004 働け合理
(な、なんじゃこりゃあぁっ!?)
ちょっと前までキーボードを叩いていた5本指の面影などまったくない。
誰がどう見ても昆虫の手だった。
手の先についている2本の鉤爪のようなものをグーパーしてみると――
(……動く。嘘だろ?これが本当に俺の手なのか?)
自分の意思で動いた。動いてしまった。
(この手に、このボディに、この背中の感触……)
自分の身体を見渡し、周囲の状況も勘案したところで一つの結論にたどり着く。
(うん。間違いなくハチだな。)
死んで目が覚めたらハチになっていた。
事実は小説よりも奇なりとはよくいうが、これは奇を衒いすぎだ。
いや待てよ。それとも本当は、地獄に行った人はみんなハチになってしまうのだろうか。
それなら今、目の前を飛び交っているハチたちも元は人間だったのか?
あまりにも現実感がなさすぎて、取り留めのない思考が浮かんでは消えていく。
(てことは俺が今いるのってハチの巣の部屋のひとつなのか……どおりで狭いわけだ。)
自分がハチに生まれ変わったと認識したことによって、今までいた場所がハチの幼虫が暮らすあの穴のひとつだったことに気が付いた。
(よし、一旦落ち着こう。この状況を悲観してても始まらない。引き続き状況把握と今後とるべき行動を見極めることが重要だ。)
IT業界という合理性の塊のような世界で生きていた自分にとって、死んで生まれ変わってハチになったからと言って悲嘆にくれるなどナンセンス。
こういう時こそ合理にものを言わせる時だと、努めて冷静に次に取るべき選択に頭を巡らせる。
(右も左もわからない場所ならば……まずはミラーリングが無難か。)
ミラーリングとは、相手の仕草や言動を鏡のように真似することから名付けられた心理テクニックの一つである。
このテクニックには相手に親近感や安心感を与えるという効果があるため、何をやれば良いのか分からず、かつ、周りを刺激したくない今のような状況にはうってつけの行動と言えた。
(対象は……あのハチがいいな。あいつをジョニーと名付けよう。)
自分と同じくたった今羽化を終えたであろう個体を見つけ、適当な名前をつけたところで早速ミラーリングを開始する。
(さあジョニー。まずはなにをやる?)
注意深くジョニーを観察していると、ジョニーはカサカサと羽を何度か震わせたかと思うと、そのまま飛んで行ってしまった。
(ジョ、ジョニーーーー!!!)
本来であれば羽化してすぐには飛べないはずだが、さすが地獄といったところか、羽化してものの数秒で飛び立ってしまった。
(いや待てよ。ジョニーも俺と同じく元は人間だったはず!それなら俺にだってやれるっ!……ふう。)
一度心の中で呼吸を整えて、瞑想状態に入る。
(イメージ。大切なのはイメージだ。)
羽ばたく様子を頭の中でイメージして、背中に力を加えてみる。
すると――
(お?)
カサカサと擦れる程度の緩慢な動きだった羽は徐々にスピードを上げていき――
(お?おおぉぉぉ!?)
終いにはブゥゥゥゥンという音とともに高速で動き、それに合わせて身体が持ち上がっていく。
(と、飛んでる。)
身体は完全に宙に浮き、その場に滞空している状態だ。
あまりにもあっさり飛べた驚きと、当然初めての飛行体験をした感動によって心は弾むように踊っていた。
(すげぇ。地獄も悪いことばかりじゃないな。)
地獄に落ちてしまい、正直心は落ち込んでいたがこんな体験ができるのであれば落ちた甲斐があるというものだ。
(よしっ。だいぶ遅れちゃったけどジョニーを追いかけよう。前に進むには……)
ジョニーの姿は既に見えなくなっていたが、向かった方角は分かっている。
とにかくジョニーを追いかけようと、向かいたい方向に向かって身体をわずかに倒してみる。
(おぉ、進んだ!よっしゃぁっ!今行くから待ってろよジョニー!)
一足先に飛んで行ったジョニーを追いかけ飛び立つのだった。