ルークスとフィオナ
懐かしい記憶が蘇った。
あれはまだ七つか八つかの少年の頃の話だ。あの頃はまだ母も生きていて、用事を頼まれて浜辺に行った。相手は確か漁師で、母が服を直したとかで届けに行って代金を持ってくるから待っていろと言われた時のことだ。
何の気はなしに、砂浜をうろつきながら待っていた。砂に足を埋もれさせながら歩くのが、幼いルークスは好きだったからだ。そこで彼女を見た。
岩場の陰からこちらを見る、美しい女。薄紅色に輝く髪が、夕日を受けて光っていた。一瞬、亡霊の類かと思った。それほどまでに、この世ならざる美貌に見えた。
――そんなところで何しているの。
ルークスはそう問いかけた。
――人を探していたんです。
そういう風に彼女は答えた。その清らかな声に引き寄せられるようにして、ルークスは彼女に一歩近づく。
――見つかったの?
またしても問うと、彼女は首を横に振った。
――いいえ、人違いでした。
そこまで話したところで、ルークスは漁師に名を呼ばれ振り返った。再び彼女に顔を向けると、すでにそこには人影はなく、初めから誰もいなかったかのような静寂があるだけだった。
ミエラやフローダストに揶揄われはしたが、それがルークスの初恋だった。
「――ルークス! 大丈夫?」
オルフに名を呼ばれ、我に返った。
「あ、ああ。大丈夫」
「ヒト族だね、すごく綺麗な人だ」
ルークスの視線を辿ったオルフも彼女に気づいたらしい。
少女は消えることなく、まだこちらを見つめていた。
船首の近くにいる少女は昔会った人に似ているような気がしていた。そんなはずはないと思いつつも、ルークスは彼女に近づいていく。抗いがたい引力が、彼女から生じているかのように引き寄せられていった。初恋の娘に会ったのはもう何年も前だが、目の奥にあの姿が焼き付いている。忘れるはずがなかった。
彼女にようやく声が届くほど近くまで行った時、こらえきれずに声をかけた。
「なあ君」
と、その瞬間、鋭く風を切るような音がし、視界の隅に黒い塊が勢いよくこちらに向かって飛んでくるのが映った。
「うわ、何だ!」
一瞬それは大鷲に見えた。だがよく見ると小さな竜――小さいと言っても大型犬ほどだが――だった。
その小竜は向かいの巨船から飛び立ち、こちらの船に飛んできているようだった。
船に乗る者達は皆、その竜に注目する。一体何が起きているんだと見上げている。
小竜は飛び慣れていないのか飛び方を覚えたばかりの雛のように無様に翼をばたつかせていた。途中まで小竜はそれでもなんとか風を捉えていたが、均衡を大きく崩した。
(まずい、海に墜落するぞ!)
ルークスは慌てて魔法陣を出現させるとその小竜を魔術で捉え、自分のいる船まで引き寄せ両手で捕まえる。
「自分の力を過信するなんてガキのすることだぜ」
そう声をかけると小竜はルークスの腕の中で、クー、と子犬のような哀れな声をだした。使役竜は竜族以外には従わない扱いにくい生物だと思っていたが、子供の竜はまた違うらしい。腕の中の小竜は大人しく、上目遣いでルークスを見つめた。
「なんだお前、結構可愛いな」
目を白黒させる小竜に言うと、突然声が聞こえた。
「その子は野薔薇王が世話をしている子だと思いますよ。後で届けましょう」
驚いて顔を上げると、先程の少女が近くにいてルークスと小竜を見比べていた。
話しかけようと思っていた少女の方から話しかけられ、刹那の間固まった後でなんとか声を出した。
「あ、ああ。そうなんだ、よく知ってたな」
別に女と話すことなど慣れているし、緊張など今まで一度もしたことはなかったはずなのに、今は上手く言葉が紡げない。少女の声は想像どおり涼やかで、いつまでも聞いていたくなるほど心地の良いものだった。
咳払いをした後で改めて彼女に向き直る。
「竜人てのは、同族をペットにするもんなのか?」
ルークスと目が合うと、彼女は視線を下に向ける。密度の高い睫毛が彼女の黄金の瞳を隠してしまった。
「そういう人もいるのでしょうね」
静かな声色だった。彼女の視線は小竜に注がれている。
背はルークスよりも随分低い。小柄で華奢だが、妙に存在感のある少女だった。ルークスは笑顔を作る。
「ヒト族の女の子が乗ってるなんて思わなかったよ。俺はルークス、よろしく。君は?」
言うと彼女は顔を上げるが、その表情に笑みはなかった。
「初対面の方に名乗るつもりはありません」
なんとつれない返事なのだろう。自惚れるつもりはないが、自分の顔は悪くないと自負していたし、人当たりも良いつもりだった。故に、異性に雑にあしらわれる経験など初めてのことだった。
(つ、冷たい……!)
ルークスの心に反応するように、腕の中の小竜がまた「クー」と小さく鳴いた。
少女の髪が風に揺れる。彼女はそれを片手で抑えた。
「……あのさ、前に会ったことないか? インエットの砂浜にいなかった? ナンパじゃないぜ、ただ、昔見た人に似てる気がして」
言いながら、そんなはずはないと思う。あの娘は当時既にどう見てもルークスより年上だったのだから、今目の前にいる少女であるはずがなかった。
「インエット国には行ったことありませんから」
そっけなく彼女は答える。柔らかそうな見た目に反して固い態度だった。
「じゃあ君のお姉さんとか親戚の子に、よく似た外見の人、いない?」
「母ならわたしによく似ていましたが、わたしを産んで間も無く亡くなりました。貴方と会っているなんてありえないと思いますよ。彼女がインエット国に行けるはずもありませんし」
他人の空似にしては似過ぎているが、同一人物だとするとやはり年齢が合わない。
(遠い親戚にでも会ったのか――?)
一体、自分でもなぜここまで初恋にこだわるのかは分からないが、もしもう一度会えるのならあの娘に会いたいものだと考えていた。だからこだわってしまう。
「あの、その竜わたしが預かってもよろしいでしょうか。この船に乗る竜族の方を知っています。その人に預けようと思うんです」
その言葉を聞いた時、少女がなぜルークスの側を離れなかったのかを悟る。
(用があったのは俺じゃなくてこの竜か)
でも、とルークスは言う。
「噛むかもしれないぜ、使役竜って竜族以外には懐かないんだろ」
「幼い頃に親を亡くした竜の子です。人にも慣れているので、攻撃することはありませんよ」
言いながら、彼女はルークスの腕の中から小竜を引き取る。少女の手には重いと思ったが、案外怪力の持ち主のようで、なんなく彼女は竜を抱え込んだ。小竜は嬉しそうに彼女の頬を舐める。
そこでルークスは思い至った。
「もしかして野薔薇王の侍女とか?」
野薔薇王は多人種の少女達を無作為に選び侍女として数年側に置く。彼女もその中の一人である可能性を思いついた。であれば事情に明るいのにも納得がいく。
問うとようやく少女は微笑む。
「そんなところです」
その笑みに、ルークスは見惚れてしまった。だから彼女が背を向けて船内に消えていくまでその姿を見守ることしかできなかった。
ミエラの話をすればよかったと思ったのは、しばらく後のことだった。
◇◆◇
船内に、フィオナは入った。親を亡くした竜の子供を憐れみこの手で育て世話をしていたが、どうやらフィオナの気配を辿って空を飛んでしまったらしい。生まれつき片翼が小さなこの竜は、他の兄弟達より飛ぶのが下手だった。天空城においておいても他の竜に虐められ攻撃されるため、この旅につれてきたのだ。
「よしよし、帰ったらまた飛び方を教えてあげますからね」
野薔薇王の姿など誰も知らない。
フィオナが抱える竜を珍しそうに見る者もいたが、誰もフィオナ自身には気づかない。
船内の暗がりから、甲板を一度だけ振り返る。ルークスはもうオルフやカリアと話しており、こちらを見ることはなかった。
(……やっぱり、違ったわ)
腕の中の小竜を撫でると、満足そうに喉を鳴らす。その姿に慰められた。
船間の移動は竜族にのみ認められていた。もちろん魔術によるものである。
(違って、嬉しい? 残念? ……分かってる、嬉しいわ。わたしはずっと、ルイ様のものだもの)
小竜に頬を寄せると嬉しそうに舐められて、フィオナは少しだけ笑う。それから目を閉じ、ルークスの瞳を思い浮かべた。
彼の持つ懐かしい瞳はフィオナの胸をどうしようもなくかき乱す。あれはまさしく、ルミナシウスのものなのだから。




