崩れていく
宮殿には無限と思えるほどの部屋数があり、うちの一つがフィオナに与えられた。天空城には前世では三年住んでいたが、記憶は未だに曖昧な部分が多く、詳細を思い出せはしなかった。
(このお城の中で、何かとても大切なものを得たような気がするのに)
だがそれがなんだったのかは分からない。もどかしいと思えど、答えは出なかった。
烈火の指示で、フィオナは賓客として扱われ大層丁重なもてなしを受けた。専属だという竜人の侍女が三人付き、部屋には毎日浴槽が運び入れられ、体を洗うことができ――爪の間や髪の毛にも汚れが入り込み、初日は恥ずかしい思いをフィオナはした――宮殿用に、ドレスも贈られた。
食べきれないほどの量の食事が三食出され、そうしてどれも美味しかった。部屋から一人で出ることは禁じられていたが、見張り付きであれば宮殿の中や庭は探索することが許されていたため、機会を得ては散歩するふりをしてルイ達を探したが、残念ながら見つけることはできなかった。
天空城の庭には前世の記憶の通りに池や森があり、氷の角を持つ鹿や、魔力を帯び光る蝶、朝晩で色の変化する花があったが、以前とは異なり心はさほど惹かれなかった。人工精霊のルミナシウスだけは物珍しいのか、普段より活発に庭の上を動き回っていたものの、フィオナはただひたすらに、ルイ達の身を案じていた。
フローダストは日に一度はフィオナの顔を見に部屋を訪れ、その度にルイ達のことを尋ねたが、決して教えてはくれなかった。だがどうやら、まだ命はあるらしい。それだけは教えてくれた。
そのような生活の中だったが、嬉しい再会があった。
道中で捕虜となっていた狼族の獣人ノットがこの宮殿にいて、フィオナの部屋を訪れたのだ。
「フィオナ様! 良かった、ご無事でしたか!」
第一声はそれだった。フィオナが知る彼は土で汚れた服を着て、大抵の場合縛られていたため、綺麗な服で髪も整えて自由に動き回る姿は新鮮だった。
狼族の特徴である長い耳がピクピク動いていて、尻尾は小さく揺れていた。彼はフィオナの前に膝をつくと耳と頭を垂れる。
「ノットさん、この宮殿にいらしたのですか」
頭を下げたまま、彼は言う。
「はい、公国の城に捕えられていましたが、帝国の兵士によって助け出されました。貴女を救えずに申し訳ありませんでした」
救えずにと言うが、フィオナにも救われる気はなかったから仕方ない。
「頭を上げてください。貴方がご無事で、心から嬉しいです」
本心を半分だけ告げると、ノットは顔を上げる。表情は疲れ果てているように見えた。
「俺はただ、白銀様から貴女に薬を飲ませるようにと仰せつかっただけで、こんなことになるなんて、全く、全然、少しも思いもしませんでした。お優しいフィオナ様を騙したなんて、最低な奴らだ」
最低だと、一言で片付けてしまえれば、フィオナも随分楽になる。だがそうはできなかった。
「わたしはあの方達が好きです。悪人とは思えません」
ノットは目を伏せた。
フローダストのように否定するだろうと思ったが、意外にも、うん、と彼は頷いた。
「まあ、確かに。俺も危害は加えられなかったし……。あの竜殺しなんて、俺はいい斥候になれるから自分の隊に加わらないかって言ってきて、当然断りましたけど。断ったから殺されるかと思ったけど、でも、そうかって言って、軽く背を叩かれただけでした。
それにあいつ……ヘンリーってやつ。あいつとはまた話してやってもいいかなって思ってました。あいつ、俺の食事係で、その間、割と話してて。年も近いし、結構気が合ったんですよ。捕虜だった俺にも親切で――敵だし、あり得ないけど、いつか連邦国に一緒に行って観光案内してやるって言ってて。だけどあいつも殺されちゃうのかな」
そう言って、なんとも切ない表情を浮かべたため、フィオナは慌てて言った。
「命は助けてくださるって、烈火様はおっしゃいました。だから大丈夫です」
しかしノットは眉を顰める。
「まさか。烈火様は敵をお許しになるような方ではありません。今、ルイ・ベルトールは拷問されているって噂ですよ。拷問っていうか、憂さ晴らしかもしれない。思う存分に痛めつけて、その後で処刑するって」
聞いたフィオナは背中に冷たい汗が伝う。
「で、でも、烈火様は考慮してくださるって」
「考慮した結果、やっぱりだめだとなったんじゃないんですか。……俺もこんなことを、貴女に言いたくはないけど、ルイ・ベルトールは相当に竜族を殺している。烈火様の慈悲はありえない」
「じゃ、じゃあ、死ぬ――?」
死ぬの? ルイ様は。
問いかけに、ノットは頷いた。
心がざわめく。皮膚がぴりぴりと総毛立った。助けなきゃと、それだけを思った。
「ノットさん。わたしをここから逃がしてくださいませんか?」
ノットは目を見開いて、勢いよく首を横に振る。
「無理です! そんなことはできない!」
「お願いです! みんなを助けたいんです!」
「いやいや無理ですって! 俺にそんなこと頼まないでください!」
青ざめた顔でノットは言う。
「それに逃げたとして、どうするんです? 貴女一人で彼等を助けられるって言うんですか?」
問いかけにフィオナは答えに詰まってしまった。
確かに無理かもしれない。しかしノットと二人なら、可能性は見えてくるんじゃないか。使役竜は白銀の番であるフィオナの命令に従うかもしれない。
そう言おうと思って口を開きかけた時、ノットの両手がフィオナの両肩にかけられた。説得するように、彼は必死にフィオナの目を覗き込む。
「フィオナ様、貴女は白銀様の番です! あの方が、どれほど貴女を愛していると思っているんですか? 俺は、物心付いた時にはあの方のところで働いていました。気が利くからって、身の回りの世話や雑用を任されるようになったんです。俺みたいなやつにも優しくしてくれる方です。素晴らしいお方でしょう! 裏切れません!」
「だけどそうなったのは、あの方が貴方の故郷を侵略して、ご家族を殺したからでしょう?」
言ってから、自分が言ってのけた言葉に驚いた。なんてひどい言葉なんだろう?
言葉の刃を迷いなく、冷静に選択した上でノットに突き刺した。
「ごめんなさい……。わたし、どうかしてしまいました」
頭がくらくらする。もうずっと、混乱は続いていた。
悲しげな目を携えながらもノットは言った。
「いいえ、いいんです」
二人の間に、にわかに生じた熱は急速に冷める。フィオナの肩から手を外して、床を見つめながら、ノットはぼそりと呟いた。
「俺がもし、その時もっと大きかったら、白銀様は保護せずに殺したのかな――」
疑問の答えを二人は知っていた。だから互いになにも、言わなかった。
◇
二度ほど逃亡を企てて、二度失敗した。
フィオナに付く見張りは侍女の他に兵士も増えた。だが諦めてはいなかった。
どうにかして外に出て、皆を助けなくてはいけなかった。
風呂も食事もドレスも、何もかも魅力的には映らない。焦れば焦るほど、何もできない日々だけが積み重なっていく。
(白銀様はきっともうすぐいらっしゃるはずだわ)
なぜ彼がこんなに長時間会いに来てくれないのかは分からないが、烈火から報せがいっているはずだった。
(白銀様に、あの人達の命を助けてもらうのよ。わたしを大切にしてくださる白銀様なら、わたしが懇願すれば、きっと聞き入れてくださるはずだもの)
だから早く会いたい。
塔を出てからのどんな時よりも強く、フィオナは思った。早く白銀様に会いたい、と。
それはそうやって過ごして、おそらく十日目のことだった。
眠ったか眠っていないか分からない夜が明けた朝、宮殿を包む空気がおかしいことに気がついた。密やかなざわつきや、熱気が、いたるところから漏れ出ていた。
今日はなにかあるのかと侍女に聞いても、なにもありませんと返事があっただけだ。だが確実に何かがおかしい。
何が起こるのか知ったのはノット来た時だ。彼が部屋に来るのは珍しくないが、いつになく暗い顔をしており、フィオナを見ると耐えきれなかったかのように、こう言った。
「今日、ルイ・ベルトールが処刑されるって」
聞いた瞬間、フィオナは体から力が抜け、側にあった椅子にふらふらと腰を下ろした。
「どこで……」
弱々しい自分の声がする。
ノットは力なく首を横に振った。
「この諸島の、どっかの島です。詳細な場所は分からない」
思わず窓の外を見た。浮かぶ島々から返ってくるのは静寂だけで、どこにルイがいるのかは分からない。
(烈火様は、わたしの想いを汲んでくださらなかった。白銀様に、まだお願いしていないのに)
猛烈な恐怖がフィオナを襲う。
「いや――。嫌よ……!」
言った瞬間、激しい頭痛がして、思わず両手で頭を抱えた。
(目の前がチカチカする――!)
ルミナシウスが光りながらフィオナの頭の周りを飛んでいる。
自由が欲しい。願った通りに生きられる力が欲しい。祈りを叶える強さが欲しい。
フィオナの呼吸は早くなる。
「フィオナ様? 大丈夫ですか」
こちらを案じるノットの声に答えられない。
体が熱い。熱くてたまらない。前に倒れた時のようだ。だが今ここに薬はない。
(このまま死ぬの――?)
ルミナシウスがフィオナの震える手にすっぽりと収まる。
頭の中で声が響く。
助けなきゃいけないでしょう? 助けなくちゃ。――ええそうね。あの子を今度こそ助けなくちゃ。大切な、わたし達のお友達……。
「フィオナ様、目を開けてください! 誰か、誰か来てくれ!」
フィオナの体は傾いて、慌てて受け止めるノットの腕に支えられる。
気持ちを隠すことがもうできない。
(あの人が好き。白銀様とではなくて、ルイ様と一緒になりたい)
失うなんて耐えきれない。
話すと心に風が吹いてくるみたいな、彼だけに光が差しているみたいな、陽だまりの中にいるような、そんな思いにさせてくれる人。側にいるだけでもう既に幸せだった。
(ルイ様はわたしに生きる力を与えてくれた)
一人で生きてもいいのだと教えてくれた。
(体が、熱い。熱い――)
違和感はあった。生まれた時からずっと抱いていた。
――わたしは前世のわたしじゃない。
じゃあ、わたしは誰? わたしは一体どこから来たの?
ルミナシウスがじっとフィオナを見つめている。
ぼんやりと手を見つめた。
ヒトの手が歪んでいく。
体の輪郭が溶けていく。
境界が曖昧になる。前世が消えていく。
フィオナはもう、フィオナではいられなかった。




