つがいと出会ったあなた
フィオナの足下にはまだ本の頁が開かれている。
――こうしてお姫様と王子様は結ばれて、幸せにくらしましたとさ。めでたしめでたし。
物語の締めくくりのその頁には、そう書かれていた。
だからフィオナはこう言った。
「もしかして、王子様――?」
そんなはずはないと思いながらも、彼に引き寄せられるようにしてそう言った。
「わたしを助けに来てくださったの?」
言ってから思う。自分は何から助けてもらいたいのだろうと。
思わず漏れた小さな呟きを、鋭敏に彼は拾い上げた。
「――は?」
呆気に取られたかのように、彼はフィオナを見つめた。返事に苦慮しているようにも見えた。放心するフィオナの一方で、男は次には疑うように眉根を寄せた。
「どういうつもりでそう尋ねる?」
猜疑心を大いに含んだ彼の声にも、フィオナの胸はまた強く鼓動しただけだった。
(なんて綺麗な声なんだろう――)
それしか考えれなかった。
男が疑うような、“どういうつもり”も、フィオナにはなかった。フィオナは純粋で、悪意の欠片も持ち合わせてはいなかったのだから。
胸の前でぎゅっと手を組むフィオナを前に、男は困惑し、不審そうな目をして立ち尽くす。
静寂が、部屋を支配していた。
絨毯にはまだ赤い血が染み込んでいく。
一歩も動けずに、フィオナはその男を見つめていた。沈黙が流れていた。
彼は先程、フィオナの前世の名前を呼んだ。フィオナ・ラインに生き写しだと。前世を知っている? だがそんなことは些細なことに思えた。
彼と目が合った瞬間。
今世では恋なんて知らないと思っていた。それなのに。
雷に、打たれたかのような電撃がフィオナの体に走っていた。
心臓が驚くほど高鳴って、疑いようがなく、これが恋なのだと気づいてしまった。そうして我が心を疑った。
(こい……。………………恋!? 嘘よ!)
頭は混乱し続けていた。
白銀に抱けなかった想いを見知らぬ人に抱いている事実を理性が拒否し続ける。
きっとわたしはおかしくなっているに違いない、とフィオナは思った。
王子様だなどと馬鹿げたことを口走ってしまったのは、混乱と、さっきまで考えていた童話のせいだ。塔のお姫様を助けに来る、王子様の物語。目の前に立つ男は、訝しげに眉を顰めた。
「私は――……」
と言いかけて、言葉を切った後で、思い直したかのように咳払いをし、再び言う。
「いや、あいにく私は王子ではありませんが、確かに貴女を助けに参りました。……護衛達が共謀して貴女を誘拐し、卑劣にも白銀王への人質にしようとしていたんですよ。私はそれを防ぐために来ました。まだ彼らの仲間が付近に潜んでいますから、共に逃げましょう」
どんな心境の変化か、今や彼は笑顔を浮かべていた。
こんな物騒な話にも関わらず、その男が声を発する度に、狂っているとしか思えない心臓が大きく跳ねて、言うことを聞かない耳がもっと彼の言葉を聞いていたいって思ってしまう。
普通だったらこんな状況に恐怖して泣き叫んでもいいはずなのに、フィオナは別のことに一生懸命になっていた。
恋じゃない、これは決して恋じゃないと、必死に言い聞かせていた。
(白銀様に抱けない想いを、こんな初対面の身元不明の男の人に抱くなんて、頭がおかしいみたいだわ!)
フィオナがずっと黙っていたからか、男は言う。
「大丈夫ですか。頭でもぶつけた? それともあまりの恐怖に精神がどうかしてしまったのですか?」
慌ててフィオナは首を横に振る。
「いいえ、だけどなんだか、す、少しおかしくて……」
フィオナの答えに、男は納得したように頷いた。
「無理もない、突然のことだろうから混乱して当然でしょう」
本当に混乱はしていたが、彼の言うこととは少し違う。だがこれ以上おかしな娘だと思われたくなくて、呼吸を整えてからフィオナは言う。
「こ、この人達は、えっと、白銀様の敵の方達なのですね? そ、それで貴方が、わたしを助けてくださった……。じゃあ、あの、貴方は味方、なのですか?」
白銀以外の人と話すなんて十六年ぶりのことで、どもってしまう自分がひどく情けない。
「ええ、白銀王の命により、貴女を助けに来たんですよ」
彼は辛抱強くそう言って、またしても優しげな笑みを作った。いちいち反応するフィオナの胸がどきりとしてしまう。
だがようやく幾分か落ち着いて、状況を把握しつつあった。白銀の使いなら間違いなく味方だ。
この心臓の高鳴りを差し引いても、きっとそう。
「時間がありません。急ぎ、ここを出なくては。外にもまだこの連中の仲間がいる。貴女の身の安全を確保しなくてはならない。さあ、私とともに行きましょう」
言って彼は、片手に長剣を握ったまま、もう片方の手を差し出した。黒い革手袋がされた手に、フィオナはおずおずと自分の手を重ねる。
混乱は収まっていなかった。彼に触れたら体が勝手に小さく震えてしまったから。
(白銀様以外の男の人に、初めて触れたせい。そのせいに決まっているわ)
彼も一瞬だけ奇妙なものを見たように目を見開いたがすぐに元の表情に戻る。
荷造りをしている時間はなかった。そもそも財産と呼べるようなものを、フィオナは持っていなかった。
傍らを、まだふよふよと浮いている人工精霊を掴むと、そっと手の中に入れる。自分で望んだものなど何一つないこの塔で、それだけがフィオナの持ち物だった。
「ルミナシウスも一緒に……!」
歩き始めていたその人は、驚いたように振り返る。
「ルミナシウスだって? なぜそんな名前をつけたのです?」
「光っているからです」
答えた後で、間抜けみたいだなとフィオナは思った。
そう、と彼は言って、それから再びフィオナの手を引いて歩き始める。
男は身なりと体格からして兵士だと思われた。
――兵士だから、人を殺すことも、死体を見ることも慣れているのかしら?
フィオナは全然だめだった。足元に広がる死が怖い。
竜人達の遺体を見ないようにしながら部屋を横切る。平和だったはずの塔の中に突如として出現した死から気をそらそうと、彼に尋ねた。
「あの……貴方のお名前は、なんとおっしゃるのですか?」
「ルイ・ベルトール」
男はそれだけをそっけなく答えた。




