人でなしの夢 上
「……よおっし!」
たった一年前のこと。
徳田蓮は、気合いを入れて花屋から出てきた。今日は遂にやってきた、雲母坂夢逢との対面の日だ。
一つ目の仕事を辞めて、編集の仕事に就き。見事、憧れの小説家の担当になれたのは奇跡のような物語だ。蓮は名も知らぬ空の神々に感謝をしながら、春の陽気の中を大股に歩いていく。真新しいスーツ、少し背伸びして買った革靴、時計。とはいえ荷物の持ち運びには便利なリュックサック。そして手には、赤い薔薇の花束。
蓮は雲母坂夢逢の大ファンだ。初めて読んだその時から、独特の世界観に飲み込まれて、もうそれから離れられなくなった。決して明るいばかりの話ではない。けれど、悲しみも苦しみも全て受け入れて、ここに生きていていいのだと優しく囁いてくれる、とてつもなく大きな何かに抱擁されているような心地になる。題材は突飛なものではなく、世の中にありふれた悲しみを扱っているのに、何故だか狂おしいほどの優しさに包まれて、涙せずにはいられないのだ。
そんな作品を手掛ける作家に会いに行くのだから、蓮は緊張をしていた。
きっと若い女性だろう。文体の美しさと簡便さ、世界観からそう感じる。それにきっと魔法使いの家のような、メルヘンな部屋に住んでいるに違いない。古の文豪のように、原稿用紙にペンで書いていて……いや、雰囲気的には、万年筆、ガラスペン、ううん、極端な話、羽根ペンかも……。
蓮は妄想を膨らませながら、足取りも軽く街を歩いて、夢逢の住む家へと向かった。
「へ」
スマホの画面を見て、蓮はもう一度顔を上げ、そのアパートを見た。築50年は超えていそうな、オンボロアパートだ。2階建て、錆だらけの階段、人が住んでいるかも怪しい佇まいは、一部の廃墟フェチに愛されそうな趣がある。蓮はスマホを見た。指定された住所は確かにここだ。204号室と書いてある。蓮はもう一度アパートを見上げてから、勇気を出して錆だらけの階段を登った。
204と書かれただけの部屋に辿り着くと、一度深呼吸をする。それから身なりを整えて、おもむろにチャイムを鳴らした。ピンポーン、という音が扉の向こうから聞こえてくる。壊れてなかった、よかった。そう思ったものの、なかなか反応も無いし、扉も開かない。首を傾げて、もう一度鳴らす。編集長から、今日訪問する旨は伝わっているはずなのだが。
3回目のチャイムを鳴らした時、ガチャリと音がした。玄関の鍵が開いた音だ。しかし扉は、ほんの10センチしか開かなかったし、その隙間から顔さえ出しては来なかった。
「……どちらさん……?」
中から聞こえたのは、意外にも男性の声だった。一緒に住んでる人がいるのか、と蓮は一瞬残念な気持ちになったが、すぐに気を取り直す。相手がどんな人だろうと関係無い。自分は夢逢のファンであり、担当であるのだから。
「おはようございます。新しく雲母坂夢逢先生の担当になった、徳田蓮と申します。先生は御在宅でしょうか?」
ご挨拶に参りました、と重ねて言う間に扉が閉められて、笑顔を張り付けたまま蓮は固まってしまった。拒否された……? 不安に思っていると、ややして扉が大きく開いた。
そこに立っていたのは、痩せた青年だった。しかし、どこから説明していいやら。亜麻色の髪はボサボサに伸びているし、整っているのに気怠げな顔は今起きましたといった表情だ。何日着ているのかもわからない、古びたパジャマを着ていたし、裸足だ。
そう、裸足。裸足なのが気になったのは、他にも理由が有る。というのも、その部屋の床にはあらゆる場所に何かが転がっていたのだ。例えば脱ぎ散らかしたと思われる服、靴下、食べ終わったごみを包んだビニール袋が、1、2、3……。数えるだけで眩暈がしそうだ。こ、この汚部屋に夢逢先生が……? 蓮は何故だか汗が噴き出すのを感じた。
「初めまして、徳田君……」
男は軽く欠伸をしながら言った。
「僕が雲母坂夢逢だよ、これからよろしく」
「え」
「あがりなよ。……あ、その花束、なんだい?」
「あ、こ、これは」
答えようとする間に、夢逢と名乗った男がずいとそばに来る。ひ、と一瞬逃げ腰になりそうなのを必死で堪えた。夢逢は蓮が何か答える前に、花束をかすめ取ってしまった。
「あ、あの」
「ふむ、赤い薔薇が、1、2、3……なるほど11本。なるほど、なるほど」
「あ、あの……せ、先生……」
夢逢は花束を持って汚部屋の奥へと行ってしまった。蓮はたくさんのショックでグルグルする頭を一度大きく振り、そして思考を切り替えた。俺は、夢逢先生のところに仕事に来たんだ。打ち砕かれた幻想を嘆くのは、家に帰ってからにしよう。蓮は「失礼します!」と言って、夢逢の世界へと足を踏み入れた。
蓮はその部屋でこれ以上ないほど小さくなって正座していた。
奥に入ればますます惨状が広がっていたし、「ここにでも座るといいよ」と落ちているものを押しのけて作ったスペースが、蓮の座る場所になった。部屋の中央には敷布団が敷かれていて、その傍に小さなテーブルと、ノートパソコンがある、それだけの部屋だ。厳密にいえばそれだけでは全くないけれど、蓮は敢えてあらゆるものを見なかったことにした。
「あの」
動揺する心を落ち着かせるためにも、蓮は何か言わなければならないと思った。
「先生、お会いできて光栄です」
「そうかい? 僕も嬉しいよ」
少しも嬉しくなさそうに夢逢は呟いて、布団の上に座る。体育座りをして、バラの花束を眺めていたから、ますます気まずい。自分なりに、夢逢の作品への感謝の気持ちを伝えたくて用意したものだが、彼がそれを気にいってくれたのかもわからなかった。
「幻滅した?」
「は、え、あ、いえ……」
突然率直に尋ねられて、蓮は言葉を濁してしまった。幻滅した、とまでは言わないが、なかなかショッキングなことが起こったとは思う。
「僕の担当はねえ、皆僕のファンだったって言うんだよ。過去形」
はぁ、とため息を吐いて、夢逢が花束を床にそっと置いた。彼は蓮と目を合わせてはくれなかった。
「イメージと違ったとか、こんなはずじゃなかったとか。僕は君達の幻想の為に存在してるわけではないんだけど……まあ、作者像も含めて僕の作品だとしたら、こんな現実、嫌なのはわかるけどね。僕も嫌だし……」
「ええと……」
「はー、ほんと僕って……どーしようもないくずだよねえ、部屋も片付けられない、小説もろくに書けない、ああ、もう、ああ、死にたい……」
夢逢はそう言って顔を覆うと、そのまま布団に転がってしまった。泣くのかと思いきや、すう、と安らかな呼吸をし始めたので、ただ二度寝に入る構えのようだ。それは困る。蓮は慌てて夢逢のそばに寄った。
「先生、先生、寝ないでください! 今日来たのは他でもない、明日締め切りの原稿を受け取りに来たんです」
「そんなもの、無いよ……」
「ええっ? まさか、書けてないんですか?」
「そう、そうだとも! 書けてない! 一文字だって書けてないよ、ああ、本当に、君にも迷惑をかけて、本当に僕は死んだほうがいいんだ……」
ううー、と夢逢が布団の中で呻いている。蓮は途方に暮れて天井を見上げた。彼の「死にたい」は「はーしんど」ぐらいの言葉だと思ったほうがいい、と編集長に言われているから、真には受けなかったけれど。それでも、ファンである蓮にとってこの状況はなんとも複雑な心境になる。
「あの、本当に一文字も?」
「本当だよ、こんなことで嘘をつくほど落ちぶれてない」
「誇らしげに言わないでくださいよ。先生困ります、編集長になんて言えばいいか……」
「そのまんま伝えたらいいよ……夢逢はのろまなくずで仕事もできないごみだって」
そんなこと言いませんよ。とにかく、蓮は唸っている夢逢のそばで電話をかけた。編集長の返事はただ一言。必ず明日原稿を持って来い、だ。そんな無茶な、と言っても、泊まり込んででも貰ってこい、と言う。
こんな部屋に泊まり込むだなんて無理だ。蓮は思った。しかしこの作家を放って帰るわけにもいかない。どうにかして、気力を取り戻してもらわないと。
「先生、先生、俺に何かできることが有ったらしますから、なんとか書けませんか」
「それじゃあスーパーで寿司を買ってきてくれたまえよ、それから掃除洗濯、食器も片付けてゴミを出してくれると助かるなあ」
言われるのを待っていたかのように夢逢が言ったものだから、蓮は流石に面食らった。夢逢は「冗談だよ」と本当かどうか怪しいことを呟いて、溜息を零す。
「まあなんだね、小説なんて、人でなしじゃないと書けないんだよ。ああ、厳密にいえば人のことがわかる人でなしだ。人じゃなかったら、共感されるような作品は作れないからね。まあ稀に狂人の世界を覗きたがる奇特な人もいるみたいだけど……。とはいえ、人でなしでかつ小説が書けないようではもう終わりだ、僕はただのゴミ。はあ、死んだほうが世の中の為なんだよ……」
ああー、僕なんて……。夢逢がまた嘆き始めてしまった。それを聞いて蓮は、胸が苦しくなる。
そんなことは、ない。先生が死んだほうが世の中の為なんて、そんなことは、絶対に。
「……先生」
蓮は静かに口を開いた。
「先生の作品に『人でなしの夢』がありますよね。人でなしの悪党が、それでも自分の人生に疑問を持って、夢の中できれいな蝶になって人を愛するのが、本当に美しくて……、現実とのギャップに苦しむ悪党が、次第に優しさを取り戻していく、世の中に必要とされる人になろうともがいていく、悲しくて、でもどうしようもなく優しいお話で、俺は大好きです。何度も読みましたし、何度読んでも泣いてしまいます」
夢逢は何も言わずに、蓮の言葉を聞いているようだった。蓮は小説のシーンを思い出しながら、また涙ぐんでくるのを感じる。蓮は、夢逢の作品があったからこそ、立ち直ってここに生きているのだ。
「だから……だから俺は、夢逢先生には生きていてほしいし……夢逢先生とお会いしたのは今日が初めてですけど、……ずっと生きていてほしいです、できれば、幸せに。だから、……ああ、俺、上手く言えないんですけど……」
蓮は言葉に詰まってしまった。小説家相手に言葉で何かを伝えるのは、なんともハードルが高い。何を言うべきか考えていると、夢逢がむくりと起き上がって、蓮を見た。
亜麻色の髪と同じ色をした瞳は、何故だか澄んで美しく見えた。長い睫が瞬き、僅かに微笑みを浮かべる。
「……この惨状を見てから、僕にそういうことを言ってくれたのは、君だけだよ」
君、なんていう名前だった?
髪を整えようと撫でつける仕草が、何故か色っぽく感じた。ドキリとしたのは、きっとこの異常な状況のせいだ。そう考えながら、蓮は二度目の自己紹介をした。
「徳田蓮です」
「そうかい。よろしく、徳田君」
夢逢は一つ頷いて。
「さっき頼んだこと、お願いするよ。僕は君のおかげで着想を得たから、これからなんとか間に合わせる」
「ほ、本当ですか!」
「君と君の薔薇のおかげさ、何しろ赤を11本ときたものだからね」
蓮は首を傾げた。赤い薔薇が11本だからなんだというのか。蓮は花言葉に疎く、全くわからない。
「あ、寿司はやっぱり、ちゃんとしたのを買ってきておくれよ。君の分も好きに買っていいからね」
夢逢は布団の下からもぞもぞと、古びた財布を取り出すと、それを蓮に押し付ける。その中に数えきれないほどのレシートと万札が入っていて、蓮はまた驚かされた。