#3 芥河賞作家
糸井部長との会話が中途半端に終わったせいで、大学時代の恋人・結城匠真のことが次々と脳内に蘇ってきた。
何の因果か、彼も芥河賞作家――いや、そうじゃない。匠真が芥河賞作家になっていたから、私は同じ芥河賞作家の平井颯人に営業をかけたのかもしれない。
匠真が受賞したのは2039年。付き合っていたのはその何年も前の1年間ほど。私が大学1年から2年の時で、匠真は同じ西京大学文学部の院生だった。彼は趣味で小説を書いており、文学の好みが似ていてすぐに意気投合した。
別れた原因は、私がDRIへの就職を希望したこと。リテラ・ノヴァが開設された直後だ。
匠真はもともと反AI寄りだった。「アナログ人間」を自称していたくらいで、リテラ・ノヴァの意義について私がいくら説明しても、「理解不能」「作家への冒涜」と罵った。そして、激しい口論の末に彼との関係は木っ端微塵に砕け散った。
彼は大学院を出たあとも非常勤として西京大学に在籍していたから、私は卒業までなるべく顔を合わせないように避けていた。向こうにしてみれば私のその態度も気に食わなかったに違いない。でも、私としてはそうするしかなかったのだ。
作家・結城匠真への尊敬の気持ちを失いたくなかった。私と別れた直後に彼が新人賞を受賞して作家デビューしたからこそ、読者として彼を応援し続けるために必要な防御策だった。
彼が芥河賞を受賞した時、私はDRI入社1年目。メールを送ろうとしたが結局送信できず、「おめでとう」と伝えたのは受賞から1年後。コネクト・アベニューにある本屋『Grimoire』の前で偶然顔を合わせた。彼は「ああ、おかげさまで」と以前と変わらない皮肉っぽい口調で言い、それだけの会話で別れた。
今も、結城の新しい著作が出れば予約購入する。彼の文章を目にするたび、一緒に過ごした日々と、あの日の口論を思い出すけれど、ページをめくればそれは遠い別世界のことになった。
彼の作品は人を引き込む力がある。だから、応援したいという気持ちが消えたことは一度もない。普段は傲慢に見える結城が、その内側に隠した繊細な部分を小説としてさらけ出す。それは崇高な行為のようにも思えた。
「話してると価値観は全然あわないんだけど、そうでもないってことなのかな」
ため息をつき、私はビルの隙間にかすかに見える清川寺の屋根に目をやった。
西京府でも山に囲まれた農村部の茶農家で育ったからか、鬱々した気分になると無性に緑の木々が恋しくなる。DRIオフィス周辺は建築規制が厳しく、高層ビルがないからマシな方なんだけど――と思いながら、グッと背をそらし、こめかみを揉みほぐした。
「今週末は、書架の小径に行くついでに清川寺まで足を伸ばしてみようかな」
「週末の清川寺なんて、地元民が行くもんじゃないわよ」
同僚のキュレーター、市原の声がして振り返った。キッズルームにいる3歳の息子、快くんとのランチタイムは終わったらしい。
「市原、快くん連れて清川寺に行ったの? 大変じゃない?」
「大変どころじゃないわよ。旦那の休みに合わせて日曜に行ったんだけど、人は多いし、週末は府民割引きはできないとか言われるし。もう土日祝日には絶対行かないって決めたわ」
彼女はうんざりした様子で「書架の小径までにしときな」と首を振った。
書架の小径というのは、大正時代を思わせる、趣ある石畳の古書店街だ。最寄りの笹浦駅からほど近い場所にあり、その小径を仁井山山麓へ向かって歩いて行くと、老舗の宿屋や料理屋がひしめく一角に出る。そのさらに先には蛇行した坂道が続き、20分ほどで清川寺周辺の観光地に行き着く。
「清川寺から近いわりに、笹浦駅周辺はそんなに混んでないのよね」
「清川寺目当ての観光客はたいていシャトルバスを利用するから。それに、この活字離れのご時世、古書店街に足を運ぶのなんて完全なマニア。理久もそこのところちゃんと自覚しなさい。DRIでキュレーターなんてやってると、世の中の人がみんな本読んでるような気になるけど、それ幻覚だからね」
市原の大袈裟な言い方に、思わずフッと笑みが漏れる。
「自覚してるよ。でも、出版社で働いてる人ほど危機感感じてないかも」
ここは出版社ではなく、翻案図書館サイト『リテラ・ノヴァ』を運営するNPO法人だ。
「理久、お昼ごはんまだなんでしょ? 行ってくれば。今なら佐伯部長と同席できるかもよ。コモンズ・カフェに行ったみたいだから」
市原はいやらしい笑みを浮かべ、ククッと声をもらす。私が佐伯部長に憧れて入社したことも、その一方で仕事に厳しい佐伯部長を恐れていることも知っているのだ。
「佐伯部長は忙しいからテイクアウトじゃない?」
「かもね」と言いながら、市原は何かに気づいたように私のパソコン画面をのぞき込んだ。
「何?」
「今日って流通AIフリーズが起きた日なんだね」
市原が指さしたのは、Pitterのタイムライン。
『東都流通AIフリーズから丸8年、東都衰退の実態』
そんな見出しのついたニュースサイトへのリンクがあった。サムネイル表示には上空から写した東都都心部。出張で訪れたことのある、東都府の景色が頭をかすめた。
街路樹や公園の人工林はあっても、空を背景にした山並みはどこにもない、無機質なジャングル。何度行っても「ここには住めない」という感想しか出てこない場所。
「理久、知ってた?
流通AIフリーズの時、佐伯部長、東都にいたんだって。大変だったらしいよって、糸井部長が言ってた」
「へえ、初耳。流通AIフリーズって、たしかリテラ・ノヴァができる1年前くらいでしょ?」
「たぶんそれくらいだと思う。佐伯部長がいつまで東都で弁護士やってたのかは知らないけど、DRIの準備始めててもいい頃よね。
あっ! そうそう。理久、『パロスト!』集団訴訟って知ってる? 2030年あたりだから、私たちが中学生くらいの頃」
「著作権関連の訴訟でしょ? 著作権者の許可なく、小説を片っ端から学習させた違法なAI翻案アプリ『パロスト!』の被害者の作家たちが起こした。それくらいは知ってる。でも、そんなアプリが作られるなんて、10年ちょっと前はまだ小説ニーズがあったってことよね」
「たしかにそれも驚きだけど、あの『パロスト!』訴訟の時に代理人を務めた弁護士、佐伯部長だったんだって」
「ほんと?」
「ほんと、ほんと。総務の岸田さん情報だもん」
「佐伯部長はその訴訟担当したから、リテラ・ノヴァ作ったのかな?」
「そこまでは知らない。でも、そんな感じするよね」
市原の情報力に感心しつつ、私は流通AIフリーズの記事を開く。すると、記事本文の上にある動画が消音で再生され始めた。
当時、ニュースで何度も見た映像。首都高速だけでなく一般道のあちこちで車が渋滞し、警告灯を点滅させた救急車が行き場を失って迂回している。コンビニ前で、決済システムが麻痺して何も買えないと訴える人々の言葉を伝えるテロップが流れる。
「理久、ちゃんとご飯食べてきなさい」
市原が、子どもを躾けるように手のひらで視界を遮った。時刻は14時半になろうとしている。
子どもを預けるついでに朝早くに出勤する市原と違って、独り身の私は遅め出勤の遅帰り。ランチはだいたいこれくらいの時間だった。昼時はどこの店も混んでるからこれくらいがちょどいい。それは、7階にあるコモンズ・カフェも例外ではない。
「9階メンバーもコモンズ・カフェに行くのこのくらいの時間だよね」と市原。
「うん。誰か1人くらいはいるかも」
9階メンバーというのは、9階フロアにあるAI開発・アルゴリズム研究部のエンジニアたちのことだ。市原の言う通りコモンズ・カフェでよく顔を合わせるせいか、8階にある総務部、倫理法務部、カウンセリング・サポート部、コンテンツ・キュレーション部の平職員の中では、おそらく私が最も9階メンバーと親しい。
「選び放題なんだから、9階から彼氏探したら? 天才エンジニアの惣領君、他の人には無愛想なのに、理久にはよく話しかけてるじゃない」
「蒼君は別に無愛想ってわけじゃないよ。9階の人とはよく冗談言い合ってるし、ただ、喜怒哀楽があまり表情に出ないから無愛想に見えるだけ」
「それを理解してる時点で尊敬する。完全文系の私からすると、9階は頭のいい理系集団でしょ。意思疎通できる気がしない」
「それ、絶対ウソ。市原は誰とでもフランクに喋るじゃない。9階メンバーと顔合わせる機会がないだけでしょ」
「たしかに誰とも仲良くなれる自信はあるわ。でも、佐伯部長には絶対フランクに話しかけれない」
「あったりまえでしょ」
私はパソコンの電源を落として席を立ち、エレベーターに向かった。もう1人のキュレーター、櫻井さんに教えてもらったスープカレー店に行くつもりだったけれど、予定変更して7階のボタンを押す。
7階のコモンズ・カフェに行けば、9階メンバーがいるかもしれない。さっき見つけたハヤト文体模倣の投稿について、天才エンジニアの蒼君に意見を聞いてみたかった。
蒼君は24歳。9階メンバーの中では一番若手だけれど、高専時代にAIロボコンでチームを率いて優勝し、数多の企業から声がかかったという逸材だ。提示された高額報酬を蹴ってNPOに選んだ、傍目から見ればちょっとした変わり種。
さっきは市原に反論したけれど、私も蒼君と初めて顔を合わせた時は冷たそうな印象を持った。私と同い年のAIエンジニア新田一希君の話では、「情報工学系の高専はほとんど男ばかりだから、惣領は女性と話すのに慣れてない」ということだった。距離を測りながら少しずつ声をかけていたら、今では向こうから話しかけてくれる。
「佐伯部長もいるかな。いたら、部長に先にあの投稿のこと話すべき?」
独り言はやめようと思ってるのに、エレベーターで1人きりになるとつい口をついて出る。7階に着くと、エントランスロビーで開催中の「翻案ミュージック」を体験している人がいた。
「翻案ミュージック」は翻案マイクロノベルを利用したものだ。その場で翻案生成すると、その文章に合わせた音楽が流れ、デジタルサイネージでイメージ映像を視聴するというもの。イメージ映像と言ってもアニメーションや実写映像のようなものではなく、自然を素材としたデータセットを利用した、強いて言うなら「森羅万象を表現した万華鏡」のような映像。そこに溶け込むように、生成された言葉が流れていく。
9台のサイネージを使って壁一面に映し出されるため、自分の生成物がその場で他者の目に触れることになる。翻案生成したのは私と同年代くらいの女性。奥にある多目的スペース「リテラ・ラボ」の扉の傍らで、何人かが壁に持たれてサイネージに見入っていた。
私も、足を止めて1分半ほどの映像を眺める。それが終わり、コンテンツ・キュレーション部で用意した翻案マイクロノベルのイメージ映像が再生され始めると、女性はサイネージに背を向けた。偶然目が合い、お互いペコリと頭を下げる。
たまにコモンズ・カフェで見かけるお客さんだった。服装がカジュアルで、おそらくコネクト・アベニューのショップ店員だろうと想像している。彼女がエレベーターに乗り込むのを横目に、私はコモンズ・カフェのガラス扉を押し開けた。