知らぬ草原の上で
とにかく無我夢中で逃げたから明確な目的地などなく、自分達がどこにいるのかさっぱり見当がつかない。見えるのは草原、そうして離れた場所には木々があるのみで、人の気配はしなかった。
ルイの体を抱きしめていたフィオナは、彼が思い出した痛みに呻いたため慌てて離れ、急いで治癒の魔術をかけた。細かい傷は治ったが、失った右腕と左目は再生することはない。
体を離してからも、ルイは赤く光る瞳でまだフィオナを見つめていた。その目には多くの疑問が浮かんでいる。それに全て答えられるだろうか、とフィオナは思った。自分もまだ、全部は整理しきれていないのだから。
人の気配のない草原では人目を気にすることはなかったが、二人とも異様な出で立ちだった。ルイの着ている服は破け、体中傷だらけで、おまけに片腕と片目は存在しておらず、フィオナに至っては全裸だった。
ルイは目を閉じ、しばらくの間、沈黙した。そうして再び開いた時、彼なりに状況を受け入れたのか「とりあえず服を」と言って、自分の血だらけのシャツを脱ぎ、ふらふらと立ち上がろうとしてよろめいた。
「服を、着て」
なおも彼はそう言って、体を支えるフィオナにシャツを押し付けてきた。彼の服は血だらけで破け、ほとんど服の意味をなしていなかったが、ともかく体を隠せという意味のようだ。
(服を綺麗にできるかしら)
血だらけのシャツを受け取りながらフィオナはそう思った。
多分、できる。清浄の魔術を使えば血は落とせるはずだ。だがフィオナはまだそうはしたくなかった。ルイの血さえも愛おしかった。未だ残る彼の熱と匂いに包まれていたかったからだ。
空は雲一つない快晴だ。
(追っ手はこない。空で撒いたもの)
混乱の最中で放たれた竜人のうち、誰もフィオナの速さには付いてこれないようだった。
(こんな状況なのに、わたしは妙に冷静だわ)
いつも頭の中にある靄が消えていた。
生まれてから初めて、これほどの爽快さを感じているかもしれない。
「貴女は、自分が何者であるか知っていたのか?」
服を着終えたフィオナを見上げ、未だ地面に座るルイはそう言った。
「いいえ……だけど今は、妙に納得しています」
フィオナは素直にそう答える。今まで二人の間にあった奇妙なよそよそしさは、今になって消え失せていた。
「わたしは白銀とフィオナ・ラインの娘で、そうして貴方はルミナシウス・ルカリヨン。幼い頃にわたしの母と会っているのですね?」
「ああ」
あっさりとルイは認めた。フィオナはルイを見下ろし再び問いかけた。
「白銀様の家来というのは嘘」
目を伏せて、ルイは答えた。
「ああ」
聞いたフィオナは口元を緩める。
「それはなんとなく、分かっていました」
ルイの目が疑問を孕む。その赤色に向かってフィオナは答えた。
「だって、祖国を滅ぼした人に従うようにはみえませんでしたもの」
普通なら、騙されていたことに傷つき怒るべきかもしれない。だが道中での彼の態度を思い返してみても、募るのは怒りではなく愛しさだ。彼がフィオナを見つめる遠慮がちな瞳と、そっけない態度は罪悪感の裏返しのように思えた。
隊の面々のことも思う。彼等は銘々に親切で、そうしていずれの視線にもフィオナに対する憐憫が含まれていた。それさえも、愛らしいものだ。
フィオナは微笑む。
「貴方はやっぱり王子様だったんだわ。一番初めに、王子様だと尋ねたときに、そうだと言えば良かったのに。自分はルミナシウスだって、そう言ってくれたら、話はもう少し単純だったかもしれない」
ルイは呼吸を一つ吐いて、今度こそ立ち上がった。
「元、王子だ。それに私自身も忘れていたことだった。貴女がその人工精霊をルミナシウスと呼んだ時にようやくその名を思い出したほどには、自分の名を捨てていた」
フィオナの肩に止まっていたルミナシウスが光りながら飛び上がった。竜になってからもルイを掴んでいない方の手の中に、ずっと収まっていたフィオナのたった一つの財産だった。
その光を見ながら、ルイは呟いた。
「竜人達は貴女に気づいただろうか」
「ノットさんの前で竜になってしまったから、多分、気づかれていると思います……」
「では白銀の狂気も知ったということか」
フィオナは小さく頷いた。
怖くなった時にいつも、頭を撫でてくれた優しい手の記憶がある。それは白銀の手だと思っていたが、もしかすると母だったのかもしれない。
自分が白銀の娘であるということを、驚くほど自然にフィオナは受け入れていた。幼い頃から漠然と抱いていた違和感はようやく今日、氷解する。
(わたしは祈りを抱いたまま殊勝に死ねるかと言われるとそうではないもの)
この旅で痛感したが、フィオナはいざという時に、死ではなく命の限り戦うことを選ぶだろう。他者の命を奪うことに迷いは生じるかもしれないが、自分にとって大切なものを守るためなら結局は奪う。フィオナ・ラインなら自分の死を選ぶんだろうなと、彼女の記憶を知るフィオナは思った。
(白銀様に対して恋心を抱けなかったのも当然だわ。父親なんだもの)
フィオナ・ラインが天空城にいた三年のうちにフィオナを産んだとするならば、自分は十六歳ではなく、十七か、十八か――。牢でルミナシウスと話していた記憶の頃には既に、自分は天空城でほぎゃほぎゃ泣いていたと思うと不思議な心持ちになった。
白銀と自分の関係を考えると、みぞおちの辺りが重くなる。母の代替品にしようとしていたことに対する怒りはもちろんあった。だが同時に、未だに情を抱いてしまう自分に腹が立つ。
結局、生まれ変わりなど伝承に過ぎなかったのだ。母は母で、自分は自分。前世の記憶だと思っていたものは、母親の人生だった。
フィオナは運命に翻弄されて死ぬしかなかった慈悲深く心優しい少女ではない。たとえ何と戦ってでも、運命を勝ち取ってみせる。ルイに出会って、フィオナは世界を見通すことができた。
「貴女はこれからどうするつもりだ。遠くへ逃げるのなら手を貸すが」
とても人に手を貸せるほど手が足りているようには見えないルイに向かって、フィオナは言った。
「バルスロットというのが、烈火の真名です。黒百合の真名は、アルネシア」
目を見張るルイに向かってフィオナは笑いかけた。
「わたしも覚悟を決めました。わたしの前に立ちはだかるのなら、彼等を殺します。フローダストも、西大陸の竜王も、その他全ての敵も。彼等を倒し、白銀様を――父を、打ち倒して、わたしがこの大陸の王になります。王になって、この大陸の解放を宣言します。……だから、わたしは貴方と共に参ります」
ルイの瞳が揺れ、種々の感情が様々に浮かんだように思えた。だがそのどれも口にしないうちに、彼は別のことを言う。
「なぜそこまでしてくれるんだ。貴女は私に何を望む?」
「結婚してください。貴方が好きです。愛してます」
フィオナは即答するが、ルイは首を横に振る。
「できない。婚約者がいる」
フィオナの顔が曇った瞬間、ルイは即座にこう付け足した。
「友人になら、なれる」
自分で言ったにも関わらず、ルイは自分の言葉に驚いているように片手で口を塞いだ。竜を憎む男にしては偉大なる変化ではあったが、フィオナはその事実にまだ気づいていなかった。
恋人にはなれないと断言されたが、それほど悲しんではいなかった。塔の中で孤独に過ごしていたフィオナにとっては、友人だとしても嬉しかったのだ。
顔が熱くなるのを自分でも止められない。ルミナシウスが喜びを分かち合うように宙を舞った。ルイに向かって、フィオナは言った。
「何百年も続く平和を、わたしが作ります。貴方と婚約者の方が、憂いなく過ごせる平和を。わたしはきっと何百年も生きますから、ずっと平和を守ります」
フィオナ・ラインが祈っても、世界が変わらなかった。今なら理由が分かる。祈るだけでは何も変わらないのだ。
竜人の寿命は八百年ほどだから、半分その血が入っているフィオナも相応に長く生きるだろう。果てしない時間を思って、フィオナは目を細めた。竜族が同種族としか関わりを持とうとしないのは、他種族と関わりを持っても、あまりに早く別れが来てしまうせいかもしれないと初めて考えた。
あの街で、竜がフィオナに従ったのは白銀の番だからではなく、フィオナの中に流れる王の血によるものだ。愚鈍な使役竜達が最も早く真実に気づいていた。ルイの持つ魔剣"竜殺し”はフィオナを殺したがっていた。だから恐ろしかった。始めからそれだけだったのだ。
(そうしてわたしがルイ様に惹かれたのは、彼こそがわたしの番だったから)
だが彼は直感が鈍いヒト族で、だからこそ別に愛する人がいる。彼を愛しているからこそ、自分の感情を一方的に押し付けることはできない。そんなことをしてしまえば白銀と同じだ。
(なのにわたしは自分の感情だけで彼に口づけをしてしまったわ)
フィオナは未だ熱の残る唇を噛み締めて、ゆっくりとルイに言った。
「あの、ルイ様。勝手にキスしちゃってごめんなさい」
フィオナ・ラインは死んだ。魂は蘇らない。伝承は嘘だった。フィオナは彼女ではない。フィオナはただの、フィオナだった。他の誰でもないし、自分の感情としてルイを愛している。
ルイは目を丸くした後で、ようやく小さく笑って言った。
「改めて見ると、貴女とフィオナ・ラインは、あまり似ていないかもしれないね」
二章開始です!引き続きよろしくお願いします!
一章で上級、下級と竜人を分けていましたが統一するように修正しました。すみません。
楽しんでいただけていたらとても嬉しいです。
ちなみに本編に関係ないのですがルイの初恋はフィオナ・ラインだったんじゃないかと作者は考察しております。




