港の兄妹【後編】
――ざざ、ざざと波の音が聞こえていた。
この街はどこにいたって海の気配がする。産まれた時から知っているこの気配が存在しない場所があるなど、この街から出たことのないルークスには想像もできなかった。
砂が服の下に入り込むのも厭わずに、砂浜の上に横になる。冬の太陽が朧げに周囲を照らす。ルークスはこの場所が好きだった。
正午だが砂浜には人影もまばらであり、シャツとズボンという軽装に、誰も王子がここにいるとは思わないようだった。
ルークスは手に東大陸の歴史書を持ち、ぱらぱらとめくっていた。五巻からなるこの本は城に置いてあったのを拝借したものであり、今読んでいるのは四巻目だ。本の中には知っている名をいくつも見つけていた。
と、視界の隅に人影が映り顔を上げる。
半年ぶりだな、と考えながら手を上げて合図をした。
「竜人が俺になんの用?」
眉間に皺を寄せてそう言うが、彼は笑っただけだった。水色の髪を肩まで伸ばし、黄金の瞳を柔らかく細めるその竜人は、竜族の中でも王に近い存在であるフローダストだ。
単純な立場で言えば、一介の都市国家の王子が竜族の王族にに親しげに話すなどあってはならないことではあるが、ルークスは初対面からこうだった。既に両者の付き合いは五年に及び、気心は知れている。
礼儀を欠いたルークスの態度にもかかわらずフローダストに気を悪くした様子はない。
「城に行ったがお前は不在だと。匂いを辿って来たんだが、勉強中だったか。邪魔をしたな」
フローダストの視線はルークスが持つ本に向けられていた。ルークスが頭をかくと金色の髪の間から砂の粒が落ちていく。
「別に、暇だったから読んでただけだ」
無愛想にそう答え、服の砂も払いながらルークスはフローダストに向き直る。
「なに、急用?」
「いや、たまには顔を見ようと思っただけだ」
「ひとり?」
フローダストの背後に目を向けたが、人影はない。ルークスは小さく舌打ちをした。
「ミエラめ、天空城の居心地がよほど良いみたいだ。お兄ちゃんより番様の側がそんなにいいのかよ」
正直な悪態にフローダストは思わず笑う。
「それがそうでもないらしい。城では私の側よりむしろ野薔薇様のお側にいることが多い」
へえ、と気のない返事をルークスはした。母の死後、何が何でも守り通すと誓った最愛の妹は、竜人の番として発見されあっけなくこの手を離れた。少し前までは頻繁に顔を見せにきていたが、このところは天空城から出てこない。
「あいつ元気にしてる?」
ああ、とフローダストは頷いた。
「素直な性格だ。皆に可愛がられて健やかに過ごしているよ。一緒に来るかと誘ったが、野薔薇王の側にいたいと断られてしまった」
フローダストの態度の節々にミエラへの愛情を垣間見て、ルークスは半眼になる。
「手、出してないよな」
「お前との約束は守っている」
ミエラが二十歳になるまで待てよ――それは十二歳の時にルークスがフローダストに言った言葉だ。世間知らずの少年が竜族の王族にそのようなことを言い放ったのだから周囲は肝が冷えただろうが、フローダストは大真面目に頷いた。
あの日――フローダストがこの小国を訪れた日から、兄と妹の運命は変わった。……恐らくは良い方向へ。
そもそも東大陸を統べる竜王は時折無差別に大陸の国家から王家の娘を侍女として指名し、数年の間預かるという行為をしていた。酔狂な趣味だとルークスは思うが、友好関係を保ち続けるという意図があるのだと、後にフローダストから聞いた。
ともかくその侍女としてミエラが選ばれ、竜族特有の強引さと傲慢さで連絡も無しに迎えに来た。その迎えとしてやってきたフローダストとミエラがなんと運命の番同士だったのだ。
そんな偶然あってたまるかとルークスは思うが、実際あったのかだから始末が悪い。
「ただでさえヒト族は他種族よりも弱いってのに、竜人の子なんてできたら大変どころのさわぎじゃない。あいつだってまだ子供なのにさ」
なおも文句を言うルークスにフローダストはまた微笑んだ。
「大丈夫だルークス、何もしていないから。――仮に子供が出来たとしても、天空城には魔術に長けた医者もいるから心配するな」
ふん、とルークスは鼻を鳴らした。
フローダストを信頼していないわけではない。むしろ今まで出会った物の中で、最も信頼してはいた。
「まあ、いいや。茶くらい飲むだろ? 来いよ」
そう言って城に向かって歩き出すと、フローダストも横を行く。
「変わりないか」
「親父殿が病気だそうでさ。後継者がどうのこうので揉めてんだ」
「お前に継いでほしい者が多いようだな」
なんだ知ってるのか、とルークスはため息を吐いた。
「俺が求められてるわけじゃない。連中が欲しいのは竜族との繋がりだ。俺はまた街に戻ってのんびり暮らしたい。王族なんて柄じゃないんだよ。イクスが適当に継いでくれればいいのにさ」
城に入って良かったのは毎日の食事と清潔な服と寝床くらいだ。それが全てと言ってしまえばそれまでだが、退屈に感じていた。
「それは歴史書か?」
ルークスが手に持つ本を見て、フローダストが尋ねる。真面目に勉強していることが気恥ずかしくなり、ルークスはますます無愛想に答えた。
「……少しくらい歴史を知っててもいいかなって思ってさ」
「感心なことじゃないか」
褒められて、わずかに気を良くする。
「フローダストのことも書いあったよ。一行くらいは」
「ほう、なんと?」
「聖竜戦争があった時、野薔薇王とともに大陸の平定に当たったって」
歴史の中の英雄と肩を並べて歩くのは妙な気分だと思いながらルークスは続ける。
「その辺のことは、流石の俺でも知ってるよ。竜王の番のルイ・ベルトールが戦死したことも。ガキの頃、お袋が寝る前に話してくれたこともあったし、こないだなんて城で劇をやってたぜ」
言うと、フローダストの顔が曇った。傷つけてしまうような失言があったかとルークスが内心慌てていると、すぐに言葉がある。
「……酷い時代だった。死が溢れかえっていて、当たり前のように命が軽かった。野薔薇様がいなければ、今もそうだったかもしれない」
混沌の時代に彗星の如く現れた野薔薇王は、東大陸に蔓延る竜族を血みどろの戦争の末にまとめ上げ今の平和の基礎を築いた。恐ろしいのはその争いがたった一年のうちに行われたと言うことだ。
戦争は後に聖竜戦争と呼ばれ、現代においては神格化されている。当時は西大陸の竜王まで打ち倒すつもりだったが、その前に互いに両大陸を不可侵とする和平が結ばれ、帝国を二分することで落ち着き、以降今日に至るまで破られてはいない。
「これからを生きる者には、平和だけが訪れるようにしたい」
「ああ、ミエラがいるからな」
ルークスにとっては遠い歴史か、あるいは物語としての娯楽でしかないその戦争は、フローダストにとっては人生の一部なのだ。愛するミエラのいる今を、そんな過去と同じ色には染めたくないのだろう。
まだ暗い表情をしているフローダストにルークスはそう頷いた。
だがフローダストは静かに首を横に振る。
「お前もだ、ルークス。お前も私にとってかけがえのない友人だ。争いなどには巻き込みたくない」
率直すぎる思いやりにルークスは目を丸くした。
劇中のフローダストは竜族至上主義の排他的な人物として描かれることが多いが、実際はいとも容易く他人種を友という情の厚い男だ。
劇の演出なのか、長い年月のうちに彼自身が変わったのかは分からないが、その実直さを真正面から浴びると照れ臭くなってしまう。
「ま、まあ戦争なんてそうそう起きないだろ。起きても俺は死なないし、ミエラと、仕方ないからフローダストのことも守ってやるよ」
呑気にそういうと「生意気だな」と苦笑があった。だが彼の顔にはもう陰はない。暗黒の時代はやはりもう過去のことだ。
「それより聞いたぞルークス、お前がこの砂浜に来るのは、初恋の娘を探しているからだそうだな。案外可愛らしいところがあるじゃないか」
「は、はあ!?」
――ミエラめ!
図星を突かれたルークスは砂を蹴った。
その話はミエラにしかしていないのだから、必然的に彼女がフローダストに話したことになる。
(いくらフローダストが好きだからって、兄の秘密をベラベラと!)
ぐぬぬ、と思いつつもルークスは言った。
「母さんが、死んだ直後くらいにさ。たまたまここに来たら、どえらい綺麗な人がいたんだ。年はまあまあ上で、多分二十手前くらいかな。色白で、髪が夕日に染まって光ってて――」
情景を思い出し、ルークスは目を細めた。
「初恋っていうか、会話だって少ししかしなかったし、それ以来会ってもない。でもガキの俺はまた会えるかもってここに通って、気づいたら習慣みたいになってた。だから別に、その人を探してるわけじゃないからな。強く言っとくけど」
ほー、とフローダストは意味深な相槌を打つ。ムッとしながらルークスは言った。
「そういうフローダストの初恋はいつなんだよ」
「ミエラだ」
「嘘つけ!」
種族の異なる二人は他愛もない会話をしながら城へと向かっていく。
この三百年の間、大規模な戦闘は起きていない。平和はまだ保たれている。かつて戦争があったことなど遠い歴史に過ぎない。若き王子の未来には希望が満ちている。
――東大陸歴は一三一一年になっていた。




