対峙する獣達
数百年前、まだ竜族の支配がない時代に建築された砦があった。山を半分削り、半円型にせりでたこの砦は崩れた箇所はあるものの、余程頑丈に作られたらしく役目を果たすには十分である。砦の中は自然の洞窟を掘削したものであり、奥には広間がある。他には地下に無数に伸びる階段と、同じく地下に巨大な空間があった。
ルイはこの砦を白銀討伐の最終地点とした。
黒檀色の石はところどころ苔むしており、この砦が長い間打ち捨てられていたことを物語っていた。
砦の壁面を蔦と野薔薇が覆っている様は、フィオナと初めて出会った塔を再現しているかのようだ。この野薔薇を見てルイの心が平常よりざわめくのは、故郷の森にも生えていたからだ。
(この地もルカリヨン王国の一部だったはずだ)
インエットと呼ばれるこの地方は海と山を持ち、まだ王国があった頃に訪れたことがあった。今も反竜派の土地ではあるが、かつてと異なりほとんど人は住んでいない。大規模な騒乱を何度も繰り返した末、人々は逃げていった。
ルイは一人で、砦の上に立っていた。
昔のことを思い出す。
幸福だった幼少期。過酷だった少年期。そうして今。無数の出会いと別れが、ルイをこの場へと導いた。
――名前をくださいませんか。
それは昨晩、フィオナが口にした言葉だ。ルイの腕の中で、すがりつくような視線を向けながら、彼女はそう言った。
――わたしの名は母の名です。今更他の名を名乗るつもりもありませんが、もう一つの名前がほしいんです。竜の王族が代々名付けてきた通名が欲しい。ルイ様に、付けてほしい。
その時ルイは答えられなかった。竜人の王が用いる通名を、憎いその象徴を、己の口を通して名付けられるはずがない。だがフィオナもルイの思いは承知の上でそう言ったのだ。
彼女の瞳が黄金に輝く。引き寄せられるようにしてルイは、何度目かの口づけをした。
不憫な少女。半分はヒト族の血だ。フィオナはフィオナであり、憎しみの対象ではない。
そう思った時ようやくルイは、自分の中にあるわだかまりの正体に気がついた。
憎いのは、フィオナ・ラインを救えなかった自分自身だ。父と母が死ぬのを、国が滅ぶのをただ見ていることしかできず、守られながら逃げ出した弱い自分が憎かった。
竜族ではない。竜族の中にも善と悪があることを、当然ルイは知っていた。憎しみを向けてはならない者が含まれているということも、知っていた。知っていながら、目を逸らし続けてきた。直視すればたちまち、己の弱さを認めることになるからだ。
――名前を、考えておくよ。
ルイはフィオナにそう答えた。答えたまま、永遠の別れを一方的にしてしまった。
――約束ですよ。
言って微笑んだ彼女の顔を、ひたすらに目の奥に焼き付けた。死の際に思い浮かべるのはこの顔がいいと、そう思ったからだ。
(愛しい――何よりも愛しい人だ)
何よりも純粋無垢な、愛しい番。彼女を思うと忘れていた感情が鮮やかに蘇る。彼女はルイの心の中で、胸を焦がすような灼熱にも、凪のような安らぎにもなった。
彼女は生きなくてはならない。彼女自身の可能性を、彼女自身で切り開き、誰よりも幸せにならないといけない。憎しみではない。彼女のために俺は戦うのだ。
ルイは雲一つない晴れやかな空を見上げた。白銀が仲間を引き連れてくる可能性は低い。先の戦闘で彼の仲間は死んだか、フィオナ側に付いた。だから彼が来るとしたら単独に違いない。
こちらの兵の数は、当然彼も感知しているだろう。何を思うか――あるいは何も思わず、ただフィオナを取り返しに来るつもりか。
いずれにせよ、ここで必ず仕留めるつもりだ。ルイは白銀を殺すと決めていた。だがそれは、常に心にくすぶり続けた憎しみの炎によるものではなかった。
ふと、空の彼方にきらりと光るものが現れたことに気がついた。気がついたときにはもうすでに、ルイのほとんど目の前に、巨大な竜が姿を現した。
(やはり単独か)
フローダストに傷つけられた皮膚が未だところどころ傷ついている。白銀の瞳がルイを捉え怒りに染まる。ルイは剣を握りしめ叫んだ。
「貴様なぞに、彼女をくれてやるものか! 彼女は私の番だ!」
白銀の怒りをルイは感じた。彼の口から炎が吐き出され、ルイはそれを真正面から叩き切った。灼熱に触れ、体がたちまち溶けそうだ。だが魔剣がルイを守っている。確かな手応えを感じた。
(十分、戦える……!)
ルイは一歩進み地面を蹴ると、白銀の目前で剣を振るった。鋭い爪で防がれる。
交戦。交戦。だがやはり苦戦である。
(――不審がられてはならない)
一撃一撃、慎重に振るっていく。徐々にルイは押し負けていく。
ルイの剣が白銀の皮膚を切るが、切った側から回復していく。黒百合――アルネシアとは桁違いの魔力を白銀は持っていた。
遂に剣を握るルイの腕が裂かれる。先に死んだ仲間も、かような心持ちだっただろうか。痛みはほとんど感じなかった。剣が石の上に落ちる前に柄を蹴り上げ、役立たずに成り下がった手の代わりに、口に咥えた。
そのままルイは、砦の奥へと走り逃げた。洞窟の中を、広間に向けて走っていく。かつかつと、白銀が追ってくる音がした。
「ルイ・ベルトール。どこかで嗅いだ覚えのある匂いだと思っていたが、ようやく思い出した。私からフィオナを奪った王国の王子が、貴様と同じ匂いをしていたな。そうか、あの幼子か。どうりで竜族を憎むはずだ」
初めて聞く白銀の声は実に落ち着き払っていて、王たる威厳が込められていた。ルイなど余裕で殺せるのだと、彼の声は物語る。
「かつては取り逃がしたが、今度こそこの手で殺してやろう」
広間までたどり着いたルイは、背後を振り返る。ゆったりとした歩みで、白銀は姿を現した。
ついに二人は対峙した。
ルイは白銀の人としての姿を初めて見た。背筋が凍りつきそうなほど美しい生物だと、そう思った。
均整の取れた顔は美貌に溢れ、この世ならざる空気を纏う。白銀の長髪が彼の歩みに合わせて揺れ、まさに生物の頂点にふさわしい荘厳さであった。誰もがひれ伏し、忠誠を誓うにふさわしい人物を――ルイは一笑した。
「その傲りこそがお前の敗因だ」
白銀の目が、不愉快そうに細められた。それから彼は周囲を見渡す。ここにルイと自分以外の何者かを探すような仕草だった。
「彼女の匂いを辿ってきたんだろう」
言ってルイは、床に置かれた服を足で示した。それは早朝に盗んだフィオナの服だ。ずっと彼女が身につけていた衣服だった。
白銀の目が見開かれる。まさしく彼はこの匂いを辿ってこの砦までやってきたのだ。フィオナが今いる街は、竜族によって多重に結界が張られ、気配は遮断されていた。
ルイは彼に笑いかける。
「クローディアス。それが貴様の真名らしいな」
フィオナは彼の真名を知っていた。
竜族の王族は、真名を知られることを恐れる。己が支配されたように感じるからだ。だからこそ、ルイは再びその名を呼んだ。
「クローディアス。私は貴様の魂を支配してやったぞ」
白銀――クローディアスの顔がわずかに引きつった。ルイは愉快な心持ちになった。少なくとも一矢は報いることができたのだから。
それから、すぐ側にいるであろうギルバートに向かって叫んだ。
「やってくれドライド!」
直後、世界が割れるかのような轟音が、ルイの耳に届いた。




