貴女は野に咲く
その屋敷は小高い丘の上にあった。高原に生える夏の花々が明るく周囲を彩り、蝶達がその近くを舞っていた。
屋敷の持ち主はこの国の貴族の一人で、ベルトール伯とも親交のあった者だという。その屋敷に、スレイヤ・ベルトールと数人の使用人が住んでいた。
彼女の居場所を探すのは難しくなかった。ルイが彼女に向けて書いた手紙が、最後に過ごした屋敷に残っていたのだ。出すつもりで忘れていたのか、生き残った者に託すつもりだったのかは分からない。
ともかくその宛先に向けて、フィオナは自身の言葉を添えて手紙を出した。
文面でルイの死と会いたい旨を伝えると、手本のように几帳面な文字と丁寧な言葉で会いにいらしてと返事があった。
だからフィオナは、フローダストとノットと共に彼女の元へと向かった。自分が半分は竜人であることは隠していた。白銀は死んだとはいえ、反竜派の感情が消えたわけではない。竜人がスレイヤの元を訪ねたと噂が立てば彼女の身が危なくなるのではないかと思った末の判断だった。
フローダストとノットに離れた場所で待っているように伝え、一人で屋敷の門を叩くと、彼女は自ら出迎えた。
初めに目が行ったのは豊かで美しい黒髪だった。次に見たのは青い瞳だった。フィオナを見て微笑んだ彼女の顔には、醜く大きな傷跡があり、足が悪いのか杖をついていた。だが表面上の見かけなどほとんど彼女の美しさに影響していないように思えるほど、清純で汚れのない女性に見えた。
彼女はフィオナを見るなり嬉しそうに微笑む。
「フィオナさん、お待ちしておりましたわ。どうぞ中へ」
綺麗で上品な声だった。
たった一人で婚約者の帰りを何年も待ち、そうして遂に会えずじまいだった彼女。婚約者を失った悲壮さは、少なくとも表には出ていない。
一方でフィオナは動くことができなかった。ルイとフィオナの関係をスレイヤには告げていない。だが彼の死を伝えに来た娘について何も思わないとは思えなかった。
「わたしは――」と、気づけばフィオナは言っていた。
「わたしは、彼を、守れませんでした。本当だったら貴女のところに、帰すつもりだったんです」
フィオナはそう言った。スレイヤの青い瞳が微かに揺れる。
「わたし、わたしは彼を、あ、愛してしまいました」
フィオナはそうも言った。
「愛していたのに、守れませんでした」
フィオナはそのまま頭を下げた。
「ごめんなさい……! ごめん、なさい……!」
自分の口から溢れる懺悔の言葉に吐き気がした。彼女に伝えるべきことではない。許しを得たいからこんなことを言っているのだろうか。それとも彼女に罵って欲しくて言っているのだろうか。
フィオナの口から出る言葉の全てが欺瞞に思えた。
ゆっくりとスレイヤの手がフィオナの肩に触れた。顔を上げると、彼女の目から涙が一筋流れていた。だがそれでも、彼女はたおやかに微笑んでいた。
「良かった」とスレイヤが言ったとき、フィオナは耳を疑った。
「ではあの人は、孤独なだけではなかったのですね……? 貴女が側にいてくださった。本当に良かった。彼が、一人で死んだのではなくて、良かった……」
フィオナは動くことができずにただ彼女を凝視した。彼女は言う。
「あの人からの手紙が怖かったんです。手紙はいつも気まぐれに送られてきて、いつかそれが来なくなる日が来るのではないかと思っていました。無鉄砲に飛び出していってそれきり会うこともなくて。手紙の中でしか、彼を確認できませんでした。死んだと聞いても、なんだかまだ、実感がなくて」
言いながら彼女は、流れた涙を拭った。
彼女は白いレースの手袋をしていたが、その下にも傷があるのをフィオナは見た。
「フィオナさん。半分はヒト族で半分は竜族なのでしょう?」
「どうして……」
伝えていないはずのことを言い当てられたフィオナの体がびくりと震えた。
「彼は、死を悟っていました。手紙に貴女のことが書いてありましたよ。自分の死後、貴女を頼むと。自分の周りのことをほとんど書かずにいたあの人が、初めて書いたのは貴女のことでした。何よりも大切な人なのだと、書いてありましたよ」
もう枯れ果てたと思った涙が、フィオナの目から再び流れる。
赤い目をしたスレイヤは静かに笑った。
「あの人は本当だったら、虫一匹の命を奪うのさえ躊躇するような性根の持ち主だったのだと思います。だけど巻き込まれた運命によって彼の心は変わってしまった。そんな彼が初めて愛せた人が貴女だったのだと思います。
……わたしと彼の間にあったのは、世間でいうような愛ではありませんでした。喪失と憎悪の間に生じた絆が、わたしたちを強く結びつけたのです」
「でも、ルイ様はスレイヤさんをとても愛していました――。婚約者がいるからと、わたし、何度も拒否されてしまいましたから」
スレイヤは驚いたように目を開いた。
「なんですって? ではあの人は、貴女に何も言わなかったのですか?」
何を、と困惑しているフィオナの様子を見て、スレイヤは深い溜息を吐いた。
「馬鹿な人」
それが本当に心から呆れた調子で言い放たれた言葉だったため、フィオナはまた少し困惑する。そんなフィオナを見て、スレイヤは寂しげに微笑んだ。
「妹、なのです。かつてのわたしの名は、シンディシア・ルカリヨン。ルミナシウスは実の兄です」
驚愕せずにはいられなかった。
(妹――?)
そんなこと、ルイは一言もフィオナに――フィオナだけではなく誰にも――言わなかったのだから。ではルイはたった一人の肉親の人生を守るために、周囲に嘘を付き続けていたというのか。
フィオナの様子を見て、スレイヤは困ったように眉を下げる。
「ベルトール伯は兄を養子として、まだ幼かったわたしを実子と偽って引き取ってくださいました。そういう風に分けたのは、その方が生存の確率が上がるからだと言って――。ルカリヨン王家の血が途絶えることを恐れてのことでした」
フィオナはスレイヤの目を覗き込み、澄み渡る青い瞳の中に、星を砕いたような光の欠片がいくつも潜んでいることに気がついた。それはまさしく、フィオナ・ラインが牢の中で見たルミナシウス・ルカリヨンの瞳だった。
スレイヤの温かな手が、フィオナの手を包み込んだ。
「兄は、わたしが傷を負ってから思い詰めるようになりました。誰もわたし達の関係を知りません。だからわたしを婚約者にして、英雄が愛した人として、自分が死んだ後も世間から尊敬されて生きられるようにって……。生きて帰るつもりは、初めから彼にはなかったんです。普通の兄妹のような愛さえもわたし達の間にはないままに、別れてしまって――。
ああ、まったく――それを最後の最後まで誰にも言わなかったなんて。あの人らしくて本当に馬鹿ね」
スレイヤは笑っていた。笑いながら泣いていた。そうしながら、フィオナのことを抱きしめた。
温かくて柔らかな体だった。
「わたしとルミナシウスは血が繋がっているから分かります。彼は貴女に出会えてようやく救いを得ました。彼が最後に見つめていたのは暗い復讐ではなく、未来への明るい希望だったと断言します」
フィオナは彼女の香りを感じた。スミレの香水の奥に、それは確かに存在する。
(ああ――……ルイ様の匂いがする――)
体を抱きしめ返すと、ますます強く抱きしめられる。
ようやくフィオナは気がついた。失ってしまった彼の欠片はまだこの世界に残っている。スレイヤの中にも、フィオナの中にも。だから二人は生きなくてはならない。
ルイが抱え込んだあまりにも多くの荷のことを思った。それを一つも分けてくれずに、彼は勝手に逝ってしまった。彼の死後に、それを知るなんて。
耳元でスレイヤが囁いた。
「彼を愛してくれてありがとう」
声を喉につまらせながらも、フィオナは答えた。
「いつまでも、愛し続けます」
しばらくの間、二人はそうして抱きしめ合っていた。
失った人を悼み、新たな出会いを分かち合うために。
体を離すと、フィオナは言う。
「わたし、まだやらなくてはならないことがあるんです。だからまた会いに来ます。絶対に、また貴女に会いに来ますから、その時、ゆっくりとお話をさせてください」
スレイヤは目をしばたかせた。その瞳に向かってフィオナは言った。
「わたしはこの大陸の王になります。そうして終わらせます。憎しみを重ねるこの時代を。血で血を洗う終わらない戦争を。わたしが必ず終わらせます。
平和な世界で、貴女が生きられるように。もう二度と、ルイ・ベルトールのような人を生み出さないために」
「貴女もわたしに待てというのですか?」
悲しげな顔をする彼女に向かって、フィオナは笑いかけた。
「そんなには待たせません。すぐに終わらせますから」
立ち去る前に彼女の頬にキスを一つだけ残して屋敷を後にする。心が以前よりも軽かった。
離れた場所で待っていたフローダストとノットに寄る。フローダストの視線が屋敷にまっすぐ向いていることに気がついた。
「どうかされたのです?」
フローダストは茫然としているように見えた。
「……あれが、スレイヤ・ベルトールですか」
だがすぐに首を横に振る。
「――……いえ、なんでもありません」
「もっと話されるのかと思いました。もういいんですか?」
そう尋ねるノットに小さく笑う。
「わたし、戦争をしようと思うのですが、お二人とも付いてきてくださいますか」
「戦争って、どこと?」
訝しげに眉を顰める二人にフィオナは言った。
「倒すべき敵はまだいます。海の先、西大陸に」
「まさか」
フローダストが目を丸くする。
「私達の祖父のことです」
自然と口元に笑みが広がっていた。
「わたしは父、白銀に代わってこの大陸を支配し、そうして西大陸にいる竜王よりも強い権力を得ようと思います」
ノットが即座に反応する。
「俺は行きます! どこまでもフィオナ様に付いていきます!」
清々しいほどの真っ直ぐさで彼は答える。
少し遅れて、フローダストが頷いた。
「私も共に。最後までお守りいたします」
双方の返答を聞いたフィオナは頷いた。
「では今これより先、わたしのことはどうか――」
彼が見つけてくれた花。野薔薇は強い。どこにだって咲いてみせる。
彼が最後にくれたかけがえのない名前。通称などではない。これこそが真の名だと思った。
そう考えて、フィオナは一人で微笑んだ。
「――どうか野薔薇王と呼んでください」
ここまでお読みくださり本当にありがとうございます!
二章はこれで終わりになります。番外編をひとつ挟んで三章を開始します。三章はまた雰囲気が変わると思います。(ちょっと明るくなると思います)
感想、評価などいただけると嬉しいです! リアクションもいつも大変励みになっています。ありがとうございます。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
……大変どうでもよい話ですが、ワタクシは呪術廻戦で野薔薇チャンが一番好きです。




