裏切り
「――……フィオナ」
フィオナは自分の名を呼ぶルイの声を、彼の腕の中から聞いていた。
彼の吐息が髪を揺らす。なぜ抱きしめられているのか少しも分からないまま、彼の匂いを感じて、フィオナは心臓が口から飛び出てしまいそうだった。
見上げると睫毛の本数さえ分かりそうなほど近くに彼がいて、衝動的に泣きたくなった。塔の中ではなく、こここそが自分の本当の居場所だったのではないかと思った。
それは心からの渇望だった。
もっと近くに彼を感じたい。あと少し、あと少しだけ――。
だがそれもわずかな間だけで、ルイはフィオナを抱えて立ち上がらせると、すぐに体を離した。そうして先ほど感じた熱は嘘であったかのように、平素の冷静な彼に戻っていった。
剣を持ち直し、素っ気なく彼は言う。
「怪我がなく良かったです」
フィオナは何か、彼に声をかけたかった。
たった今、二人の間に生じかけていた何かが勘違いではないと、彼に確かめたかった。
(だけど、確かめてどうするの? 確かめることこそ番様に対する裏切りで、その先には、なにもないのに……)
何もできずに立ち尽くしていると、いつの間にかギルバートが側に来ていて、居心地が悪そうに舌打ちをする。
「……今見たものは忘れてやる。それより団長、竜人に位置がバレたぞ」
彼がそう言った途端、周囲が暗くなり空から竜人が降ってきた。
竜人の質量は重く、着地の衝撃で石畳がめくれ上がり、側の建物を破壊する。
フィオナが状況を飲み込む前には既に、ルイは竜人の前に飛び出していった。
事態は一瞬のうちに過ぎていった。竜人が火を吐き、炎が彼を包み込み、瞬く間に姿が見えなくなる。
ギルバートが防御の魔法陣を繰り出しているが、意味があるのかはフィオナには分からない。
「あの炎じゃ無理だ! あいつは死ぬ!」
ノットがそう叫ぶ声が聞こえる。
フィオナの体は震えていたが、恐怖ではなく混乱のためだった。
轟々と燃えさかる炎が見える。街中を竜人が襲い、そこかしこで悲鳴が上がっているのが聞こえる。
竜族は他の種族を守っているのだと白銀は言っていた。帝国として他国を保護することで、諍いを防ぎ平和を保っているのだと。前世でも今世でも、フィオナはそれを信じていた。
(なのに今、虐殺行為をしているのは、竜人の方だわ)
何が正しいことなの? この争乱が平和のためだとでも言うの?
フィオナにしても、違和感を抱かなかったわけではなかった。
ルイが、フィオナを連れ出したことに。
隊の面々に常に纏わり付く、後ろ暗い気配に。
彼等がどこから来て、何を目的としているのか、考えなかったわけではなかった。
だがその違和感を突き詰めたくなかった。考えてしまったら、自分の中で、なにかが永遠に変わってしまう。
今もまだ、その先は考えない。
今、確かなことはルイが死にそうだということだ。
フィオナは両手を、燃え盛る炎に向けて翳した。
「番様……? なにをして――」
戸惑うノットの声が聞こえた。
竜族にとって、同胞殺しは重罪だ。
東大陸を統べる竜の王である白銀の番であるフィオナにとっても、同じく重罪だ。
そうは知っていながらも、フィオナは魔術を放った。
魔術――。フィオナは魔術が使える。
前世でフィオナ・ラインだった時、フィオナには魔術は使えなかった。だが今世では使える。フィオナは今世の両親の顔を知らないが、もしかしたらどちらかが使えたのかもしれない。
白銀はフィオナが魔術を使うのを良しとしてくれなかった。
だから白銀の前では絶対に使わないようにしており、ルイ達と会っても使わなかったし、使うつもりもなかった。なのに。
(だって、無理よ。ルイ様が死んでしまうなんて、絶対にだめ)
魔術を誰かに習ったわけでもなく、研鑽を積んだわけでもない。
フィオナの両手から放たれた魔術はでたらめな質量を伴って、周囲の建物に当たり破壊しながらもルイを包む炎に向かって飛んでいった。
ギルバートが、息を呑む気配を感じた。
初めに、ルイを包んでいた炎がかき消えた。
次に見えたのは、竜人の体の上に立ち、その頭に剣を突き刺している彼の姿。
――なんだ、とフィオナは思った。
(わたしが助けなくても、ルイ様は竜人を倒せたんだわ。よかった)
だが事態はまだ収束しない。
命令主を失った竜が数頭、暴れながら襲いかかってきた。ルイもギルバートも、すぐに攻撃に入る。
フィオナにしてもまだ冷静ではなかった。
怒っていた。とても怒っていた。街を襲って、罪のない人を殺す竜の姿に。
(だって竜は気高く美しい生き物のはずだもの)
だからフィオナは叫んでいた。
「何をしているの! 襲うのは、わたし達ではないでしょう!」
次に、こう口走っていた。
「竜達よ、罪無き人を虐殺する、竜人達こそ殺しなさい!」
そう命じることに、一切の迷いはなかった。
ただの人間の言うことを竜が聞くはずなどないと普通に考えれば分かるはずだが、フィオナの本能はこれこそ正しいことだと言っていた。
不思議なことが起こったのはその後だ。
なんと竜は従った。――従ってしまった。恐ろしい命令に。
街中で人を襲っていた竜は、今度は竜人達を襲い始めた。形勢は一気に逆転し、竜人達が血しぶきを上げて倒れていく。
「どういうことだ?」
ルイは呆然と呟くが、フィオナにも何が起きたのかなど少しも分からなかった。
だが次の瞬間、フィオナは己に戦慄した。
(わたし、よかったって、思ったの? ルイ様が竜人を殺してよかったって――)
白銀様と同種族の方の死を願ったんだ――。
王族の番としては、許されざることだった。
「わたし、とんでもないことをしてしまったわ……! こんなことが、許されていいはずがないのに! どうしよう、どうしよう……」
街から一行に与えられたのは、小さな教会の一室だった。狭い室内で、フィオナは延々とぐすぐす泣き続けた。慰めるように人工精霊のルミナシウスがフィオナの頭に止まっている。
街を襲っていた竜人は、フィオナの命令を聞いて翻った竜により殺された。生き残った竜人達は困惑し、街から逃げ去っていった。
今日だけで数多の命が死んだ。
その内のいくつかは確実にフィオナのせいだった。どういうわけか使役竜たちは、彼女の言葉に従った。
フィオナが白銀の番だからではないかと、皆は言った。
この大陸の竜達にとって絶対的な権力者である白銀の命令に、知能が高くない使役竜はほとんど本能で従う。故にその番であるフィオナの言葉にも、本能で従ったのではないかと結論づけた。
フィオナの命令を聞いた竜達は今はもう街から去り、東方の空へと飛んで行ったらしい。追っていた者は途中で姿を見失ってしまったようだ。
(わたしは、名前も顔も知らない人を殺させたんだわ)
竜に命じた時の熱は過ぎ去り、襲い来るのは激しい後悔だった。自分のしたことが恐ろしかった。
扉の側に立っていたギルバートが皮肉のように言う。
「こんな能力を隠し持っていたとは、フィオナ嬢には今後ともぜひ味方でいてもらいたいものだ」
シルヴィアもそっと言う。
「補給どころではなくなってしまいましたね。皆に命があるのが奇跡のようです」
ノットは再び拘束されており、口に轡こそ付けられていなかったものの、物思いに耽るように神妙な面持ちで沈黙していた。
なぜこの街が襲われていたのか、誰も理由を知らなかった。
ルイはジャグを伴い、この街の責任者に会いに行った。なぜ竜人が街を襲っていたのか、それを確認するとのことだった。
異性と同じ屋根の下で寝泊まりするなんてはしたないことかもしれなかったが、そんなことを考える余裕もないくらい、フィオナは疲れ切っていた。にも関わらず考え続けて眠れなかった。
ルイが戻ったのは深夜になってからだった。眠っていた兵士達も目を覚まし、彼の側に集まる。
「本来であれは留まり、救助と復興に当たるべきだが、先を我々は急がなくてはならない。先ほど市長と話し、私が本件の使者として公国へ支援を求めることとした」
ルイの説明にヘンリーが眉を顰める。
「この街は親竜派の国の領地でしょう。それなのに、なぜ襲われていたんです?」
ルイは淡々と答える。
「どうやら反竜派の国へ攻め入る拠点にしようとしたのを断ったのが発端らしい。親竜派に属する街といえど、近隣国に正面切って敵意を示すわけにもいかないから。だがそれが竜人の怒りに触れ、街を占拠されかけたと市長は言っていた」
口調は柔らかいものの、話す内容は物騒だ。会話を聞きながらフィオナは考えた。
(反竜派の国は、当然、大陸の平和を乱す国だから白銀様の敵になるわ。その国を併合するためにこの街を占拠したかったのだとしたら、ルイ様達のしたことは、白銀様の思想に反してしまうんじゃないの? だとしたら、わたし達のしたことは、間違っていたんじゃないの――?)
悶々と考えても結論は出ない。
「フィオナ」
名前を呼ばれ、はっとして顔を上げた。
「番の同族を殺したことに罪悪感を覚える必要はない。我々は罪のない人々を救った、それだけだ」
彼は鋭い。フィオナはひどい顔をしていた。
先程まで泣いていた目は赤く、整える気力もなかった髪の毛は乱れたままで、服もあちこち破れてボロボロで、心までみすぼらしくなった気分だった。そんな心を見抜いたのだろう。彼はこうも言った。
「命を奪おうと相対するとき、必ずどちらかが死ぬ。私達が生きているのは貴女のおかげです。ありがとう、貴女の判断は正しいものでした」
ルイの断言はフィオナにとっては恐ろしいほどで、顔を見続けられずに下を向いた。
(わたしは半端な覚悟で竜に命じた。結果がどうなるかなんて考えもせずに、白銀様を裏切ってしまったんだもの――)




