港の兄妹【前編】
インエットは巨大な港を持つ西方の都市国家だった。一方を海に、三方を山に囲まれており、年間を通して過ごしやすい気候が続き、空気はからりと乾き、市場には多種多様な種族や国籍の者が集う、活気が満ちる土地だった。
山の向こうにある複数の大国は、年がら年中稼働しているこの港を狙っているが、天空より竜王が睨みを効かせているため、表立っての争乱はしていなかった。東大陸ではもう長い間、国家間の大規模な戦争は起きていない。それも全て、竜王が統治しているためだった。
国王一家が住む城は海にせり出た半島の上に建っていた。建国以来、ヒト族のこの一族は途絶えることなく続いており、現在の王は十代目だった。
王には子供が三人いたが、嫡子は一人だけで、残りの二人は庶子だった。
ルークスとミエラ、というのが、その庶子の名前だった。兄と妹で、十二歳と十歳だった。
この日も妹の泣く声が聞こえて、ルークスは打ち込みかけた剣の手を止めた。相対していた男は大きくため息を付く。
「行ってやりなさい」
その言葉を聞く前に、ルークスは既に剣の試合を放り出し、大急ぎで城の中に入っていった。試合相手はルークスが頼み込んで剣術を習っている近衛兵団長で、庶子を不憫に思ったらしい彼は、忙しい合間を縫ってこうして相手をしてくれていた。
本来ならば試合を投げることなどあっていいはずがないが、そうも言っていられない事情がある。ルークスの妹のミエラが泣く理由は、この城に来てから一つしかないのだから。
(またあいつ、ミエラにちょっかいをかけやがって!)
ルークスの頭は怒りに燃えていた。また腹違いの兄がミエラに暴力を振るっているに違いない。
嫡子イクスは王子であり、この国の正統な後継者であるが、どう教育を間違えたのかその性格はひどく歪んでおり、腹違いの弟妹を目にする度に喧嘩をふっかける。ルークスとイクスであれば真っ当な喧嘩になるが、幼い少女であるミエラでは太刀打ちできるはずがなかった。
案の定、城の家庭教師の授業が終わり部屋の外に出たらしいミエラが、廊下にうずくまり頭を抱えて震えていた。頭を叩かれたのだ。ルークスの頭に血が上り、ミエラを抱きかかえイクスに叫んだ。
「いい加減にしろ! ミエラに構うな!」
イクスはルークスより四つ上だが、年上の余裕など微塵もないように思えた。イクスは口を歪めて冷笑する。
「ならお前が相手するか? またボコボコにされてもよければな」
以前、この腹違いの兄と喧嘩をした際、どう考えてもボコボコにしたのは魔術を使えるルークスの方だったが、それを父に見咎められ、罰だと言って折檻を受け、最終的にはルークスの方が大きな傷を負った。そのことを兄は言っているのだ。
(自分の力で戦えない、弱いやつのくせに)
ルークスは内心でこの兄を見下していたし、父に命を受けた嗜虐趣味な臣下にいくら鞭で打たれたところで、今この場で兄をぶちのめすことができるのなら構わなかった。良心が痛むのは、ルークスの傷を見たミエラが泣く時だけだ。
治癒の魔術で傷を治すこともできたが、そうすると兄はますます逆上しミエラに当たるため、ルークスはあえて傷を治していなかった。
兄が自分達のことが気に食わないのは、外見の違いにもあるだろうとルークスは考えていた。醜いとまでは言わないが、イクスの外見は父譲りの色黒で、大作りな顔立ちにも骨格にも山間の民族の血が色濃く出ているのに対して、踊り子であった母親に似た柔和な顔立ちを持って生まれたルークスとミエラをとにかく好いてはいないのだ。色白の肌と金色の髪は、この王族の中でひどく目立った。
ルークスは肩まで伸びた髪を後ろで一つに結ぶと立ち上がる。
「良いぜ兄上、やってやる」
そう言って両手に魔法陣を出現させると兄の顔が引きつった。この魔術は、同じように魔術の使える母から教わったものだ。生きるためには必要だからと、文字の読み書きよりも前に母は自分に教え込んだ。
怯えるイクスの顔を見て、ルークスは心のうちでほくそ笑む。
(お前に俺と戦う度量なんてあるはずがないんだから、大人しくしていればいいのに)
母が死に、父によって発見されるまでの間、喧嘩一本で身を守ってきた野良犬のようなルークスにイクスが勝てるわけもない。今日こそこいつを殺してやる、ルークスがそう思ったときだった。怒号が響く。
「よさぬか! 今日は竜王陛下より使者が参るのだ。くらだん諍いはよせ」
現れたのは父だった。
厳しい顔付きで、睨むのはイクスではなくルークスだ。自分達が愛情によりこの城に招かれたわけではないことをルークスはよく知っていた。ルークスとミエラを城に連れてきた父でさえ、二人の扱いは厨房を荒らす鼠よりはわずかにましな程度である。
イクスは勝ち誇ったかのようなしたり顔を二人に見せた。
「使者殿に、そんなみすぼらしい姿を晒さないよう、庭の隅に隠れてろ。この城にいさせてもらうだけでも感謝しろよ、畜生共」
そう言って兄はルークスとミエラの前に唾を吐いた。
やり返すには分が悪かった。父から折檻を受ける程度ならいくらでも受けるが、ルークスが恐れていることは、自分が諍いを起こした末に、ミエラと引き離されることだった。化物ばかりが蔓延るこの城で、妹のことを守れるのは自分以外にいなかった。
ルークスは言われた通り城から出て、庭の道具小屋の陰にミエラと共に身を隠していた。どのみち竜王の使いになど会いたくはないから、言われなくても外にいるつもりだった。
木の壁に身を持たれかけながら、片腕でミエラを支えていた。妹はまだしゃくりあげている。
「ミエラ。またあいつに意地悪されたら俺に言うんだぞ。お兄ちゃんが絶対にお前を守ってやるから」
腕の中で、こくりとミエラは頷いた。その仕草は王女にはとても見えない。
心無い者に時に王族らしくないと揶揄されているのは知っていたが、仕方のないことだ。二人が王家の一員として城で暮らし始めたのは先月のことだった。
踊り子として街で働いていた母の元に二人は生まれ、父親の顔も知らずに育った。病で母が死に、妹に苦労をさせまいと仕事を増やそうとしていた矢先に、王家の家臣が現れたのだ。
魔術により血統の確認があった。結果、父の子供で間違いがないとのことだった。
父が愛情により二人を引き取ったのではないということはすぐに分かった。王家は娘を必要としていたのだ。ルークスは不要だったが、兄と一緒でなければ死ぬとミエラが泣きわめき、実際にナイフを持ち出し首に当てたため、仕方なく父は二人を一緒に引き取った。
ミエラは大国の王への貢物だった。虎視眈々と港を狙う隣国から国を庇護してもらうためのカードとして、ミエラが必要なのだ。
「ミエラを山の向こうの王国の嫁にやるのが、いよいよ来月に迫っているみたいだ」
ルークスは己の無力さに打ちひしがれながらもそれを表に出さないように努めて明るく言った。厄介事ばかり起こすルークスに情報はほとんどもたらされないが、哀れみをくれる数人からミエラのことを聞いていた。
聞いたミエラはまたしても目をうるませる。
「いやだよぉ……行きたくない。王様は若い娘ばかりお嫁さんにもらって、皆、死んで帰ってくるって」
ミエラの嫁ぎ先の王に、今までも王妃はいた。いずれも弱小国より輿入れされた、弱い立場の王女達だ。
要は変態なんだろうとルークスは思っていた。そういう嗜好の持ち主に、ミエラを渡すつもりはない。ルークスは腕に力を込めた。
「俺がそんなことさせない! その前に二人で逃げるんだ!」
すがるような目をしてミエラはルークスを見た。
「俺は魔術に長けてるし、二人くらいなら生きられる。逃げる算段だって付けてる」
そのために剣術も馬術も教わった。教えている者達は婚外子の暇つぶしとしか捉えておらず、まさかルークスが逃亡のために学んでいるとは思ってもいないだろう。食べられる野草や動物の捌き方についても本を読んだ。自分に文字が読めることをこれほど感謝したことはない。
馬に乗って逃げて、父王の敵に自分を売って真っ向から対立してもいいし、そんなことをせずとも用心棒として雇先を探せば良い。
「剣の腕だって天才的だって、教えてくれる人が言った。俺は強い。だから大丈夫だ」
言ってから、自分の右手を見た。幼い頃から、はて自分の右手はこうだったかと思うことが時折あった。その右手は、剣を知ってから幾度となく剣を求めるように疼いた。
だからきっと、己には剣の才能があるのだと、ルークスは考えていた。
「どうとだって暮らせるさ」
楽天的なのは母親譲りかもしれない。ミエラの肩をぽんと叩いてから、ルークスは空を見上げた。
天空の城が、青空を背景に浮かんでいた。
かつて天空城は特定の場所の上空に浮いていたらしいが、現在では東大陸の上空を気ままに移動している。
「あの城から白銀に光る竜が飛び立つのを、母さんが生きてた頃、一度だけ見たことがある。あれが竜王陛下だったのかな」
日の光に当たった鱗が煌めいて、この世のどんなものよりも美しい姿をしていた。天才と呼ばれる彫刻家さえ、あの姿は写し取れまい。
西大陸にも竜王はいるが、この大陸で竜王と言えば、白銀の鱗を持つその竜人のことだった。
「わたし、みたことない」
ミエラが少し不満げにそう言った。
「お前は小さかったから」
笑ってそう言ってから、遠い世界に思いを馳せた。
「先の大戦でも、竜王陛下は恐ろしいほどの強さを見せたって。番様を亡くした悲しみは深かったろうに、それでも大陸に生きる者のために戦い抜いたんだ」
「竜王さま、かっこいい」
ミエラの言葉に、うん、とルークスも頷いた。竜王は長い間地上に降り立っていないと言われているが、姿を見せずともこの大陸の誰もが憧れ、尊敬している。
自分たちの状況は良くはないが、遠い世界を生きる者たちに思いを馳せている間は、辛い現実を忘れられる。
「使者か――どうせ俺達は会うことすら許されないんだろうけど、どんな竜人がくるんだろう」
その使者が今日来ることさえルークスは教えられていなかった。一切が蚊帳の外なのである。
「フローダスト様って方がいらっしゃるって」
ルークスは驚いてミエラを見た。
「どうして知ってるんだよ」
「先生が言ってたから」
家庭教師が伝えたらしい。
王妃となるミエラには突貫的に教育が施されているが、ルークスには教師が与えられていない。ミエラは嫁ぎ先にもルークスがいると信じているが、父にはそのつもりがないのだ。ミエラが嫁げは自分は老いて不要になった馬のように、簡単に処分されるのだろう。
「聞いたことあるよ。烈火って竜人の息子で、竜王様にも信頼されてる。王族の中の王族だぞ。そんな人が、こんな小国に何の用なんだろう」
「お父様たちも、知らないんだって」
ルークスよりもこの城の内情に詳しいミエラがそう言った。あんなやつを”お父様”だなんて呼ぶ必要はないと言ってやりたかったが、堪えた。忌々しいが父親であることには変わりない。
ため息が出た。
と、その時だ。庭が騒然とする。
数人の慌ただしい足音が聞こえて、ルークスは身を固くした。ミエラも体を縮め、息を殺している。フローダストが到着したのかもしれない――と思い、そうしてすぐに、その予感が正しかったのだと知った。
「フローダスト様! そちらには何もございません! どうか城へ……!」
父の声だ。これほどへりくだって、そうして焦った声色を聞いたことがない。竜王の使者というのが傍若無人で、父を困らせているのだろうかと、ルークスはほんの少し愉快な心持ちになった。
「黙れ、隠そうとて無駄なことだ!」
知らない男の声だった。
(竜人の声だろうか)
初めて聞いたが、ヒト族とそう変わりはないように思えた。もっとも、巷で会う獣人達もヒト族とさして変わらないのだから、結局は竜族とて似たようなものなのかもしれない。
きっとそのままこの気配は通り過ぎていくものだろうと考えていた。だが足音はどんどん近くなり、そうして小屋の反対側で止まった。
「そこにいるのか」
意外にも戸惑ったような声だった。ルークスとミエラは顔を見合わせる。この城で、自分達に用がある者などまずいないからだ。
声は、妹の名を呼んだ。
「ミエラ――」
瞬間ミエラは目を見開いた。そうしてルークスが止める間もなく立ち上がり、弓で弾かれたように小屋の脇に体を顕した。
遅れて、ルークスも妹に続く。
竜人を間近で見たのは初めてのことだった。水色の長い髪が風に揺れてなびいていた。体格のよい身体には、白く長いローブを纏っている。満月のように輝く黄金色の瞳は、何が珍しいのかミエラを凝視していた。
(腹が立つほど整ってる)
ルークスが抱いた第一の感想はそれだった。
現れた竜人は、氷像のように美しかった。
(なんで動かないんだよ)
第二の感想はそれだった。だが異変は竜人にだけ起こっているわけではなかった。
目の前で立ち尽くす妹の両目はフローダストを捉えたまま、大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「どうしたんだミエラ。おい、ミエラ? ミエラってば!」
揺さぶっても、時が止まってしまったかのように動かない。
妹は竜人を見たまま立ち尽くす。竜人にしてもだいたいは同じようなものだった。
ルークスはただ、困惑のまま二人を見ていることしかできなかった。




