空を飛べない彼女の話
街での出来事から時が経ち距離も離れるにつれ、フィオナは少しずつ元気を取り戻していった。
市民の中には涙を流しながら一行に感謝を伝える人もおり、ルイの言った通り、自分のしたことは間違っていなかったと思うことにした。いかなる理由があれど、無抵抗な人を襲ってはならない。きっと白銀もそう言うだろうと考えた。
フィオナがそう考えるようになったのは、以前よりもルイの隊に馴染んだことにもある。何日も一緒に過ごすうちに、皆のことが段々と分かるようになってきていた。
例えばシルヴィアについてだ。
彼女の種族と年齢が分かったのは、休憩がてら馬を休ませた森の中で偶然泉を見つけた時だった。「お先にどうぞ」と、ルイが言い、「では遠慮無く」とシルヴィアも微笑みを返してから、フィオナのことも誘ってくれた。
薄々と気づいていたが、この旅に体を清める余裕など滅多になく、水だとしても入ることができるのは嬉しいことだった。今まで泥の一つも跳ねないほど大切に育てられてきたのが信じられないくらい、フィオナは汗と泥で汚れていた。
緑が生い茂る森の中に、その泉はあった。地面から湧き出た水がそこに溜まり、再び外に流れ出し、川に繋がっている。澄んだ水の輝きに、フィオナの心は弾んだ。
「こんなに素敵なものが、この世にあったなんて!」
感嘆を込めた言葉に、「大げさですね」とシルヴィアは笑う。
「男性陣が覗きに来ることはないので、安心してください。以前覗いた人を半殺しにして以来、誰も側によりませんから」
驚いて聞き返す。
「どうして男性が覗きに来るのですか?」
物珍しそうに目を細めた後で、シルヴィアは軽快に笑う。
「貴女は本当に、世間というものを知らないのですね」
シルヴィアが服を脱ぎ始めたため、フィオナも同じように脱いだ。そうして先に水に入った彼女の裸を見て目を見張る。
引き締り、均整の取れた美しい彼女の体には、顔と同じように大小様々な傷が無数に付いていたからだ。
「驚かせてしまいましたか? 醜いでしょう」
視線に気付いたシルヴィアは困ったように笑いかけた。
(こういう時に、気の利いたことを言えたら良いのに)
フィオナは上手く言葉が出ない。ルミナシウスも宙を漂いながら、同じようにじっと彼女を見ているような気がした。
醜いとは思わなかったが、痛々しさに悲しくなる。
――もう、痛くないのかしら。
フィオナの思考を読み取ったかのように彼女は微笑む。
「古い傷ですから、痛くありませんよ」
「戦場で付いたものなのですか?」
不躾な質問だったかも、と尋ねた後で思った。だがシルヴィアに気にした様子はなく、すぐに返答がある。
「多くは兵士になる前のものです。さあ、そんな顔をしないで。もう昔のことですから、私は平気ですよ」
言いながら彼女はフィオナの手を引いた。促されるまま泉に入りながらも、フィオナの心は傷ついたままだった。
(わたしって自分勝手だわ。シルヴィアさんが受け入れた過去の傷を、今さらわたしが悲しむのは失礼なことかもしれないのに)
だが顔には出さないように努めながらも考えてしまう。
シルヴィアさんはとても綺麗な人よ。傷に悲しんだこともあったはずなのに、どうして今は平気でいられるのかしら? もしわたしの体に傷が付いたら、きっとひどく落ち込んでしまう。シルヴィアさんは強い。
「冷たいですけど、気持ちがいいですね?」
明るい声に、フィオナは思考から引き戻された。暗い顔をしていたかもしれないと思い、話題を変えようと、疑問に思っていたことを口に出した。
「あの、聞きたかったんですけど、シルヴィアさんはヒト族ではないのでしょう? どの種族の方なのですか?」
ふふ、と彼女は笑う。
「飛翼族ですよ。――ほら」
「わっ」
シルヴィアは背中から白い翼を出現させた。風が巻き起こりフィオナの顔に吹く。
広げた両手よりもわずかに大きな翼で、広げた衝撃で羽の数本が抜け、泉の上に浮かび波紋に水が揺れている。綺麗な翼だとフィオナは思う。
前世でも飛翼族の知り合いはいたが、その誰よりも彼女の翼は純白で美しい。
「飛べるのですか?」
シルヴィアは首を横に振る。
「いいえ、私のは飾りです。傷があって、もう飛べませんから。
……兵士としては飛べた方が有利ですけどね。代わりに魔術と剣術を磨き、この隊に志願しました」
「ルイ様の隊にわざわざ志願を? どうしてですか?」
「どうしても叶えたい夢があったからです。彼の隊に入るのは狭き門で、とても名誉なことなんですよ」
誇らしげにシルヴィアは言う。
フィオナは知らなかった。白銀様の家来にルイがいたことも、そうしてそれほど憧れを抱かれる存在であったということも、今まで少しも知らずに生きてきた。
「夢って?」
「秘密ですよ」
うふふと笑いながらそう答えた後、今度は彼女の方から話題を変えてきた。
「ルイ・ベルトールを今も好きですか?」
「へあ!? え! えっと、その……」
動揺でフィオナの声は裏返る。
(これじゃあ肯定しているみたいじゃないの)
シルヴィアはまだ笑っている。
「感情を仮面で覆い尽くしているので、本心は分かりにくい人ですが、とても強くて優しい人ですよ。初めて会った時、彼は言ってくれたんです。私の傷を治してやることはできないが、その傷を付けた者達を、皆殺してやるって。……暗いと思われるかもしれませんが、私にとってその言葉は生きる希望になりました。命の恩人なんです。それもあって彼の部下になりました」
ルイの話をしながら、シルヴィアの目は輝いていく。
彼女だけではない。この隊にいる者は皆、ルイを見て時折こんな目をする。
(いつまでも色褪せない美しい光がそこにあるかのような、そんな目をしてあの人のことを見つめているんだわ)
もしかしたら自分もそんな目をしているのかもしれない。そういう不思議な魅力が、ルイにはあるような気がしていた。
それが彼が持つ固い意思によるものだと、薄々とフィオナは気づき始めていた。だがそれがいかなる意思かはまだ分からなかった。
そんなことを考えながら、あることに思い至り、フィオナはシルヴィアに尋ねる。
「もしかして、シルヴィアさんもルイ様に恋をしているのですか?」
聞いた彼女は眉を顰めてきっぱりと言い切る。
「いいえ全く。私は年上の男性が好きですし、彼は二十三歳なので、異性としては赤ん坊に思えますよ」
「あ、赤ん坊? シルヴィアさんはおいくつなのですか……?」
驚いてフィオナが尋ねると、なんでもないことのように回答があった。
「私は百歳を超えています」
「ひゃ、ひゃく!?」
思わず声が裏返る。
百歳以上――!
ヒト族だとしたら、彼女は二十代前半くらいの見た目だ。竜族と同じく、飛翼族も若い時代が長いため、外見だけだと年齢は推し量れない。
頓狂な声を上げるフィオナを、シルヴィアは愉快そうに見つめている。
そこでようやくフィオナは失言に気がついた。「シルヴィアさんも」だなんて、まるで自分がルイに恋をしているみたいだ。
(……そうなのかも……しれないけれど……)
だが誰かに気づかれてはいけないはずだった。
シルヴィアは失言に気づいていないのか、それとも百年以上生きる彼女にはとうにお見通しの上での黙認なのか、フィオナにとってはありがたいことに、そのことに触れはしなかった。
シルヴィアは隊における唯一の女性だったため、何かとフィオナを気にかけていて、話す機会も多かった。朗らかで明るくよく話し、時折達観したような言葉を言う彼女のことが、フィオナはとても好きだった。




