#4 AIコモンズ
コモンズ・カフェは予想通り空いていた。佐伯部長の姿も9階メンバーも見当たらず、少々残念に思いながら、カウンター越しに店長に「こんにちわ」と声をかけた。
「あ、いらっしゃい。本宮さん。今日から新メニューのトマトそぼろ丼が入りましたよ」
「じゃあ、それにします」
タッチパネルで『トマトそぼろ丼』、『DRIスタッフ』と選択すると、脇にある縦長の決済端末に視線をやる。黒光りする鏡のような端末。その奥で一瞬だけ小さな赤い光が灯り『シャリン』と音が鳴った。と同時に、ポケットの中でスマホが振動する。
DRI職員専用の虹彩認証決済は、従業員割引が適用され、表示されている金額の2割引き。入口脇にあるコーヒーベンダーも割引対象で、私は席につく前にコーヒーを淹れ、湯気の立つカップを手に窓向きのカウンター席に腰を下ろした。
「本宮さん、お待たせしました」
気安く声をかけてきたのは、あご髭がトレードマークの、コモンズ・カフェの店長。
「全然待ってませんよ。どの店より早いです」
「まあ、うちは仕込みが9割ですからね」
彼はそう言ってカウンター奥に戻っていく。
7階フロアを借りているのはDRIだが、カフェを運営しているのは障がい者就労支援をしているNPO法人「ひかり」だった。
郊外にある「ひかり工房」で下準備された食品を、府内各所にある店舗で最終調理を行って提供している。NPO法人「ひかり」は、リテラ・ノヴァと同じような、AI関連の助成金を受け取っているらしかった。
2030年代後半――具体的には流通AIフリーズをきっかけに、政府のAI政策は大きく方針転換した。それまでの経済成長を目的としたAI利用から、雇用喪失や経済格差といった社会問題の解決にAIを活用する方向へと転換し、そのための助成金を支給するようになったのだ。
例えば、過疎化が進む地方における地域自律型エネルギーやフードコモンズへのAIの導入。巨大テック企業のデータ独占に対抗するため、市民が自分の個人データを管理し、公共に活用できるパーソナル・データコモンズ。AIが収集した市民の声を行政に反映させるAI協働型公共サービスデザインなどがそうだ。これらはAIと人の力を合わせ、新たな共有の形を生み出そうとするもの。
DRIは「デジタルコモンズ構築事業助成金」の支給を受けているし、AIコモンズ実証モデル事業として認可されることでAI税も免除となる。こういった政策転換の影響で、2040年代に入って「コモンズ再構築」の動きが日本各地で盛り上がりを見せた。DRIはその先駆けと言っていい。NPO法人「ひかり」のような、AIコモンズを介した横の繋がりは、佐伯部長が地道に築いてきたものだ。
憧れても、憧れても、佐伯部長のようにはなれないだろうと思う。そもそも、弁護士になれるような頭脳はない。ただ、佐伯部長の理念と情熱くらいは、自分も胸に持っていたいと思う。
私が佐伯部長の姿を初めて見たのは、リテラ・ノヴァの公式アカウントに投稿された、サイト開設にあたっての挨拶動画だった。そこには、眼鏡をかけ、キリッとした眼差しでリテラ・ノヴァについて話す女性がいた。
『――私たちはこのAI翻案図書館「リテラ・ノヴァ」によって、新たな文学を提供します。そして、ここで生み出された新たな文学が、人々の共有財産として広く普及することを願っています。
多くのコンテンツが飽和状態にある現代では、活字離れを危惧する声は徐々に小さくなっています。しかし、文字を理解し、文章に込められた意図を読み解く能力は、活字に触れることでしか育まれません。
2030年代には地方の本屋は消滅したと言われるほどにまで減少。それだけでなく、公営図書館も次々と合併・閉鎖していっているのが現実です。
電子書籍はありますが、経済格差が顕著になったこの時代、書籍にお金をかけられない世帯は想像以上に多い。
これらの問題の解決策として、DRIが提案するのがAI翻案図書館です。誰もが無料でアクセスでき、文学に公平に触れられる場所。
翻案という形をとったのは、著作権フリーのネット図書館サイトはすでに存在するという理由もありますし、もうひとつ、読者と著作物の間の時代差を解消する目的もあります。
著作権が消滅するのは著作者の没後70年。70年前というと、1970年代です。そして、著作権フリーの作品の多くはそれよりもっと古い時代のもの。現代とは言葉遣いも、好まれるジャンルも異なります。そういった時代差を埋め、より現代人に馴染む形で翻案することで、文字で物語を読むという体験へのハードルを下げられたらと考えたのです――』
この動画は、未だに私のスマートフォンに保存されている。佐伯部長の語ったリテラ・ノヴァの理念に共感し、彼女に憧れ、そして私は今DRIでキュレーターをしている。
「理久さん、何食べてるんですか?」
横から顔をのぞき込んできたのは蒼君だった。コーヒーカップを手にした彼は、当たり前のように私の隣に座る。
「トマトそぼろ丼。ちょっとピリ辛でおいしいよ。蒼君はご飯? コーヒーだけ?」
「脳が溶けそうなので、コーヒー飲みに来ました」
蒼君はそう言ってコーヒーをすする。いつも通り表情は乏しく淡々とした口調だが、目元がちょっと疲れているようだった。
「AI翻案ブーム落ち着いてきたけど、9階はまだ忙しい?」
「そっちは全然問題ありません。翻案ミュージックのほうにちょっとバグが見つかって、それで徹夜で直してたんです。エントランスロビーでの企画展示が終わったら、コネクト・アベニューに貸し出すことになってるので、今のうちにできるだけいい感じに仕上げておきたくて。
あっ、そうだ。コネクト・アベニューでやるなら、西京っぽいイメージ映像と音楽になるようにしたらいいんじゃないかと思うんですけど」
「いい感じの画像データと音源が欲しいってこと?」
「はい。僕もいちおうあたってみますけど、コンテンツ・キュレーション部の人脈を頼った方がいいのは明らかなので。ひとまず、うちの合田部長から佐伯部長に話すってことでしたから、その後に理久さんたちのところに話が行くと思います」
「わかった。いざとなったらうちの部署総出で西京の景色撮ってくるね」
私の言葉に、蒼君はフッと笑みを浮かべる。が、ヴーッという振動音でその笑みは消えた。
「新田さんだ。そろそろ戻りますね。帰る前に打ち合わせておかないといけないことあるので」
「あっ、徹夜明けってことは昨日夜勤だったんじゃない。だったらもう帰ってる時間でしょ」
「夜勤じゃなくて勝手に残っただけです。それに、仮眠もとったので」
蒼君はひとつあくびをすると、飲みかけのコーヒーを手に戻っていった。ものの5分もいただろうか。彼の姿が見えなくなった後で、例の「#泥棒図書館」の投稿のことを聞けなかったのに気づいた。
「ま、いっか」
わざわざ聞くまでもなく、あの投稿はリテラ・ノヴァのものではない。ただ、「雑な文体模倣ですね」と、蒼君にいつもの口調で言ってほしかっただけだ。
いつの間にかカフェの客は私だけになり、店長が隣のテーブルを拭きながら「流通AIフリーズから8年ですってね」と声をかけてきた。
「8年も経ったらAIも進化してるんでしょうけど、もし西京で同じようなことが起きたらって思ったら、ちょっと怖くなります」
「でも、ひかり工房でもAI使ってるんですよね?」
「使ってるから余計に怖いんです。AIが暴走してうちのシステムが停まったらどうしようって、時々考えますよ。うちはDRIさんとは違ってエンジニアを抱えてるわけじゃないですし」
喋っている内容とは裏腹に、店長はいつも通りの人懐こい笑顔のまま。テーブルを片付けると、またカウンターの中に戻っていった。
私は「流通AIフリーズの時、佐伯部長は東都にいたんだって」という市原の話を思い出し、トマトを口に運びつつ、スマホでさっきの記事を開いた。
記事は硬派とされる東経新聞社が提供するもので、数ページに渡って専門的な分析がなされている。
『今から8年前、東都の生活基盤を支えていた統合ロジスティクスAI「メトロ・ロジ」が突如として機能停止した。いわゆる、東都スマートロジスティクス大混乱事件(通称:流通AIフリーズ)だ。
当時、AI社会実装モデルの最先端として超効率的な流通網を誇っていたメトロ・ロジ。その完璧な管理システムが狂い始めたのは、2035年5月28日午前8時7分。東都近郊で発生した震度5弱の地震がきっかけだった。
最初、地震の影響で通信インフラが瞬間的に乱れた。そこへ、メトロ・ロジの学習データに潜んでいた特定の気象条件下でのルート最適化に関する微細なバイアスが作用した。メトロ・ロジはこれらの複合要因を「未曾有の効率低下事態」と認識し、最適化を図る。そして、過剰かつ矛盾した緊急ルート変更指示を大量に生成し始めたのだ。
間をおかず東都は混乱に陥った。自動配送トラックは身動きが取れなくなり、配送ドローンはフリーズ。そして午前8時23分、メトロ・ロジは自ら「最適化の停止=機能停止」という結論を下して沈黙する。
5月31日まで、4日間に渡って東都都市圏の物流は完全停止。その影響は甚大だ。
交通網が麻痺したことで帰宅困難者が溢れ、スーパーやコンビニの棚からは商品が消え、医薬品の配送も止まった。死傷者こそ出なかったものの、最終的には数千億円規模の経済的損失が発生した。被害状況については次項で詳細に検証する。
この事件が浮き彫りにしたのは、人々の生活がいかにAIに依存し、その脆弱性がどれほど大きいかということだ。同時に、AIのブラックボックス性と予測不能な判断ロジックが、人間にとって脅威であることを再確認させた。AIの利便性を享受し、ぬるま湯に浸かっていた人々に冷水を浴びせるものだったことは間違いない。
日本社会では「AIをこのまま放置すれば、社会は根底から揺らぐ」という危機感が共有され、AI社会安定化法が制定されることになる。また、首都機能分散が加速したのもこの事件がきっかけだが――』
私は、高校の修学旅行で東都を訪れた時のことを考えた。流通AIフリーズ以前のことだ。
記事には、流通AIフリーズ前には格差が存在しなかったような書かれ方をしている。しかし、事件発生前に見た東都の景色は、十分に格差を実感させるものだった。高校3年当時の担任は、電車移動中に窓外を指さしながらこんな話をしていたはずだ。
『この景色の差は、行き過ぎた資本主義が生み出したものだ。見ての通り、東都21区と周辺地区では、タイムスリップしたのではないかと目を疑いたくなるほど景色が違う。
少子高齢化と人口減少によって都市部にめちゃくちゃ人が集まって、2030年代初頭にはすでに飽和状態だった。そのせいで地価も家賃も高騰した。一方で、過密状態の交通・流通を捌くために、AGI――人工汎用知能の社会実装が政府主導でどんどん推し進められた。これによって、さらに都心部と周辺の格差は拡大したんだ。
都心部には金をジャブジャブ使ってAGI対応のインフラが整備される一方、周辺地域では老朽化したインフラの修繕・更新工事も追いつかない。
西京はまだ東都ほどじゃないが、今後は他人事でなくなるかもなぁ』
担任の解説は駅に到着して終了したが、たまに実家に帰省するたび、「他人事ではなくなるかもなぁ」という当時の担任の嗄れ声を時々思い出す。
2033年から2041年の間に、関西にある堂坂府と西京府に移転された首都機能は全体の約7割。そして、デジタル関連省庁が西京府に移されたことで、東都の姿は「他人事」ではなくなった。
西京府にもAI格差は確実に存在し、拡大している。2035年に流通AIフリーズという重大インシデントが発生しても、人間はAIの利便性を手放すことはできなかった。
私の生活圏である西京駅付近と、実家のある山裾の茶楠町とでは、AI導入にも物理的社会インフラにも大きな格差が存在する。それでも、茶楠町はAI協働型公共福祉サービス実証地区に指定されているためマシな方だ。茶楠町と峠を隔てた堂坂府の室岩町は、都市部なら1日で配送される商品が、1週間経っても届かないなんてこともあるらしい。配送を効率化した結果の歪みだ。
世間一般では、AIタクシーやAIバス、自動配送ドローンなどによる無人配送、自動運転車など、AI進化で人は必要なくなったと言われるが、それらはすべて必要な整備がされてこそ成り立つサービス。室岩町のようにインフラ修理もまともに進んでいない地区では、自動配送などできるはずがない。
日本国民全員が享受できるAIサービスは、物理サービスではなく、ネットを介したものだ。田舎の大変さを知っているからこそ、私は文学コモンズを掲げるDRIに共感した。
勝手な憶測だけれど、蒼君が高額オファーを蹴ってDRIに入社したのも、私と同じ理由なのではないかと思っている。彼も、実家は地方の田舎のはずだから。