フィオナ・ラインの記憶
フィオナ・ラインというのが、その少女の名前だった。
ルカリヨン王国の地方に住む伯爵家の次女として生まれた、母親譲りのローズピンクの髪がお気に入りだった、ごく普通の少女だった。
子供たちが幼いうちは領地で穏やかに過ごさせたいという父と母の意向で、他の貴族の子女がするような王都での暮らしや異国への留学はせずに、忙しない世間とは離れた地方で育った。
読書と刺繍がとりわけ好きで、年相応の子供らしく秘密の友達も持っていたし、フィオナにしか行けない隠れ家もあった。穏やかな土地で優しい両親と仲の良い兄と姉がいればそれだけで世界は完璧で、一つの憂いも持ち得なかった。
彼女に出会いがあったのはある夏の日のことだ。
両親の友人だという貴族の夫妻が屋敷を訪ねて来たのだ。
こんな田舎に人が訪ねてくるなんて滅多になかったことで、フィオナは大層喜んだ。だが現れた彼らを見て思わず柱の陰に身を隠してしまう。
訪れたのは、ひと組の夫婦だった。
派手な身なりではなかったが、滑らかな生地は上等な衣服であることが一目で分かる。
姓はローズデール。王族の親族であり、身分は公爵だという。国を旅行中で、近くに来たため屋敷に立ち寄ったとのことで、数日は滞在するそうだ。
彼らの佇まいを見て、フィオナは思わず気後れした。
都会的で洗練された空気を感じる彼らの前に今日も花を摘んで遊んできた自分の姿を曝すことは相応しくないように思えたのだ。これから洗うところだった手はまだ草の汁で汚れていたし、動きやすいように薄手のワンピースを一枚着ていただけ――それも姉のお下がりで、動きやすくて気に入っていたものの、相応に痛んでいたため、恥ずかしかった。
だが普段より礼儀を重んじる父は、当然そんなフィオナの態度を許しはしなかった。
「フィオナ、隠れていないでご挨拶しなさい」
しぶしぶ、フィオナは陰から出ていく。
「はじめまして、こんにちは。フィオナ・ラインと申します」
スカートの端を持ち上げて一礼し、精一杯の礼儀で必死に挨拶をすると、大変可愛らしいお嬢さんで、伯爵もさぞご自慢でしょう――そんな大人達の会話が聞こえてきた。
よかった。あいさつは成功したみたいだと、ほっと安堵の息をついて頭を上げると、天使のように綺麗な顔が目に入る。
その時初めて、もう一人の人物がいることに気がついた。公爵夫妻の背後に、頭一つ低い少年が立っていた。
「フィオナさん、これは息子のレオニールですよ」
公爵に似て栗色の髪の毛を持っていて、妻に似た優しげな目元をしている少年だった。
年の近い男の子と面と向かうなど、兄を除けば初めてのことだ。レオニールと紹介を受けたその人は、柔らかな笑顔で片手を差し出した。
「こんにちは、レオニール・ローズデールです。フィオナさん、僕と友人になってくれますか?」
まるでお日様みたいな人だとフィオナは思った。
この時、フィオナは九歳で、彼は十四歳だった。東大陸歴は、九八九年のことだった。
数日もせずに、彼のことが好きになった。兄のように気さくに接してくれる彼にたちまち心を許し、実の兄に呼びかけるように、「レオニールお兄様」と呼ぶようになっていた。
部屋に飾る野の花を一緒に選び、お気に入りの草原も彼に紹介した。もう一人の兄のように、彼を慕っていた。
友人同士であった二人の関係が大きく変わったのは、数年後、フィオナが十五歳になった年のことだ。
その頃、フィオナは社会勉強のためだという父の勧めで、王都で暮らす兄の元に身を寄せて、招待される催しに度々出かけていた。
一年前に社交界デビューを終えたフィオナは、たちまちあらゆる社交場に呼ばれるようになっていた。
ヒト族だけではなく、獣人や翼を持つ飛翼族、トカゲのような鱗を持つ有鱗族に属する者など、領地にはまずいない種族の者たちとも親しくなった。
ヒト族以外の種族の者の中には、寿命が短く、病気がちで丈夫でないヒト族を蔑み見下す者もいるが、ヒト族が築いた王国の中では、あからさまな侮蔑を示す者もいなかった。
将来の結婚相手を社交の場で見つけられたら良いという父と母の思惑などつゆ知らず、フィオナは新しい出会いや友人に、無邪気に心を弾ませていた。
十五歳にもなれば恋愛に色めき立つ者もいたが、フィオナに限っては、まるで無頓着だったのだ。
そんなフィオナの前に彼が現れたのは、さる貴族が開いたパーティ会場でのことだった。
いつものように兄の同伴で出かけ、一曲踊り、曲が終わった時のことだ。
「お嬢様、僕と踊ってくださいませんか?」
背後からそう声をかけられ振り返ると、目の前に、背の高い精悍な顔立ちの青年が立っていた。
見知らぬ人だ。だが優しそうな人だとフィオナは感じた。
頷き、彼の手を取ると、周囲の目線が嫉妬に変わるのを流石のフィオナも肌で感じた。それほどまでに目の前の青年は立派な身なりをしていた。
栗色の髪は小綺麗に整えられ、瞳の奥は穏やかだ。フィオナの手を握る色白の手は男性らしく筋張っていて、着ている服にしても、体に沿って特注された絹地であり、派手ではないが上等な物だとすぐに分かる。
じっと見つめる瞳から思わず顔を逸らし、それでも礼儀を忘れないうちにフィオナは言った。
「お誘いいただき、ありがとうございます。あの、はじめまして、ですよね?」
青年はくすりと笑い、答えた。
「お会いしたことがあると思いますよ。貴女の文通の相手ですから」
その目の奥の優しさと、声色の心地よさにふと懐かしさを覚え、次にようやく彼が誰であるかを悟り、社交の場の人の目など瞬間忘れ、喜びに顔を輝かせる。
「まあ! レオニールお兄様なの? わたしったら、少しも気がつかずに、ごめんなさい。異国の学校へ行っているものだと思っていました。すっかり素敵になられましたね」
記憶の中でも彼は大人びていたが、今、目の前にいる貴公子は、それより遙かに美しかった。
レオニールはますます破顔した。
「行っていたんだけど、戻ってきたんだ。社交界に新しく入ったと噂の麗しの令嬢をこの目で見るためにさ」
「そんな方がいらっしゃるの? わたしも会ってみたいわ!」
純粋なフィオナの言葉に、レオニールは吹き出した。
「君のことだよ」
フィオナは目を白黒させた後、言葉の意味に気がついて、いつかのように赤面する。そんなフィオナを、レオニールは目を細めて見つめていた。
再会以降、レオニールは度々フィオナを外に誘うようになっていた。九歳の時以来の友情が、再びフィオナの胸を暖めた。
誘われるままに、彼に付いていった。フィオナにとってレオニールは、自分よりも世間を知る頼れる年長者であり、信頼できる友人だった。
逢瀬を重ねる二人は、他人の目には親密な恋人に映ったかもしれない。だがレオニールは手順を踏むことを忘れてはいなかった。
ある日、兄が朝食の席でフィオナにこっそりと教えてくれた。
「父上から密かに聞いたが、さる次期公爵閣下が、お前と婚約を結びたいんだそうだ。まだ言うなと言われていたが、知っておいたっていいだろう」
困惑は顔に出ていたらしく、兄は静かに笑って言った。
「誰だか分からないのか? レオニール・ローズデールさ。もう少しで彼は学業を修めるから、そうしたら結婚式だ。一応、お前が返事を考える時間をくれるそうだよ。近々、父上から正式に話が来るだろう。といっても、お前の答えは決まっていると思うが」
衝撃はあったが、疑問はなかった。
いつの頃からか、気がついていたように思う。
レオニールがフィオナを見つめる眼差しに、友情以上のものが混じっているということに。気付いていながらも、居心地の良い関係を崩したくなくて、卑怯にも気付かないふりをしていた。
だがそれももう限界が来たようだ。答えを出さなくてはならない。
(――レオニールお兄様はわたしのことが好き……なんだわ。じゃあ、わたしは? わたしは彼が好きかしら……)
即座に答えは出なかったが、少なくとも、嫌いではないと思った。
レオニールは優しくて、明るくて、太陽のような人だ。幼い頃からよく知る友人で、一緒にいると自然と笑顔になる、そんな人だった。おまけに次期公爵だ。引く手数多の彼が、わざわざフィオナを選んでくれた。
(きっとどんな女性だって、彼に憧れるはずだわ。……わたしには、もったいない人)
けれどそれが恋なのか、フィオナには分からなかった。
それでもよく知らない男性に嫁ぐくらいなら、よく知る彼と一緒になる方が、遙かに幸せになれるし、公爵家である彼と結婚したら両親も喜ぶだろう。
真心のある人だ。真心を持って返してあげたい。
だから正式に婚約が申し込まれたら、受けようと思った。
数日のうちに、話は進んだ。
兄の言ったとおり、父から同じ話がされた。フィオナの答えが出るまで待つという言葉も、同じように添えられていた。
レオニールに観劇に誘われたのは、そのような折りのことだった。
馬車の中で隣り合い、いつになく物静かなレオニールだったが、フィオナも緊張でそれどころではなかった。彼の息づかいを感じるだけで顔が赤くなってしまうし、言葉もどもって上手く話せない。
レオニールがフィオナに対して口を開いたのは、馬車が劇場に付いた時だった。
「フィオナ、もう話は聞いていると思うが、改めて僕の口からきちんと言いたいんだ」
次に何を言われるか、フィオナは分かる気がしていた。心臓がどうにかなりそうなほどに鼓動している。
「君を愛している。政略的な結婚ではなくて、僕の本心から真に愛を持って君と一緒になりたいんだ。命に代えても、君を必ず守り通すから。だから僕と結婚して欲しい」
真剣なレオニールの眼差しに向けて、フィオナもまっすぐに頷き返した。
「……はい。結婚、お受け致します」
「本当に!?」
レオニールは勢いよくフィオナを抱きしめたものだから、思わずおかしな声が出る。
「もしかしたら、振られるかもしれないなんて思ってたんだ。君は恋に消極的なように感じていたから!」
子供のようにはしゃぎ喜ぶレオニールの姿に、フィオナもまた嬉しくなった。何の取り柄もないこんな自分でも、誰かを喜ばせることができるんだと思えた。
「幸せな家族になろう」
彼が本心から言ってくれていることは分かっていたし、フィオナも素直に頷いた。
(レオニールお兄様となら、愛のある家庭を築けるに決まっている)
そうやって自分を納得させていた。巷で流行る恋愛小説では、運命の人に出会った瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けると書いてあるのを読んだが、事実は小説とは違うらしい。きっと現実の恋愛は、こういう穏やかな優しさの中にあるものなのだろう。
竜人の統べる帝国から、フィオナ・ライン宛てに手紙が届いたのは、二人の婚約から間もなくのことだった。
お読みいただきありがとうございます!
軌道に乗るまで散々だったのですが、なんとか10万字ほど書けたので投稿開始しました。
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