第11話 「私の戦場」
第11話 「私の戦場」
紬希―――
朝日が、静かにキッチンを照らし始める。
まだ、陽翔さんも、ひなたさんも、美月さんも、眠っている。
静かな、静かな、朝。
私は、一人キッチンに立っていた。
お気に入りの桜色のエプロンを、きゅっと、結び直す。
それは、まるで戦の前に、鎧の紐を締め直す、武士のようだったかもしれない。
(…大丈夫)
私は、自分に言い聞かせる。
(私は、陽翔さんの『お家』になるんだから)
私は、まずお米を研ぐ。
しゃっ、しゃっ、と、冷たい水の中でお米が踊る音がする。
その、いつも通りの音が、私のざわつく心を少しだけ落ち着かせてくれる。
次に、お出汁を取る。
昆布と鰹節が、お鍋の中でコトコトと優しく煮える匂い。
この匂いが、陽翔さんの一日の始まりになるんだ。
(陽翔さん、今日のお味噌汁の具は、何が良いかな?...今日は、お豆腐と、わかめ、かな?)
私は、いつも通り、陽翔さんのことを考える。
陽翔さんの、好きなものを考える。
そして、今朝のメインディッシュ。
冷蔵庫から、卵を取り出す。
(…卵焼き)
昨日の、朝のことを思い出す。
陽翔くんが、私を選んでくれた、あの、甘くて切ない朝のことを。
そして、その、もっともっと昔の、二人だけの幸せな思い出を。
胸の奥が、ちくり、と痛む。
でも、私は首をぶんぶんと横に振った。
(感傷に浸ってる暇なんて、ない)
私は、卵を、コン、コン、と、ボウルに割り入れる。
そして、お砂糖とお醤油を入れる。
でも、今日はいつもより、ほんの少しだけ、お砂糖を多めに入れた。
(陽翔くんが、少しでも甘い気持ちで、一日を始められますように…)
そんな、ささやかな、おまじないを込めて。
しゃか、しゃか、しゃか…。
卵を溶く。
その時、背後でリビングのドアが開く音がした。
陽翔さんだ。
私は、振り返ると、いつも通りのとびっきりの笑顔を作って言った。
「陽翔さん! おはようございます!」
その声が、震えていなかったか、私にはわからない。
でも、私は演じきる。
何も考えず、ただ、陽翔くんを愛しているだけの、幸せなお嫁さんを。
「ふふっ♡ 今日の卵焼きは、昨日よりも、もっと、もーっと、甘くておいしいんですよ? 楽しみにしててくださいね!」
それが、私の戦い方だから。
この、残酷で美しい、日常という戦場で、私は今日も、陽翔くんのために戦うんだ。
ひなた―――
わたしは、陽翔くんが紬希ちゃんのいるキッチンに入っていくのを、ベッドの上からこっそり見ていた。
リビングから、二人の優しい会話が微かに聞こえてくる。
(いいなぁ、紬希ちゃん…わたしも、早く陽翔くんとお話ししたいな…...でも、わたしが、今飛び出していったら、二人の邪魔をしちゃうかも…ううん、そんなのダメだ! わたしは、太陽になるって決めたんだから!)
「よしっ!」
わたしは、勢いよくベッドから飛び起きた!
そして、スリッパをパタパタ鳴らしながら、キッチンにいる二人の元へ駆け寄る!
そして、陽翔くんの後ろから、思いっきり、ぎゅーーーーーって、抱きついた!
「だーりん! 紬希ちゃん! おはよーっ!」
紬希ちゃんは「ひなたさん、おはようございます」って、優しく、微笑んでくれた。
陽翔くんは「うおっ! 危ないだろ!」なんて言いながらも、振り返ったその顔は笑顔。
わたしは、陽翔くんの肩に、あごを乗せて、紬希ちゃんがいるキッチンを眺めた。
「わー! 紬希ちゃんの卵焼き! おいしそー! ねぇ、だーりん、今日の卵焼きは、しょっぱいかな? 甘いかな? わたしはね、だーりんへの、愛がいっぱい詰まった、あまーい卵焼きがいいなー!」
って、わざと大きな声で陽翔くんの耳元で言った。
陽翔くんは「うるさい」って、わたしの頭を、くしゃって撫でる。
その大きな手が、すごく温かい。
わたしは、紬希ちゃんが陽翔くんのために作った、朝の優しい空気を壊しに来たんじゃない。
その、優しい空気に、わたしっていう「太陽の光」を、もっと、もっと、いっぱい注ぎに来たんだ!
三人で、もっと、もっと、笑顔になれるように!
それが、わたしの、戦い方だから!
美月―――
わたしが、リビングに姿を現したのは、ひなたが陽翔に頭を撫でられて、きゃっきゃとはしゃいでいる、その、一番やかましい瞬間だった。
わたしは、もう、いつもの猫柄のもこもこルームウェアじゃない。
さっき、寝室でちゃんと、今日の「戦い」のための戦闘服に着替えてきたのだ。
「…美月さん、おはようございます」
キッチンから聞こえる紬希の声が、わたしの姿を見て、ほんの少しだけ固まったのをわたしは聞き逃さない。
「…おはよう」
わたしは、短く答えるだけ。
「み、美月ちゃん! おはよーっ!」
陽翔の背中にいたひなたの笑顔が、ぴしっ、と凍り付いた。
「…おはよう、美月。…どうしたんだ?朝から、そんな…」
陽翔も、言葉を失って、驚いた顔でわたしを見ている。
わたしは、そんな三人の視線を一身に浴びながら、静かにソファに腰を下ろす。わたしが、今日選んだ服。
それは、シルクみたいに滑らかな、純白のシャツワンピース。
でも、それをただ、清楚に着こなしている訳じゃない。
ボタンをいくつも開けているせいで、胸元が、深く、深く、開いていて、わたしの胸の谷間を、ほとんど隠さずに大胆に晒している。
わたしは、そんな彼らの動揺を楽しむように、優雅に足を組む。
そして、テーブルの上の新聞を静かに広げた。
(…どう、かしら? 紬希、ひなた。あなたたちが、エプロンだの、パーカーだので、子供みたいに、はしゃいでいる間に、わたしは、朝からこうして「女」なのよ)
わたしは、新聞を読みながら心の中で微笑む。
陽翔の視線が、もう、わたしから離せなくなっているのをわたしは知っているから。
わたしは、新聞から顔を上げずに、陽翔に話しかける。
「…陽翔」
「…お、おう…」
「…コーヒー、淹れてくれる?」
「え…?」
「…ミルクは、いらないわ。…朝一番は、あなたの淹れた、濃くて、苦いのが飲みたいの」
その、意味深な言葉に、陽翔がごくりと喉を鳴らすのを、わたしは聞き逃さない。
そして、わたしは今日初めて、陽翔の目をまっすぐに見て、蠱惑的に微笑んだ。
紬希―――
キッチンには、三人の違う温度が渦巻いていた。
陽翔さんの、困惑と、ほんの少しの喜び。
ひなたさんの、太陽みたいな明るさと、ちょっぴりの焦り。
そして、美月さんの全てを見透かすような、静かで冷たい、絶対的な、自信。
(すごい…二人とも…)
私は、その、圧倒的な存在感に、一瞬だけ息を呑んだ。
でも、すぐに、ふふっ、と、小さく微笑んだ。
(でも、ここは、私の戦場ですもの)
私は、熱した四角いフライパンに、さっきおまじないを込めて溶いた卵を、じゅわーっ、と流し込んだ。
甘くて、香ばしい匂いがキッチンに、ふわり、と広がる。
それは、ひなたさんの太陽の匂いとも、美月さんの夜の匂いとも違う。
温かくて、優しくて、誰もが心の奥で求めている、『お家』の匂い。
くるん、ぱたん。
くるん、ぱたん。
私は、誰に見せるでもなく、ただ陽翔さんのためだけに、集中して卵を巻いていく。
美月さんの、あの蠱惑的な挑発も、陽翔さんの揺れる視線も、今はもう気にならない。
私の世界には、今この卵焼きと、それを食べてくれる陽翔さんの笑顔しかないから。
そして、出来上がった黄金色にきらきらと輝く、ふわふわの甘い卵焼き。
私は、それをお皿に綺麗に盛り付けると、いつものお味噌汁と、炊きたての白いご飯と一緒にテーブルへと運んだ。
そして、三人の視線が自分に集まるのを感じながら、私はいつも通りのとびっきりの笑顔で言った。
「陽翔さん♡ ひなたさん、美月さん、どうぞ♡朝ごはんに、しましょう?」
(さあ、選んで、陽翔さん)
心の中で、私は呟く。
(あなたが、本当に帰ってきたい場所は、どこなのかを。この、朝ごはんが、その、答えですよ)
―――その瞬間、世界が止まった。




