夢の終わり
幸福な夢の中にいるようだった。世界の全ては遠く、代わりに心地の良い繭の中のような柔らかい空気が周囲にまとわりつく。
隣には愛する人がいる。手を握れば握り返してくれる。顔を見合わせれば微笑んでくれる。それ以上、何を望むのだろう。繭の外には喧騒がある。だがそれは、自分達には全く関係のないことだ。
そう思っていたのに、ふいに顔を上げた瞬間、目が合った。
「フィオナ!」
外野から青年がフィオナの名を呼ぶ。
「フィオナ、中から攻撃魔術を放ってくれ!」
彼は言った側から竜が吐き出した炎の礫を食らいかける。
(危ない――!)
フィオナは立ち上がりかけたが、青年は上手く躱し、間一髪逃げおおせたようだ。フィオナの両耳を、ルイの両手が優しく覆う。
「耳を貸す必要はない」
「ルイ様、だけど、皆戦っています」
フィオナはルイの両手を更に自分の手で覆った。
観客席から劇を見ているような曖昧で遠い感覚だが、フィオナの見知った顔が竜族と交戦しているのは分かった。自分はこのままこうして座っていていいのか、という焦燥もあった。
と、今度は先程とは別の方向から青年の声がした。
「フィオナ、周囲を見てくれ! 貴女の臣下達が戦っている。貴女を取り戻し、レオンローズに打ち勝つために! だがこのままだと押し負ける! 結界を破ってくれ! いつまで閉じこもっているつもりだ!」
青年――そうだ。ルークス・ファルトルだ、と彼の名前を思い出した。
ルークスは必死な瞳でそう呼びかけながら、フィオナだけを見つめていた。
「貴方にわたしの何が分かるというのです」
気づけばフィオナはそう口走っていた。
貴方は自分勝手に死んでしまって、他力本願な願いだけをわたしに残した。――幸せになってくれという、ひどく卑怯でずるい願いを。
あまりにも、わたし達は語らなかった。本心を、愛情を、過去や未来を。
(貴方はわたしを知ろうとしなかったくせに)
それなのに、今更また現れて、わたしの全てを知ったような口を効く。
(貴方は本当にひどい人だった)
ルークスの青い瞳はフィオナの心に毒を送り続ける。フィオナが抱く過去の無念が、あの瞳に投影される。曖昧な夢の中にあるような思考では、ルークスの瞳はフィオナにとって、ルイそのものだった。隣にいる男よりも、より生々しくフィオナにルイを思い起こさせた。
「貴女の心の拠り所は、本当にルイ・ベルトールだけだったのか! 貴女の側には、命がけで支えてきた奴らがいたはずだ! 目を覚ませフィオナ、貴女はそんなに弱くないだろう!」
「ちょこざい男だ。私が行きます」
リーデルがそう言い残し、巨大な竜の姿になりルークスに襲いかかっていく。ルークスは魔術で対抗しようとするが一手遅い。リーデルの鋭い牙がルークスの体に突き刺さった。真っ赤な血しぶきが空中に舞う。
ルークスの右腕がないことに、フィオナはその時初めて気づいた。
思い出したのは、遥か昔のことだった。
十六年間過ごした塔に別れを告げた日のこと。彼の赤い瞳を見た時の胸の疼き。得た友人のこと。腕と目を無くした彼を救い出した時のこと。自分が何者かを知った日。守れずに失ってしまった人たちのこと。慟哭と無念、そして再起を誓った日のこと。戦い抜いて王になり、平和を守り続けたのは、悲しみを抱えた世界で愛する人達が生きるのは嫌だったからだ。
大切な人達は無限に現れる。たとえその人がいなくなってしまっても、また新たに愛する人々が生まれてくる。だからこの世界を守りたかった。
フィオナの目を開き、世界の広がりを見せてくれたのは間違いなくルイだった。だがその世界で生き抜いてきたのは、フィオナ自身だった。
瞬間、フィオナの目は覚めた。
何が起こっているのか把握する。
リーデルは竜の姿になったクロエとレティスにより攻撃され、一旦空へと引いた。その間に、ルークスが助け出される。深手を負っているらしい彼は意識がなく、別の者によって治癒の魔術を施されていた。
レオンローズは、それを鋭敏に察知する。彼は体を目の前の戦闘に向けたまま、振り向かずにフィオナに声をかけた。
「私と戦えば、ルイ・ベルトールは死ぬ」
フィオナが両手を彼に向けて魔法陣を出したことを知っているのだ。
「ルイ・ベルトールは私の魔力を供給されて動いている」
はっとして、フィオナはルイを見た。彼は未だに微笑みをフィオナに向けているだけだった。レオンローズは再び言う。
「貴女が彼と共に生きるには、あの暴れている反逆者共を鎮圧した後、ただ一言、言えばいい。“東大陸の全てをレオンローズに移譲する”と。難しい話ではありませんよ。それだけで、失ってしまった愛する人と一緒にいられるのだから安いものでしょう?」
フィオナはルイだけを見つめる。ルイもフィオナだけをその瞳に映していた。
「大丈夫だフィオナ。何も心配しなくていい」
ルイ・ベルトールを殺したのは白銀ではない。彼を殺したのはフィオナだ。彼の心臓を貫き、命を奪ったのはフィオナだった。
こんな場所で貴方の幻を見つけてしまったから、わたしは狂ってしまった。姿形も声も仕草も、何もかも彼そのものだったから。わたしが奪った貴方が完璧な姿でまた現れてくれた。そんな夢に縋り付いていたかった。
だけど――。
「ルイ様は、東大陸を命がけで守ったんです。その遺志を継いで、わたしは大陸を統治してきました」
自分の声は存外しっかりと耳の内に響いた。自分を自分で支配していた。
「レオンローズ。貴方の言う通り、わたしはルイ様を失ってしまったんです。だけど失ってしまったから、今のわたしがあるんです。喪失さえも彼だった。わたしはそんな彼ごと、愛していたはずなのに」
レオンローズはフィオナに支配の魔術をかけていたのだろう。精神を支配するには、主従関係やそれに近いものが望ましい。だからレオンローズは、ルイを使ってフィオナの心を手に入れた。だがそれはもう、解けた。
「あんな風に、終わらせて欲しくなかった」
別れの言葉の一つもなく死に向かったルイに対して、フィオナがいつも抱くのは無念と後悔と深い悲しみの念だった。だが今更ながら怒りが湧いた。
「誇り高き死ではなく、醜くても生にしがみついてほしかった。貴方は一度でも、生きたいと思っていたのでしょうか」
だがそれを、この“ルイ・ベルトール”に言ったところで無意味だ。彼は魂のない、レオンローズの操り人形に過ぎないのだから。
今もフィオナに向かって微笑んでいる。
「わたしとルイ様は出会いから別れまで、何もかも噛み合わないままだったんです。わたしは彼の思い通りにはならなかったし、彼もわたしの思うようにはなってくれなかった。わたしに都合の良い言葉ばかりくれる貴方は――」
フィオナもルイに向かって微笑みかけた。
「貴方はやっぱり、偽物ですね」
魔法陣に溜め込んだ魔力を、フィオナはレオンローズと結界に向かって解き放った。
あらゆることが連続して起こり続けていた。
フィオナの放った魔術は、防御魔術による結界に内側から穴を開け、そこを外側にいた味方が更に攻撃を放ちこじ開けた。
広がった隙間から使者と臣下等は雪崩込み、護衛と交戦が始まる。
攻撃を受けたレオンローズは手に持っていた剣を弾き飛ばされたが、彼自身は無傷のまま、即座にフィオナに向かって攻撃魔術を放つ。
フィオナは防御魔法によりそれを防ごうとしたが、至近距離からの圧縮された攻撃は質量を伴い、わずかに押し負け腕に当たる。メキりと腕が折れた音がした。故に、出遅れる。レオンローズはその隙に、体を巨大な竜に変化させ――変化させたところで、動力を失った機械人形のようにその場に崩れ落ちた。
逃げ遅れた護衛の幾人かがその下敷きになり潰された。
レオンローズの頭蓋には、垂直に剣が突き刺さっている。それは彼が先程掲げていた“竜殺し”と呼ばれていた剣だった。尤も、そこに捧げられた魂は三百年前に既に失せ、今や単なる剣に過ぎなかったが。
フィオナのすぐ横で、ルイ・ベルトールも同様に地面に倒れたが、あまり気にならなかった。
死んだレオンローズを見てルークス・ファルトルは苦々しげに毒づいた。
「人を殺したの、初めてだ」
言いたいことが山程あった。
礼を言うべきだ、いやそのまえに謝罪だろう。
それにしても、竜の殺し方なんてよく知っていたわ。さっき貴方は怪我をしていたけれど、その傷はもう治してもらったの? 剣が、貴方の前に偶然落ちたの? その剣、それはルイ様が使っていたものよ。今はもう、そこに魔力はなくて単なる剣だけど。その剣の柄、随分前に盗まれてしまって、今こうして、ここに戻ってきて良かった。
しかしフィオナは何も言えなかった。
「ルークス……」
ただ彼の名を呼んだ。
ルークスはレオンローズから剣を引き抜くと、しばし逡巡したような間の後で、彼の顔がゆっくりとフィオナに向けられ、遅れて瞳が追いついた。あの美しく煌めく宝石のような青い瞳がフィオナを見る。
「貴女のためだけじゃない」
フィオナが何も言わないうちから、ルークスはそう言った。
「俺は俺のためにレオンローズを殺した。東大陸をこいつらに、くれてやるわけにはいかないんだ。俺の愛する全てが、あそこにあるんだから」
フィオナはやはり何も答えられず、固まっていた。
ルークスのことを、賑やかな人だと思っていた。だが今、目の前で佇む彼を静けさが取り囲んでいた。静けさの中に、怒りと強さが同居する。フィオナはそこに、懐かしい者達の姿を見た。
だがそれも、わずかな間だけだった。
突如、ルークスの後頭部を剣が貫いた。剣は頭蓋から左目にかけて通り抜ける。
世界の時が、遅くなったように思えた。ルークスの体が崩れ落ち、その背後から剣を引き抜いたリーデルの姿が現れる。
皆がレオンローズの死に注視していたその時に、彼は主君の仇を討つべくルークスに忍び寄っていたらしい。そうして見事討ち取ったのだ。
ルークスはこうして死んだ。




