裏切り者への慈悲は無く
フローダストが逃げ込んだのは大陸西側の山脈の中腹だった。夏場と言えど標高の高いこの土地には溶けることのない雪が積もる。
天空城にいた竜人達は方方に散ったのか、誰も付いてこなかった。
(結局、我々に対する忠義はこの程度のものか)
虚しさが胸の内を占めていた。
白銀が天空城を去って以降烈火が城に住み、臣下もろとも自らのものとし、誰もが表面上は父に従っていたが、命を顧みず共に付いてくる者はいなかったというわけだ。唯一、兄を信じ従った黒百合も既に死亡している。
(父上は最も信頼してくれた妹さえも駒として使ってしまったのだ)
フローダストは暗い思いに駆られながらも、人の姿となり、未だ気絶している父の治療をし始めた。傷は深く自らも負傷したフローダストにとっては困難ではあったが。それでも傷の残らぬように丁寧に治癒の魔術を重ねていく。
雪上を踏む足音がし、人がいる気配に気づいたのはその時だった。冷え切った空気が更に凍りついたように感じ、フローダストは瞬間、動くことができなかった。ようやく振り返った先に立っていたのは、予想通りの男であった。
「随分と勝手をしたようだな」
竜人が生み出した最高傑作とも謳われる美貌の王子。白銀の艶やかな髪を腰まで伸ばし、陶器のように白い肌からは血が通った温かささえ感じない。帯びる魔力は並外れており、側に寄るだけで空気が張り詰めるようだった。
番が誘拐されて以降、彼はこの大陸で捜索を続けていたはずだ。だが、弟の気配を辿ってここまで来たのか。
フローダストは彼の前に跪き、ただ名を呼ぶことしかできなかった。
「白銀様……」
白銀の黄金の瞳は冷ややかに、甥と弟を見つめた。それだけの動作にさえフローダストは畏怖を覚えた。矮小な生物が自然の脅威にただ怯えることしかできないように、震え、頭を垂れる。
(白銀様よりも強い竜だと――。父上の傲慢さ故の虚言だったか)
背には冷や汗が伝った。白銀はその薄い唇で弧を描いた。
「バルスロットよ」
フローダストさえ知らなかった父の真名を彼は呼ぶ。呼ばれた烈火は意識を取り戻したのか、呻き声を一つ上げた後で目を見開いた。
「あ……あにうえ……」
怯えた声色だった。
フローダストは敏感に察した。
(この方に勝てるわけがない。父上はだからこそ、白銀様の不在を狙ってことを起こす他なかったのだ)
白銀はその口元に未だ微笑を浮かべながら、慈悲深いとも思える声色でそっと弟に囁いた。
「いいんだ。もうよい。何も言うな」
言ってから白銀は右手を広げる。
一瞬、フローダストは白銀が烈火を許し、抱きしめるのではないかと思った。それほどまでに迷いなく、緩やかで、親愛の込もった動作だった。
白銀は、広げた手のひらをそのまま握る。短い悲鳴を上げて烈火が潰れた。
文字通り、蟻が踏み潰された跡のように肉体がぐしゃりと潰れてしまった。フローダストが必死に救い出した烈火は、血を流すのみの肉塊へと成り下がった。
慈悲など、与えられるはずがなかったのだ。大陸を統べる王が、たとえ弟だとしても裏切りを許すわけがない。
――次は己の番だ、とフローダストは覚悟し目を閉じた。だが広げた白銀の手は、そっとフローダストの肩に触れただけだった。
「そう怯えなくていい。フローダスト」
柔らかな声色だが、その奥に有無を言わせぬ支配的なものが含まれているとフローダストは感じ取った。
「お前は常に私に誠実であったな。今もそうか?」
白銀は暗に言っているのだ。過去と、そうしてまだ来ぬ未来において、裏切るのならば殺すと。
当然、フローダストは白銀に誠実だ。父の裏切りも知らなかった。
(だがそれをこの場で言って通用するのか――?)
フローダストが言葉を探していると、白銀は微かに声を出して笑った。
「まあよい、お前の性質は良く知っている。味方を大勢失ってしまった。信頼できる者を側に置きたい。私のために尽くしてくれるな?」
竜王の直系は、これほどまでに恐ろしいものかと改めて実感した。背後にある父の成れの果ての姿から意識的に目を逸らしながら、フローダストはさらに頭を下げた。
本能的に、王の直系に従い支配される快楽と恐怖を感じながらも、違和感が生じる。
「王族たる私の命は竜王様のもの。その第一の息子である白銀様に、従います。ですが」
白銀に頭を下げたまま、フローダストは言った。
「ですが既に知れているのでお話します。フィオナ様は、白銀様の御息女であらせられるのでは」
「そうだ」
あまりにもあっさりと同意があったため、フローダストは思わず顔を上げ叔父の姿を凝視した。彼は既に笑みを消し、冷徹にフローダストを見下ろしている。
「あれは私の娘であり、妻の生まれ変わりだ。私の愛だけを受けていればよい存在だ」
耳がおかしいのでなければ自分の頭がおかしいのかもしれない。
白銀はなおも言う。
「フィオナは産まれたときから私のものだ。誰にも奪わせはしない。生け捕りにして、自分が誰のものであるかを、今一度じっくりと分からせなくてはなるまい」
穏やかな狂気にフローダストは薄ら寒いものを感じた。
違和感が、再び強くなる。
崩れ落ちる島の横、遥か天空からこちらを見下ろしていたフィオナの姿を思い浮かべていた。
美しい竜だった。
だがそれ以上に痛々しく悲惨であった。
彼女は罪人だ。だがフローダストにも罪はある。
父の命令により、多くの国を滅ぼし、罪のない者を殺してきた。それ以外の生き方など知らなかった。
きっと彼女もそうだった。白銀の娘として産まれ、妻として育てられ、それ以外の生き方を知らない娘。だが彼女は、自分の道を見つけたのだ。だからこそ突き進む。それがいかなる茨の道だったとしても。
フローダストは竜王の孫という同世代の立場の彼女に、既に同情と勝手な共感を寄せてしまっていた。
彼女は竜族の掟――同族を殺してはならないという鉄の掟を破り、数多の竜人を殺めた。
同族と敵対し、憎んでいる。
だがそれが、利用され続けた彼女の怒りと復讐に思えてならなかった。




