泣きそうな顔をしている陽翔さん。
(…あ…わたし…なんて、顔、させてるんだろう…私が、こんな、抜け殻みたいに、なっちゃったから…だめだ…このままじゃ、だめだ…私は、陽翔さんの『お家』になるって、決めたじゃない。
明かりが、消えちゃったなんて言って、諦めてる場合じゃ、ない!)
私は、震える手で、もう一度、箸を、握りしめた。
そして、卵焼きを一口食べる。
お味噌汁を、一口すする。
白いご飯を、一口食べる。
味なんて、よくわからない。
でも、食べる。
食べなくちゃ、いけない。
そして、私はゆっくりと立ち上がった。その足は、まだ少しだけ、震えている。
私は、まず、隣りにいるひなたさんの頭を、優しく撫でた。
「…ひなたさん…ありがとう。…おいしかったです」
陽翔―――
俺は、紬希が立ち上がったのを見て、ソファから立ち上がり、すぐさま目の前に飛び出した。
そして、ひざまずいて、その手を両手でぎゅっと握りしめた。
「紬希…!」
俺は、ただ一言、心の底から、絞り出すように言った。
「…ごめん」
それは、紬希を選択出来なかった事への謝罪じゃない。
ただ、愛する妻を、こんなにも傷つけてしまった、その事実そのものへの、どうしようもない謝罪の言葉だ。
そして俺は、紬希の手を自分の額に当てて、震える声でこう続けた。
「…俺は、無力だ。お前を、選んでやりたくても、選べない時がある。
悪魔に、ただ、弄ばれて、お前たちを、傷つけることしか、できない…。
でも…!」
俺は、顔を上げて、涙で潤んだ紬希の瞳を、まっすぐに見つめる。
「でも、俺には、お前が必要なんだ。
お前が作ってくれる、この、卵焼きが、俺の幸せな朝なんだ。
だから、お願いだ。
こんな、無力な、俺だけど…最後まで、そばに、いてくれないか…?」
俺は、凍り付いた紬希の心が溶けるように、祈りを込めて想いを伝えた。
すると、紬希がしゃがんで、俺を抱きしめた。
力は、あまり入っていない。
ただ、自分の体を、俺に預けるように。
「…陽翔さん…ごめんなさい。…心配、かけました」
そして、紬希は、閉ざされたままの寝室のドアに向かって一言。
「…美月さんも…ごめんなさい」
そして、紬希は、もう一度、俺に抱きつくと、俺たちはそのまま床に倒れて紬希の体温が俺の上に重なった。
紬希が、俺の胸の上で小さな声で囁く。でも、俺にははっきりと聞こえていた。
「…私、まだ、戦えますから。
だから…だから、もうちょっとだけ…力を、貸してください…」
それは、ただの、傷ついて疲れ果て、それでも愛する人のためにもう一度立ち上がろうとする、一人の弱い女の子の、か細い叫びだった。




