愛しいつがい
竜人の支配地域に近づくにつれ、フィオナの目に入ってきたのは空に浮かぶ城だった。フィオナはそれを、孤独に馬車から見上げていた。
――あそこに、竜人達の住む城がある。そうしてフィオナが死ぬまで暮らす城にもなるのだ。
地形的なものか、魔術的なものかは知らないが、土地は空に浮いていて、竜王が東大陸の支配を決めた二百年ほど前に、拠点として築いたものだった。
周囲には乳白色の濃い霧が立ちこめ始めた。視界が悪く、どこをどう通っているのか次第に分からなくなる。側にいた護衛達の姿は霧に飲まれ消え失せていて、レオニールの姿も見つからなかった。
不安と恐怖と緊張のまま、フィオナはじっと耐えていた。
唐突に馬車が止まったのは、霧の中に入って一時間ほど移動した頃だった。
「着いたのですか?」
問いかけに、竜人の御者は黙って頷いた。
(着いたって言っても、この霧じゃ何も見えないわ)
そう思いながらも促されるまま馬車から降り、数歩、歩いた時だ。
突然、視界が開けた。
あれほど濃かった霧は消え失せ、青く澄み渡った空があり、足下には草原が広がっていた。目前には白亜の城が出現していて、遙か下には地面が広がっていた。
一瞬のうちに、フィオナは空の上の城まで移動していた。――たった一人で。
天空の城だからか、城を守る城壁は無かった。複数の諸島からなっているようで、別の島には塔のようなものも見えた。
唖然とフィオナは立ち尽くしていた。城の前には誰もおらず、ただ静寂が包むのみだ。
(お城の中に、入っていいの?)
そう逡巡していると、突然城の扉が開かれた。
「フィオナ・ライン?」
身を固くしていたフィオナは、聞こえた声にはっとする。男の声だった。
ゆっくりと、フィオナは彼を見た。そうして目を見開いた。
白銀だ。
そう思った。
彼に違いない、と。
美貌の竜人だった。
腰まで伸びる白銀の髪は、彼がフィオナに近づく歩幅に合わせて揺れていて、宝石のような金色の目は逸らすことなくこちらを見つめていた。すらりと背が高く、白い肌には血管が透けていた。
白地に金の縁取りがなされた長いローブを着ていて、その姿がまるで天からの使者のようにフィオナには見えた。
だがフィオナが彼から目を離せなかったのは、彼の外見の美貌によるものではなかった。
遂に白銀は、フィオナの目の前までやってきた。
彼の手がフィオナの頬に添えられた。たったそれだけのことなのに、フィオナの両目から涙が溢れた。
今までの人生が全てひっくり返るほどの衝撃だった。
(一方的にわたしとレオニールお兄様との婚約を破棄させておいて、傲慢な人だと思っていた。それなのに……)
フィオナは恋を知らなかった。
今、この瞬間までは。
レオニールに抱く親愛こそが、男女の愛なのだと思っていた。
だが、勘違いを知った。
何かを答えなくてはならないのに、喉に声が詰まって出てこない。思ったのは、これだけだった。
(彼こそが、わたしの番なんだ)
それは確かな実感だった。
知らない感情が芽吹き噴出した。初めて会う人なのに、懐かしくてたまらない。
「フィオナ――」
愛おしい者に呼びかけるような、優しい声色を白銀は発した。
百年ぶりに再会した恋人のように、さもなければ胸に神を抱く聖職者のように、白銀は恭しくフィオナを抱きしめた。
ここが自分の正しい居場所なのだと、フィオナは気付いた。彼の心臓の鼓動を感じ、目を閉じる。
「待っていたよフィオナ。貴女こそ、愛しい私の番だ」
その声色に秘められた情愛に気がついた瞬間、フィオナは心の底から思った。
――ああ、わたしも、この人をずっと待っていたんだ。
ヒト族は、番を番であると認識できない者がほとんどだ。だがフィオナはそうではなかった。
彼の腕の中でフィオナも涙を流しながら、初めて抱く愛の熱に戸惑いながらも打ち震えていた。
(今、やっと分かった。わたしは、この人のために生まれてきたんだ……)
◇◆◇
天空の城で、フィオナは暮らし始めた。
島から出ることこそ禁じられていたが、親しい者との手紙のやりとりは許されており、家族の近況は知ることができた。
城に住む竜人は多くはなく、全て貴族かその使用人だった。ヒト族であるフィオナを遠巻きに見る者もいたが、中には興味を持ち関わろうとする者もいた。うちの数人と、フィオナは親しくなった。だからフィオナは孤独ではなかった。
自分は幸せだから、貴方も解放されて欲しいと地上のレオニールへ宛てて手紙を書いたところ、さる令嬢と婚約したため国へと戻ると返事があった。彼も幸せを掴むことができたのだと、フィオナは安堵した。憂いは一つも、ないように思えた。
城の周辺には池や森があり、見たことのない動植物がいた。氷の角を持つ鹿や、魔力を帯び光る蝶、朝晩で色の変化する花――その全てが輝いて見えた。
そんな庭を散歩するのが、フィオナは好きだった。
城の外へ行くときはいつも、白銀と一緒だった。
彼はフィオナの肩を抱き、歩幅を合わせてくれた。フィオナが彼を見上げて微笑むと、いつもキスをしてくれた。そのたびに、フィオナは幸せを感じるのだ。
白銀は美しい竜だった。
通名の由来は、彼の髪の色から来ているのだと教えてくれた。
「通名を許されるのは王族のうち直系だけで、父の他には、弟と妹が名乗っているだけだ。烈火と黒百合というのが、二人の通名で、真名は親と兄弟達しか知らないんだ」
ある日、池の周りを歩きながら、白銀はそう教えてくれた。
「なぜ真名が隠されているのですか?」
「名を知ることは、魂を支配することだと太古の昔は考えられていて、その名残だ。古い風習で、今は王族くらいしか使っていない」
だが彼は、フィオナには真名を教えてくれた。
理由を尋ねると「貴女になら、支配されてもかまわないから」白銀は、そう言って笑った。
知らないことばかりだった。白銀のことなら、なんでも知っておきたかった。
白銀は五百年生きているらしく、そのことを聞いたフィオナは驚いた。
「ヒト族で言うと、見た目はせいぜい二十代ほどに見えます」
「私たち竜人は、若い時代が長いから。父は七百歳だが、私とほとんど変わらない見た目をしているよ」
ヒト族の寿命はせいぜい六十年程度だったため、数百年など果てしなく遠く感じた。だが白銀の番であるフィオナも、悠久とさえ思える長き時を彼と共に歩むことができるという。
「番は魂の片割れだから、私の魂と貴女の魂を一つに合わせて、同じ寿命を分け合うんだ。いずれそうしよう」
それはとても魅力的な提案に思えた。
「他の種族の番様同士も、そのようにしているのですか?」
「いや――竜人だけが……それも王族だけが寿命を分け合う術を持っているから、他の種族はできないだろう」
フィオナの胸は痛んだ。
「では、せっかく番に出会えても、寿命の差で悲しい別れを余儀なくされる方達もいるのですね……」
ふ、と白銀は微笑んだ。
「そうだ。だから番にはある迷信がある。先に逝ってしまった番が、いつか衣を代えて再び番の前に現れる――。つまり魂が生まれ変わり、また巡り会えるという伝承があって、気休めかもしれないが、そう強く信じる者もいる」
「その気持ちは、分かる気がします。だって番様を失うなんて、耐えがたい悲しみだと思いますから」
聞いた白銀はフィオナを強く抱きしめてくれた。
フィオナは、ただ彼が側にいてくれるだけで満たされていた。
暮らしはまるで夢のようだった。――だが夢はいつかは覚めるということを、フィオナはまるで忘れていた。




