帝国からの手紙
竜人の帝国に明確な名は無かったが、皆は敬意と恐れを込めて、聖竜帝国と呼んでいた。
多くの国は帝国と敵対することを避け、一部の過激な反竜を掲げる国を除き、友好関係を築いていた。この大陸における竜族の侵略はまだ日が浅いが、圧倒的な力の差を見せられた者達は、戦う意思さえ削がれていた。
誰も竜族には敵わない。
誰しもがそう考えていた。
故に強大で傲慢なる帝国との関係は良好に保っておきたい。
ライン家に届いたその手紙は、ルカリヨン王国が他国と一線を画す機会となるものであることには間違いなかった。
手紙の届先は兄の家の住所になっており、帝国から二人の使者とともに届けられた。
早朝にもかかわらず、寝ていたフィオナは兄にたたき起こされ、ナイトドレスにガウンを纏った姿のまま、玄関口に連れ出される。
立っていたのは、背後に竜を伴った二人の竜人だった。
彼らはヒト族の姿によく似ていたが、生態はまるで異なる。顔も体も人と竜に自在に変化でき、体を流れる魔力も他の種族を圧倒しており、地上の生物のうち、神に最も近いとされる神聖な者達だった。
竜人を、間近で見るのは初めてのことだった。
彼らは他種族の干渉を嫌い、滅多に姿を現さないからだ。
こんな時間の訪問に、フィオナの顔は引きつった。
心当たりなど何もない。
使者はフィオナと兄に対して、手紙に刻印されていた、帝国の正式な書簡であることを示す紋章を提示した後で、感情を見せずに言った。
「フィオナ・ライン様。
貴女様が白銀様の番として正式に帝国に迎え入れられることとなりました。旅立ちは五日後。ついて、子細は書簡をご確認頂きたく――」
兄が息を呑む音が聞こえる。突然であり、一方的な報せだった。
あまりのことに、フィオナはその場に倒れ込んだ。
白銀、というのは、竜王の直系の竜人の名だった。西大陸の全土を統治している竜王だが、この東大陸の竜族支配地域における王として置いているのは息子の白銀だ。王族の直系の者は真名の他に通名を使う伝統があり、白銀の真名も、誰も知らなかった。
番というものは、この世を創造した女神によって定められた魂の半身だと多くの者は信じていた。
生まれたときから世界のどこかには自分の魂の片割れが存在していて、それに出会うために皆生きているのだと言う者さえいた。
だが、生涯のうちに番が目の前に現れるのは稀なことで、運良く同時代に生まれたとしても、年が離れていたり、地域の隔たりにより、結ばれないことの方が多い。
他種族であれば、出会えたとしても寿命の差の問題もあった。女神が創った生物のうち、最も長寿種は竜人で、八百年ほど生きるとされているが、そんな彼らでさえ番と結ばれるのは少数だった。
その上、番がヒト族であった場合は、その他種族にとっては悲劇だと言われていた。
なぜなら直感に優れた獣人とは異なり、知能や技術を磨くことにより生存してきたヒト族は他の種族よりも直感に劣っており、短い生涯のうちでは、その者が番と認識できないのだ。他種族が番としてヒトを見出しても、強い抵抗を示し、泣いて拒否した挙句、無理やり連れ去られた者の中には嘆くあまり自死してしまった者もいるほどだった。
ライン家次女、フィオナに聖竜帝国より使者が参ったという噂は瞬く間に知れ渡る。
フィオナの生活は一変した。
使者が訪れた即日、身柄は国によって保護され、出発までの間、王城の一室に軟禁されていた。食事や服は不自由なく与えられたものの、常に見張りが付き、捕虜同然の生活だった。友人はおろか、家族にも会うことは叶わなかった。
婚約したばかりのレオニールにも、当然会うことはできない。
彼はフィオナを番から解放するために、方々走り回っているのだと噂好きの侍女が言っていた。それが無駄であるということは、フィオナ自身がよく分かっていた。
番として竜人の元へ行くことは決定事項となっており、そこにフィオナの意思などなかった。
竜人の――それも王族の番が、王国から出た。王国の中枢はこの事実をどう利用するか、限られた時間の中で必死に結論を出そうとしていた。
出発の日、フィオナは朝から薔薇の花びらの入った湯が張られた風呂につからされ、自分の持ち物では当然ない、目が眩むほど純白のドレスに着替えさせられた。ひと月以上かかる旅路のほんの初日にこれほど体を磨く意味が、フィオナには分からなかった。
髪は編み込まれ、小花が形取られた金の髪飾りが付けられた。頭からつま先まで磨き上げられたフィオナを見て、侍女たちが感嘆の息を漏らす。
「なんて美しい方なのでしょうね。まるで生きる世界が違うのだと言われているように思います」
世辞にも、フィオナの心は弾まなかった。
フィオナがレオニールに再会できたのは、ようやくその日になってからだった。
帝国から派遣された迎えの馬車が城の前に着き、いよいよ旅立ちとなった時、部屋に駆け込むようにして彼が入ってきたのだ。
急いできたのだろう、肩で息をしている彼は、しかし飾り立てられたフィオナを見て、言葉が出ないようだった。
「フィオナ……」
彼の目が、見る間に涙に染まっていく。フィオナもそうだ。哀れに瞳を揺らす青年に、なんと言っていいのかも分からない。
「陛下は、フィオナが番に選ばれたことを歓迎するとおっしゃった。ヒト族から番が出るのは初めてのことだ、フィオナじゃなければ、僕だって喜んださ。……僕らの婚約は、当然認められはしない。とても残念だけれど」
レオニールの両手は握りしめられていた。きつく目を閉じ、理不尽に耐えているようにも見えた。
無限に広がっていたはずの幸福が、たった一通の手紙で永遠に、一方的に消え去ったのだ。圧倒的な力の前にして己の無力をレオニールは思い知らされていた。
そうして次に言われた言葉に、フィオナは驚いた。
「僕は、君と添い遂げることはできない。だから代わりに、君を守る騎士になる。共に帝国へ行くよ」
即座にフィオナは首を横に振る。
「だめよ、レオニールお兄様には未来があるわ! わたしの騎士だなんて、人生を棒に振るようなものです……!」
だがレオニールも揺るがなかった。
「君の側にいられるのなら、なんだって構わない」
フィオナの頬には、悲痛の涙が流れていた。
彼は親愛の情を示すように、フィオナの頬にキスをした。
外に出ると、城門の内部にも人だかりができていることに気がついた。王国中枢の貴族達でさえ、フィオナをひと目見ようと外に出ていたのだ。
群衆の中にいる、一人の少年と目が合った。年は三、四歳ほどだろうか。護衛と思われる有鱗族の兵士に伴われ、賢そうな青い目をフィオナに向けていた。
一瞬、少年の瞳が日の光を受けて、鏡の反射のように光ったように思えた。全てを見通そうとするかのようなその視線から、フィオナは耐え切れず目を反らした。
フィオナが馬車に乗り込む寸前、レオニールは言った。
「番様。命に代えても、貴女をお守りいたします」
今やフィオナとレオニールの立場は逆転した。神に近しい種族の番と、一王国の単なる貴族だった。
こうしてフィオナの青春の時代は、あっけなく終わりを迎えた。




