きっと世界で一番の幸せ者
十日目にあった襲撃以降は大きな事件もなく、船は予定通りの正確さで西大陸の入口である港町ヘイヴンへと入港した。
待ち構えていた西大陸竜族の使者の対応をフローダストに任せたフィオナは、服を町娘が着るような簡素なものに替え、その上からフード付きの外套を羽織り、付いてくるなと侍女達に告げた後、そっと船を抜け出し街へと降り立つ。どの道、今日は到着の第一日目だ。会談はないし、使者が野薔薇王に直接会うこともない。後で内容を聞けば十分済むことだった。
大勢の移動があった。予め宿を取っていたらしい使者の一団は船を降り、また別の者たちは船に残った。皆ようやく終えた船の旅に安堵しているように見える。開放感が周囲には漂っていた。
陸地に友人と談笑しているルークスの姿を見つけ、近づいていく。
「似てるけど、それより遥かに巨大だ。一応は俺のところも国なんだけどさ、規模からして違いすぎるよ。インエットはもっと田舎だし道も悪くて――」
そう話すルークスの声が聞こえた。
船に乗る者達のことを、フィオナは全員記憶していた。
彼のすぐ側にいるのはマウンバレートの第二王子であるオルフと、その婚約者のカリアだった。彼女を見るとフィオナはいつもヴェリエの端、名もない村に住んでいた獣人のカリムを思い出す。あの村で過ごした数日は、フィオナとルイにとって最も穏やかな時間だった。
(また昔のことを考えているわ。中立都市とはいえここは西大陸なんだもの、気を引き締めないと)
他にも数人の若者達が彼の周りにいる。竜の襲撃を乗り越えた彼等は出発前よりも団結しているように見えた。
フィオナはそっと忍び寄り、彼の背後から声をかけた。
「お待たせしました」
「えっ」
とルークスは振り返り、声をかけた主が誰か分かった瞬間ぱっと顔を輝かせる。
「まさか本当に来てくれるなんて思わなかった! 嬉しいよ」
もし彼に尾があったのなら、喜びのあまり振り回しそうだと思いながらも、遠慮がちにフィオナは答えた。
「約束だと貴方が言ったんですよ?」
フィオナと一日街を歩くことがそれほどまでに嬉しいのかと思うと気が引ける。
「まあそうなんだけど、でもありがとう。ごめん、俺、ちょっと抜ける」
仲間にそう断りを入れたルークスは「行こう」とフィオナに声をかけて歩き出す。
好奇心に満ちた使者達の視線を感じ、フィオナはより深くフードで顔を覆った。
街は活気に満ちていた。
東大陸からの使者団がやってくることは周知の事実であるようで、広場にはこれを商機と見た商売人達の露天がずらりと並び、しきりに声掛けが起こる。
ぼんやりとフィオナは言った。
「初めて男の人と街を歩いたのはトリデシュタインという小さな街でした。戦時下だったので明るいとは言えなかったですけど、大切な思い出です」
「ええ?」とルークスは半笑いになる。
「それってずっと昔に滅んだ街だろ。知ってるぜ、勉強したからさ。……っていうか冗談か」
フィオナの言葉を冗談だと受け取ったらしいルークスは構わずに続けた。
「この街の地図を買った奴がいて、さっき写させてもらったんだ。行きたいところがあったら行こうぜ」
と言いながらルークスは空中に地図を出す。線が橙色の光で縁取られた透明な地図は、巨大な街を表していた。魔法技術は進歩し、今の世では魔術をインク代わりに記録させ写本のように写しとる技術が普及している。
ルークスが出した地図は精密で、彼が卓越した魔術師であることを物語る。だが彼はその技術をひけらかすこともなく、地図を指でたどりながら眉根を寄せ店を真剣に吟味していた。
「ミエラに……ああ、ミエラっていうのは妹なんだけど――っていうか野薔薇王の侍女なら知ってるか、金髪青目の俺に似てる女の子いるだろ」
「いつも良くしていただいています」
柔らかなミエラの笑みを思い出しながらフィオナは言った。不遇な幼少期を過ごしたにも関わらず清らかな心には一つの曇りもない可愛い少女だった。
彼女が十歳の頃から側に置いている。親同然の思いを抱いていた。
「なら良かった」と笑った後でルークスは言う。「そう、そのミエラに土産を買ってやろうと思ってさ。ついでに城の奴らにも。良かったら一緒に選んで欲しいんだ、えっと……」
ルークスは気まずそうに頭をかく。
「ごめん、名乗ってなかったよな。俺はルークス・ファルトル。……本当はもう少し長いんだけど、それはいいや。君の名は?」
言われてようやく、フィオナも自身の名を伝えていなかったことを思い出した。こちらからすればルークスの名は当然知っているため、うっかり失念していた。
一瞬の間、なんと名乗ろうかと逡巡した。今使っている名は野薔薇だが、まさか伝えるわけにはいかない。
「わたしはフィオナです」
三百年間、使わなかった名前だ。だが口にすると妙に腑に落ちる。自分は確かにフィオナだった。歪なりにも、父が付けた名前だった。
名を言った瞬間、ルークスも奇妙な反応をした。彼の目が不可解そうに細まり、じっとフィオナを見つめる。
「あの、なにか?」
いや、とすぐにルークスは言う。
「いい名前だと思ってさ。フィオナか、うん、すごくいい名だ。似合う……と思うよ」
人から名前を呼ばれるのも三百年ぶりのことだった。褒め言葉には微笑みだけで返しておいた。
雑踏の中を二人で歩く。ルークスは口数が多く、こちらの話をせずに済むのは都合が良い。
「俺って、自分の国から出たこともなくて。だから変な感じだよ。全然知らない場所を、初めて見た地図で、知り合ったばっかの女の子と歩くなんてさ」
こうして話していて分かるのは、気持ちが良いほど飾らない性格だということだ。案外熱い性格の、フローダストが気に入っているのも良く分かる。
噴水のある別の広場に差し掛かったところで、ふいにその声が聞こえた。
「レイル地方の焼き菓子だよ!」
思わず足を止め店を見る。朝市の売り場が並ぶ一角に、随分と懐かしい菓子が売っていた。
「くるみが入っているんです。甘くて、口に入れるとほろりと解けて、それがとても美味しくて」
独り言のようにそう呟いた。
まだ何も知らなかった頃、ギルバートとシルヴィアと共に並んで食べたことがある。
(確かわたしを追ってきたノットさんを捕まえた時だったっけ……)
あの時食べたあの菓子は、どうしてあんなに美味しく感じたのだろう。戦後に同じ菓子を食べたが、あの時ほどの感動は生まれなかった。
フィオナにしても久しぶりに街に来た。きっともっと見るものや考えることもあるのだろうが、三百年経っても思い返すのはあの日々ばかりだ。
(……思い出があまりにも多くて、未練はあまりにも強すぎる)
フィオナの視線の先を見たルークスは迷うことなく言う。
「食べよう。買ってくるから、少し待っててくれ」
言ってから側を離れていく。
彼の金色の髪が、日差しを受けてきらりと光った。
(綺麗な色)
まるで彼の生命そのものが透き通って輝いているようだ。自分は過去に囚われた亡霊のようなものだとフィオナは思う。今を生きるルークスのような青年が眩しかったが、かといってその輪の中に加わろうとは思わなかった。
(わたし、一体何をやっているんだろう)
唐突に自己嫌悪が生じた。はたから見たら自分はフローダストの言う通り、ルークスの純情を弄んでいるようにしか見えないだろう。しかしそんなつもりは無かった。彼という人間に興味があったし――もしかすると未だ鮮明なあの頃の記憶が少しの間だけでも薄れるかもしれないと思った。だが結果は全くの逆で、上書きしようとすればするほど思い出はむしろ濃く浮かび上がる。
(こんな無意味なこと、もうやめなくちゃ。ルイ様はもうどこにもいない。でもわたしには思い出があるわ。それで十分なはずなのに)
太陽は明るく地上を照らし、フィオナの顔に暗い影を作った。突然肩を掴まれたのはそんな時だった。
驚いて見上げると知らない者達の姿がある。一人は虎頭の獣人で、もう一人はヒト族だ。どちらも若い男だった。
「お嬢さん一人か? こんなところには勿体無いくらいの美人だな。俺達と遊ぼうぜ」
軽薄すぎる誘い文句だった。
虎頭がにやつきながらフィオナの肩を抱く。内心の軽蔑を隠すことなく睨みつけると、瞬間、目を剥き彼は一歩離れる。全身が総毛立っているようだ。
「あ、あんた、竜――」
だが彼が言い終える前に、ヒト族の男がフィオナの腕を掴む。
「つれないねー、いいからこっちに来いよ」
直感が鈍い種族というのは日常では役に立つこともあるのだろうが、こういう時はやはり愚鈍だ。
「誰の許可を得てわたしに触れているのですか」
フィオナは男の手を逆に掴み返すと、そのまま彼の身体を捻り、石畳の固い地面に叩きつけた。
ごきっと嫌な音がした後で男は失神する。虎頭はいつの間にか逃げ去ったようで姿がない。
ざわつく周囲の中、今にも攻撃の魔術を出す勢いで魔法陣を両手に纏い、しかし呆気に取られたように口を半開きにしているルークスを見た。彼も騒ぎに気付き、男達を成敗しようとしていたようだ。彼は言う。
「君には驚かされてばかりだ。もしかして獣人の血が入っているのか」
「はい、ヒト族の血は半分だけです」
素直に認めるも、ルークスは驚愕が解けないのかまだ棒立ちのままだ。その彼に向かって、フィオナは頭を下げた。
「今日は誘っていただいてありがとうございます。久しぶりに楽しかったです。だけどごめんなさい。わたしにはずっと愛している方がいるので、貴方とは恋人にはなりません」
怒られる覚悟で一気にそう言ってから顔を上げると、意外にも彼は笑っていた。
眉を顰めたのはフィオナの方だ。
「あの、どうされたのですか?」
「女性に振られたの初めてでびっくりした」
それからさほど気にしていない様子で言う。
「じゃあ友達ならどう? 菓子でも食べながら、土産を見ようぜ」
彼の明るさにほっと救われる。フィオナは深刻になり過ぎていたようだ。
はい、と頷くとルークスはまた微笑んだ。
「それだけ愛されてるなんて、きっとその男は世界一の幸せ者だな」




