彼の墓
空に浮かぶ城を、幼い頃からミエラは知っていた。母が話す童話にも出てきたし、大陸を気ままに移動するその諸島を地上から見上げては、天上人のような竜族の王族達に思いを馳せ胸をときめかせていた。
だがまさか自分が暮らすことになるなんて思いもよらなかった。
十歳の時に、自分がフローダストの番であることを知った。彼が野薔薇王の侍女としてミエラを迎えに来たのが出会いだった。
一目で彼に恋をした。ずっと彼を待っていたのだと知った。彼は番なのだと言われた時、やはりそうかと納得した。
手に触れると嬉しくて、声を聞くと安心した。おとぎ話の中のフローダストは時に凶暴で排他的な竜人として描かれていたが、ミエラが知る彼は愛そのものだ。すぐに彼を愛するようになった。
その後ミエラは当初の予定通り野薔薇王の侍女となった。主君として仕える相手は三百歳を超えているとはとても思えないほど若く、兄のルークスよりもわずかに年上なだけのように思えた。ミエラがフローダストの番だと紹介された時、驚きつつも誰よりも喜んでくれたのも彼女だった。
「わたしにもかつて番がいました。あの人の唇がわたしの名を呼ぶ度に、体が天に昇るようでした。あのような幸福な時間を持てたことを、今では大変嬉しく思っています。ですからどうか、お互いを愛してください。魂の限り、愛し合ってくださいね」
ミエラの手を握り、彼女はそう言って微笑んだ。その黄金の瞳がわずかに潤むのを見て、ミエラも泣きそうになったのを覚えている。
誰もが、野薔薇王とルイ・ベルトールの悲恋を知っていた。知っていたが当の本人に会って、ようやくそれがおとぎ話などではなく、実際にあったことなのだと実感した。
彼女に向かってミエラは何度も頷いた。
穏やかで美しい竜人だった。すぐに、彼女のことも好きになった。
だから野薔薇王が和平のため西大陸に赴き、天空城を留守にしている今も、ミエラは城に残り彼女の不在を守っていた。
と言っても城の清掃はかけられた魔術によりほぼ自動的に行われ、大きな行事の予定もなく、やることと言えば平素と同じく侍女達とのおしゃべりくらいなものだった。
日々は平和そのものだが、それでも生活の中心だった野薔薇王がいないというのは皆の心に寂しさを生じさせていた。ミエラも早く彼女に会いたかった。
その日、ミエラは野薔薇王の部屋に飾る花を見繕って欲しいと侍女頭のモネアに頼まれ、用を済ませるついでに庭を散策していた。
それが気遣いであることは分かっていた。このところのミエラは少々気が張っていたからだ。番のフローダストが王と共に危険極まる旅路に出たこともあるが、唯一の肉親といってもいいルークスまでも旅立ってしまった。二人を思う時間が多く、ミエラは日中もぼうっとしていることが増えていた。ひっきりなしに続く侍女達のおしゃべりを離れ、少し一人で休んだらどうか、というのがモネアの考えらしかった。だから心遣いを受け取ることにした。
城の庭は広い。池も森も丘もあった。地上とは異なる生物も暮らす摩訶不思議な庭が、ミエラは好きだった。
花畑に差し掛かり、色とりどりの花を摘む。そうしながら、やはり番と兄に思いを馳せた。
(フローダスト様はとてもお強い竜人だもの、きっと大丈夫だわ……それよりも)
ぱちん、と鋏で花の茎を切りながら、ミエラは眉を下げた。
(お兄ちゃんたら、ちゃんとやれているのかしら……?)
大丈夫大丈夫――旅立ちの前に会った時、ルークスはいつもと変わらない口調でそう言っただけだった。平素から深刻さを忘れているような兄だ、その性格にミエラも随分と助けられてきたが、此度の大役に彼が押しつぶされたりしないかと案じていた。
だがそこまで思った時、そうではないと思い至った。
(いいえ、お兄ちゃんならいつも通り上手くやるはずよ。気が気じゃないのはわたしの方だわ)
母の死後、ずっと二人で支え合って生きてきた。その片割れがこの大陸にいないということに心がざわつく。
(いい加減にわたしも兄離れしないとね)
ぼんやりとそんな風に思いながらも手を動かす。花はどれも美しく咲いていた。
(野薔薇様はどんなお花でもお似合いになるから、迷ってしまうわ。でもご不在の間も一番綺麗なお花を飾っておきたいもの)
しゃがみ、立ち上がり、花を選びまたしゃがむ。
そうやって花を選んでいると、随分と移動してしまっていたことに気がつく。
「わたしったらいけないわ。向こうにはお墓があるのに」
言いながら慌てて立ち上がる。
だがす視線を花畑の奥からずらすことができない。この距離からでは墓標は確認できないが、池を挟んだ向こう側にあるはずだ。かつてこの目で見たことがあった。
「ルイ・ベルトール……」
口に出して言うと、その名が心を重く蝕むようだった。
昔の記憶が蘇る。
ミエラが天空城のしきたりにまだ疎かった幼い頃、うっかりその墓を見てしまったことがあった。庭を歩いていたところ、野薔薇王の姿が見え、嬉しくなって駆け寄ったのだ。
後にモネアには叱られたが、その時の野薔薇王は気を悪くすることもなく、これはルイ・ベルトールの墓なのだと説明してくれた。
「もともと、左腕と剣しか収まっていなかったお墓ですけれどね。今はそれもありません」
驚いてミエラは聞き返した。
「どうして腕と剣はないのですか?」
「少し前に盗まれてしまったんですよ。祖父の手の者の仕業でした。その竜人を捕まえることはできたのですが、ルイ様は既に破棄されてしまったようでどうしても取り戻すことができませんでした」
墓に目を向けながらも、うつつを映していないかのような野薔薇王の視線に彼女が消えてしまうかのような不安に駆られる。なんとか彼女をこの場所にとどめておこうとミエラは咄嗟に尋ねた。
「なぜその竜人は番様のご遺体を盗んだのですか?」
野薔薇王は首を横に振る。
「最期までその竜人は口を割らずに自害してしまいました。もしかしたらわたしへの嫌がらせかもしれません」
自害、という言葉にぞっとして口を噤んだミエラを見て、野薔薇王はそっと頭を撫でてくれた。
「怖がらせてしまいましたか、ごめんなさい」
「こ、怖くなんてありません!」怖かったが精一杯の虚勢を張ってミエラは答えた。「もしかしたら番様のことをとても好きな人で、盗んでしまったのかもしれないですよ!」
そうかもしれませんね、と言って野薔薇王はミエラを見て微笑んだ。
その笑みにミエラはほっとする。彼女をルイ・ベルトールの記憶からこちらの世界に取り戻せたような気がしたのだ。
「野薔薇様の番様は、どのような方だったのですか?」
幼さゆえの無知により、愚かにもミエラはそう尋ねた。
野薔薇王は墓の横に座ると、ミエラを膝の上に乗せ、髪を撫でながら話してくれた。彼女と彼の出会いと別れを。きっとかいつまんで話してくれたのだろう、それでも幼いミエラは悲しい話に心が揺れ、しまいには泣くまいと必死に涙を堪えていた。
「暗澹の時代に突如として現れたかがり火に、皆喜んで身を投げました。時代自体が狂っていたとすればそのとおりなのかもしれません。わたしも飲み込まれ、身を焦がした一人に過ぎません」
野薔薇王はそう言って、再びミエラの頭を優しく撫でる。
「会いたい。今すぐにでも、彼のところに行ってしまいたい。少しでも早く同じ場所に行きたい。そういう風に、何度も思いました」
「だ、だめです!」
ぎょっとして体の向きを変え、ミエラは王に縋り付いた。
「野薔薇様、し、死んだり、しないですよね?」
ミエラの体は震えていた。熱病で亡くなった母の姿を思い出したのだ。幼いミエラにとって死は暗く冷たく、永遠の別れを強いられる理不尽なものだった。野薔薇王はミエラの両手を自らの手で包むとまたしても微笑む。
「遠い遠い過去の約束がわたしを現世に留めます。愛する方がわたしの生を望んでくださいましたから」
野薔薇王の優しい笑顔がミエラは好きだった。いつまでも笑っていてほしいとそう思う。
だがこの時の笑みは好きではなかった。ミエラに向かって微笑んでいるのに、遠い誰かを見つめているかのようだったからだ。
本当は彼女はすぐにでもルイ・ベルトールの元へ行きたいのだと、ミエラは感じた。
それから数年後、今後侍女としての役目を終えた際には城で過ごすか、今まで通り地上で過ごすか選んでくれと言われた時、ミエラは城で過ごすと言い切った。
もちろん番であるフローダストの側に常にいたいという思いもあったが、野薔薇王の側にいたいというのも、理由の大多数を占めていた。
その決意は、今も変わってはいない。
(野薔薇様が好き。少しでもあの方のお役に立ちたい。
だけどあの方はたった数行の歴史書の中の記述に、今も心を囚われ続けている。パタリと閉じてしまえば、わたし達だったらすぐに忘れてしまうだろう過去の出来事を、いつまでも愛で続けているんだわ)
花束を握りしめながらミエラは墓のある方角を見つめ続ける。
野薔薇王が今生きているのは過去に彼がそう祈ったからだ。現世に生きる誰も、過去の彼を超えられない。彼女が生きる理由は現世にはないのだ。
(ルイ・ベルトール)
――あの方を愛しているのなら、どうか解放してください。
いるはずのない彼に、そう祈った。
年内に完結を、と考えていたのですが全然無理でした…
来年もよろしくお願いします




